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―おんの子(鬼の子)―  白蛇抄第14話

伽羅は、悪童丸がどこに出かけ、

誰に会いに行っていたかを知っていたが何も聞こうとしなかった。

もうふたと瀬もすると悪童丸は十二になる。

鬼の男子は十二になると、一人立ちをする。

自分で居を構え、自分独りで

生きるための糧を手に入れて生きてゆかなければならない。

辛く厳しい生活ではあるが、そのかわり何をしようと

どう生きようと、誰にも束縛されることはない大人としても認められる。

そうなったら、例え親であっても独り立ちをした

おのこを拘束する事はできない。

そのときが近づいてきている。

親でもない伽羅であるが、

いずこの母鬼でも潜り抜けなければならない別離に

確固たる心を構えようとしていたのである。

だから、今は伽羅の手元にいる悪童丸であっても、

悪童丸の独立と自由を認めてしまわなければならない。

誰のものでもない。

悪童丸は悪童丸自身のものである。

そう考えてきた伽羅は、

悪童丸の生い立ちを包み隠さず話し聞かせてきていた。

ゆえに悪童丸は伽羅が母親でない事も知っているし、

自分が鬼と人との間に生まれ半妖の血を宿している事も理解していた。

「勢という名前はの、母様の在所の伊勢からもろうたそうじゃ」

くったくなく、一点のかげりさえない性質は

かなえそのままであることを悪童丸は知る由もない。

勢から聞かされた母親の話はもとより、

姉である勢の些細な話も悪童丸は伽羅に話している。

「姉さまはほんに、きれいなお人じゃ。母様にようにておるんじゃ」

「そうかえ」

伽羅は黙って頷いて見せた。

悪童丸を拾ったときのことを伽羅は思いだしている。

上等の絹にくるまれながら、

悪童丸は生まれてすぐに衣居山にすてられた。

伽羅には海老名の行動を予測できている事であったので、

片時も目を離さずに海老名の動向をみつめていたのである。

生まれ来る子は主膳の子か?

童子の子か?

海老名の行動がそれを明らかにする事であろう。

おそらくは、十中八九、童子の子である。

童子が居を大台ケ原から

かなえの住む長浜に近い息吹山に変えた事からでも、

それは図らずも暗目のうちに

童子の子であろう所業の果てを言い表していたようにも

伽羅には思えていた。

何度、童子に尋ねた事であろう。

「かなえを連れにゆかぬのか?何故ゆかぬ?もう、かまわぬでないか?」

伽羅の言葉に童子は首を振った。

「ならば、何故ここに来た。大台ケ原にすもうとればよいでないか?」

「せんないことを・・・」

童子の瞳から大きなしずくが音も立てずに流れてゆくのを見ると

伽羅は黙った。

「お前?生まれた子がお前の子であらば、その子はどうする?

その子はどうなる?」

大きな瞳が空の色を吸い込むかと思うほどに見開かれると瞳は海になる。

「のぞんではいかぬことじゃに」

「馬鹿な。見殺しにする気でおるというか?」

主膳の子であることをのみ信じ込もうとしている童子に

刺す様な言葉で童子の深淵を抉り出そうとする事が

どんなにむごいことであるか。

「あれは、幸せでおるはずじゃ。主膳は良い人じゃ。

かなえを真に思うておる。子をなくし去ったとしても

それを乗り越えて、主膳に添い遂げてよかったとおもうてくれる」

童子の子であらば

あるいは海老名がその生をついえることもありえると童子はふんでいる。が、死産と称してでも、主膳の子であった

と、海老名はいいつのってみせることであろう。

「お前・・子をしなせてもよいというか?」

「主膳のお子じゃ」

かむりをふって童子は己の中の事実をふさぎこもうとしている。

何もかも前世。今生の事ではない。

諦念を託った童子がわびている事は

かなえと過ごした七日七夜の日々である。

どうにもならぬ激情に魂も心も身体も解け流す事を許し、

結ばれたかなえをどうあきらめる事が出来る?

「いきていとうない・・なれど・・」

あの七日七夜が一生だった。

だが、それを誰よりも判っている己が死んだら、

かなえの七日七夜は誰が抱いてやれる?

たった七日の日々を誰がいとしんでやれる?

童子の苦しみをこれ以上、見ていられるわけもなく

伽羅はそっとその場を立ち去った。

そして、かなえは子を産んだ。

伽羅の予想をたがう事はなかったが、

かなえはもう一人悪童丸のほかに女子の子をうみおとしていた。

かなえ、そのままの面立ち。

姿かたちも人の子そのまま。

その子がかなえを死の淵から救い出す事になってゆく。

悪童丸を産み落とし海老名の手によって

その生をついえられていれば、

かなえは、ことの事実を悟って

もっと早く死を選び取っていた事であろう。

勢と名づけられた赤子は主膳にも光来童子にも似ていなかった。

が、海老名はかなえの母性を極めさすかのように言った。

「笑うとよう主膳様ににておらるる」

そうなのであろうか?

一抹の信心を育て上げてゆくためにも

赤子の笑顔はいたいけなさすぎ、

かなえは主膳との後世がしかれている事に

己を組み伏せていく事になっていった。

そうせねばならぬほどに主膳の心もまた

とめどなくやさしすぎたのである。

勢は本当はだれのこであろうか?

心の中に巣食った疑問さえ、主膳の情愛がかきけしてゆく。

それをつまびらやかにしてはならない

と、主膳の情愛がかなえを押しとどめさせていた。

赤子の名を決めるとき

「勢という名が良い」

と、主膳はいった。

その主膳の心の奥底がかなえの胸に痛い。

伊勢の姫君であったかなえに恋焦がれ

馬をかけとおし主膳はかなえに会いに行った。

恋しくて、恋しくて、心願思いをこめ弓を引き、

伊勢の地からかなえをめしいた。

伊勢の勢。

この名前にこめられた主膳の恋路の深さがおもいやられる。

伊勢の姫君が今ここにいて主膳の情愛を一心に降り注げられ、

愛は小さな命にかたちをかえたが、

今も尚主膳の思いは留まることなくかなえに流れ込んでいる。

その主膳の想いがかなえの胸に小さな錐をついたように痛みを

感じさせていた。

「この人をも・・くるしませてはならない」

勢の父である事を露一つ疑う事もなく、

かなえ一筋にいきおおす主膳をも、悲しませてはならない。

かなえをもってして生かせしめてゆこうという根源があるがゆえこそ、

そんな主膳で有らばこそ

童子もかなえの幸せを願ってゆけたのである。

そして、伽羅はすつられた悪童丸をだきあげた。

「みよや。かなえ。みよや。光来。お前らの子じゃ。おまえらの・・・」

童子はこない。

決してこの子を抱き上げにこない。

なれど、どんなに手を差し伸べたいか。

童子とかなえの思いを込めるかのように伽羅は悪童丸を胸にくるんだ。

それから伽羅は悪童丸を育ててゆく事になる。

初めて悪童丸が伽羅を母と呼んだとき、

悪童丸は二つになっていなかった。

が、その二つにもならぬ子に伽羅は語りかけた。

「我は・・お前の母者人ではないに。

お前の母様の事はもっとお前が大きくなったらはなしてやるに。

我の事は伽羅と呼ぶがいいに・・」

つぶらな瞳が伽羅の言葉に素直に頷いた。

「お前はあいのこじゃ。二つの意味であいのこじゃ」

小さな手を握り締めて伽羅は悪童丸をひざの上に抱いた。

言われた意味を理解するにはまだまだ幼い子供である。

が、かなえが母であることを

童子が父である事を知らせてやらねばならない。

教えてやらねばならない。

おろかにも幼子のいとしさにほだされ己を母と思わせてはならない。

この子はかなえと童子のあいのこである。

伽羅は悪童丸の生を何よりも尊び、

悪童丸の出生の物語を、かなえと童子をこの子に

知らせしめねばならないと決めていた。

悪童丸が九つになったときだった。

悪童丸は伽羅を前にして悲しい顔をして見せた。

「おいらはちがう」

外歩きをするようになり、他の鬼に逢う事になってゆく。

そうするうちに、たあいのない喧嘩をしてくることもある。

「なにが・・どうじゃという?」

伽羅は悪童丸の手を引き泥だらけの顔を拭いながら尋ね返した。

「おいらはみんなと違う。髪も目の色も違う」

喧嘩の果てに誰かに邪気なく言い放たれた言葉でしかないのだろうが、他の鬼と違う容姿が今日ばかりは悪童丸の心に応えていた。

「それはお前がとうさまのこじゃから」

「父様の子じゃというはわかっておるわ。

じゃが、みんな父さまがいっしょにおるに・・おいらにはわからん」

見た事もない父が悪童丸と同じような瞳をしており

同じような髪の色をしているといわれても

悪童丸の異形は己一人の物でしかない。

「おうてみるか?」

「え?」

「童子はおまえにおうたら・・」

童子の心の動きが伽羅にはわかる。

この子を前に童子はかなえへのいとしさにくるいふせるかもしれぬ。

その心を童子自身に覗き込ませることがどんなにむごいことか。

「伽羅?何で泣く?」

「お、お前に、今のお前にはわからぬかも知れぬが

童子はお前の母さまを思うとの、死ぬほど辛い。

お前・・それでも、おうてみるかや?」

「おうて・・み・・る」

自分の生が父親を悲しませるほどに、

恋しい人との間に育まれたと言うのなら、

その恋を痛みと供でなければ覗き込む事ができるわけはないのである。

ならば、この世に生を受けたその痛みこそが、

真実であり、己の由縁である。

ともに暮らさぬ父親の深淵を、受けて見る事こそが己の存在確証である。

「父さまは本当になくかや?」

『お前はつよいこじゃの』

そうでないのかもしれない。

光来童子の慄く姿こそが、悪童丸にとって、

己が生まれ出た価値の確証である。

それをみてみたいのであろう。

『こんなにも、寂しい心を隠してきておったのか?』

思っていた以上に、大人びている悪童丸なのである。

が、この事が、悪童丸の中に大きく深い根をはらせることになる。

父親の苦しみが、悪童丸の中に、植えつけるもの。

これが、この物語を始まらせるものになるのである。

光来童子の悪童丸を見詰る、その瞳がわななくようであった。

一目で己と、かなえの子であると、判ると、

童子は悪童丸の前で膝を突いた。

「父さま・・・じゃな?」

悪童丸の問いかけに答えはいらなかった。

悪童丸に差し延べていた手は、

迷うことなく父である事をあらわしていた。

わななく瞳が悪童丸を捉えると

「かなえ・・」

と、つぶやいた。

呟いた口元に大きな雫が落ち込んできている。

その雫がどこからつたいおちてくるものなのか。

悪童丸が捕らえた父親の瞳は、

伽羅にいわれたとおり、薄い空色をしていた。

まちがいなく、父さまなのだ。

光来童子は、差し延べた手を悪童丸のあたまにおいた。

「いくつになった?」

童子もまた、この子が、

自分を父親であると理解しているのをわかっていた。

「九つになる」

「そうか・・・。父をうらんでおるかや?」

「いんやあ・・」

「そうか・・」

あれから、いつの間にか十年。

かなえは相変わらずこの童子のむねにすんでいるというのに、

年月だけが勝手にたちさっていた。

「おいらは・・・」

伽羅のいうとおりだ。

滂沱溢るる父親の姿を見つめる事は、胸を切り込まれるように

―こんなにも・・・つらい―

一緒に暮らせば、ひがなこの姿に胸をふさがれていたのかもしれない。

―だから、おうてみただけでよい、にする―

「うらんじゃない」

「そうか・・・」

「母さまには・・」

どう尋ねようとしたのだろうか?

自分の問いさえ忘れさせるほど、

光来童子の瞳がさらに悲しく悲痛なものになった。

「あいとうなったら、またくるがよい。こんな父親でもよいのなら・・」

「ううん」

頭を振ったのはこんな父親ではないということにでもあった。

が、

「おいらも、もうじきに、十二になる。ひとりでくらすようになるに・・」

いまさら、父親恋しいなぞと言っていられなくなる。

「そう・・か」

「父さま。おいらが、うまれてきて・・よかった・・のか」

小さな胸に巣食う不安な問いかけを、

初めて、生を与えたその人に尋ねてみた。

それが、悪童丸の決別であった。

どう答えられても、この答えを今度は自分でみつけてゆく。

生きていてよかった。

生まれてよかったと、いえる自分にする。

己の手でよかったにする。

自分の手で切り開いてゆくだけなのだ。

だが、其の前に親の子である自分の真っ只中にたちつくし、

親に甘える最初で最後の自分に浸りこんでみたかった。

「お前の中にわしがおる。お前の中にかなえがおる」

童子はそうこたえた。

いきとしいけるものの中で一番いとしいものだった二人が

この子の中にいる。

「うん」

悪童丸は、うなづいた。

頷くことしかできなかった。

だからこそ、父さまはつらかったのだ。

亡骸を抱いて生きるような暮らしに耐えることを童子の情念がはばんだ。

いまだに、かなえをおもうている。

その思いがあるのなら、いまも悪童丸は

二人の思いの結晶であることには違いないのだ。

そして、今もって、かなえは

かほどに童子に思いをかけられる人なのである。

「其の母さまのこであるのじゃな・・」

そして、いまもって、思いをかけ続ける童子なのである。

『その父さまの子なのじゃ』

ならばよい。

童子の胸にすがると、悪童丸は小さくいった。

「父さま。悪童丸です」

と、

そして、童子の手をおしやると、

「さよなら」

と、告げた。

童子の深い瞳は、空の色に似ていた。

その瞳の奥にある光が物悲しくて、悪童丸は何度も

『母さま』

と、おもった。

あの人を幸せにしてあげられる唯一の人を、

悪童丸は胸の中で何度もよびつづけていた。

あんなにも、悲しい父親の瞳を思うと、

青い瞳をそのままに継いだ自分の瞳にも

其の人を映しこませてやりたいと思い始めていた。

いくらか年月がながれ、悪童丸も十になった。

十二にこだわることではないが、

もう少し伽羅の側に居たくもあった。

が、

―人里におりれるだろうか?―

伽羅との離別の前にはたしておきたいことがある。

童子との決別ははたせた。

が、心の中にひかかるのは、母かなえのことである。

伽羅に聞かされた姉、勢ともあってみたい。

己がかなえと童子の子であることなぞしらされてはいないだろうが、

ただ一人の同身である。

鬼と人の子である。

あいのこである。

そして、今悪童丸に伽羅が言った意味がやっと判った。

伽羅がいったとおり、愛の子でもある。

童子もいった。

「お前の中にわしがおる。かなえがおる」

と。

それは、また勢も同じ事である。

だからこそ、例え勢が何も知らなくても、

勢にあって映し鏡を見るように己という『あいのこ』の姿をみてみたい。

―だが、うまく人里におりれるだろうか?―

「おまえ?おんのこじゃな?」

障子が開け放たれ、顔を出した勢が

逃げようともしない悪童丸をみつけると、

いきなり掛けた言葉がそれだった。

「お・・おまえ。わしがこわうないのか?」

悪童丸の問いに勢の方が考え直していた様である。

「ほんに、いわれれば、こわうない」

鬼を見て、怖くないと言うのも妙なものである。

「可笑しなおなごじゃの」

いうてはみたものの、悪童丸には勢の血が

恐れを覚えさせないように思えた。

「こわうない。それに・・お前はひどくうつくしい」

「え?」

悪童丸も勢も知る由はないが、

このくだりは光来童子とかなえの出会いの再現をみるようである。

「そんな瓦のうえにおらぬでよいから、勢のそばにこや」

「よ、よいのか?」

「鬼なぞ見るのははじめてじゃ。

もそっと、側によってよう、かおをみせてくれや」

『そう・・いうものなのか?』

好奇心旺盛というのだろうか?

勢の部屋に入り込むと、勢のほうからにじりよってきて、

まじまじと悪童丸を覗き込んだ。

「青磁のようなひとみじゃの?鬼はみなそうなのかや?」

「いや・・そうではない」

「其の・・角に触れたらいかぬかや?」

「べ、べつにかまわぬが」

後に続く言葉がなんであるかなぞに戸惑っている姫ではなかった。

悪童丸が微かに頭を垂れると、勢のてがのびてきた。

「硬いものじゃな?だんだん大きくなるものかや?」

「う・・ん」

「ふううん」

これが姉なのである。

無論、弟とは勢は知るわけも無いが、

なぜか千年の知己のような心安さを感じていた。

「おまえはどこにおるのじゃ?」

何故今まで鬼がおるのもしらずにいたのか?

それは、どこか遠い所からながれてきたせいなのだろうか?

「衣居山におるに」

「ええ?」

存外近い所にいたという。

「ずううと、おったのかや?」

「そうじゃ。産土様で拾われてから・・ずううと、」

「拾われた?すつられたかや?鬼も子をすつるかや?」

「う。ああ」

「気の毒であったんじゃなあ」

面白い娘であると思った。

可哀想という上段から見た物言いはしなかった。

悪童丸の身の上を知ると、

こちらが切ないという《気の毒》という言葉を選んだ。

それがかなえから伝わる情の持ち方なのかもしれない。

「優しい女子じゃの」

今度は勢の方が悪童丸の言葉に

「え?」

と、いった。

「どうした?」

「優しいなぞといわれたことがないに。

いつも、おとなしくしてなさい。

おなごらしくなさいと」

「母様にしかられるかや?」

しかってくれてもよいではないか。

自分にはそばにいない存在なのである。

「いんやあ。海老名じゃ・・」

「海老名?」

「乳母やじゃ」

「ふうううん」

この海老名こそが悪童丸の風前のともし火のような命を

救ったのであるが、かなえの産婆を買って出たのが

海老名しかないという事を子供心に考え付くことではない。

「うるさいのだな?」

「うん」

やけにしっかりと勢は頷いた。

「そうか」

「なに?」

「うん。ならば、わしが来たのは」

「いえぬ。いえぬ。いいはせぬ」

「そうか。あ・・・。誰にも言うなよ。

誰に言うてもわしはもうこれぬようになる」

「鬼じゃからか?なれど。また、きてくれるということであるな?」

いつのまにか、またくる約束と心積もりが出来ていた。

さらに、かなえにもあってみたいのである。

それが叶わぬうちは、

一人暮らしの居所をどこにするかをきめかねてもいる。

まだ、さきのことではあるが、

今の悪童丸はこの地を後にするために、

心残りを一つづつつぶして行くだけのつもりであった。

城の中がひっそりとしずまりかえっている。

人の気配にもどこか重苦しさがただよっている。

妙だなと思いながら悪童丸は、

勢の居室の小窓の外ににじりよっていった。

「勢」

ことりと音がすると障子がひらかれた。

「ど、どうした?」

ひどく憔悴しきっている姉がいる。

「母さまが・・・」

かなえ、そのままのつぶらな瞳からぽろりと落ちてきた物が、

後をひいてゆく。

「な・・?」

「天守閣から、身をなげた」

「え?」

「もう、二十日もまえのことじゃ」

《な・・なくなられたというのか?》

「なんで・・あんな場所から落ちれる?

わざと落ちねば落ちれぬに。何で、死なねば成らぬ?」

「わざとおちたというかや?」

「そうとしか。考えられぬに」

悪童丸がはじめてかなえにじかに会ったのが二十日まえである。

かなえの死はそのことに起因するのであろうか?

「なんで」

「わからない。が、の、母さまはお前の事をしっておいでじゃった」

「う・・」

かなえは勢に何をはなしたのであろうか?

「母さまは、おまえにこれを渡してくれというておった」

勢が白い布を開くと小砥ぎの束がでてきた。

「わしに?」

「なんで?母様はお前の事を知っておった?」

「わしが」

「ん?」

「わしはおまえの母様におうてみたんじゃ」

勢はどこまで知っているのか?

言葉を探りながら悪童丸は事実を告げた。

「・・・」

「お前は優しい女子じゃから。

おまえの母様はどんな人かとおもうたに」

産土様に捨てられ、実の母を知らない悪童丸の

母への追慕がさせた行動であると勢は考えた。

「そうか・・・。それでしっておったのかや」

「うむ」

「なれど、何故これをお前に渡せと言うたのかの?

何かきいておるかや?お前と母様はどんなことをはなしたのかや?」

「わからぬ。わしは・・歳を聞かれたに。名前をきかれたに。

それだけだったに。おまえの母様もやはりお前と同じように・・・。

鬼をこわがらんかった」

「おまえは、この小束に見覚えは無いのか?

お前がもっていたものではないのだな?」

「う・・ん」

なんなのだろうか?

父親の光来童子に聞けばわかることなのかもしれない。

が、勢にそういえば、何故光来童子がわかる?

と、たずねられることであろう。

なぜ、自分が落としたものだと言わなかったのだろう

と、機転の利かなさを後悔しながら、悪童丸は小束をてにとってみた。

《母様はこの世におらぬようになってしもうたのじゃな》

「何で・・母様は」

勢の声が小さく漏れた。

この小束が其のわけを教えてくれる気がした。

が、悪童丸は何も知る様子ではなかった。

「おまえは・・母様にようにておるの」

落ちてくる涙を拭うてやると

「わしがお前の母様にわしの母様を映してみていたのを

しっておられたのだろう。

おまえと同じ歳のわしの境遇を哀れに思うて・・」

自分の身は自分で護るしかないのだよ。

と、かなえは小束をよせたのかもしれない。

それとも、今まで護ってやれなかった事を小束に託し変えて、

あの世から悪童丸をまもるといったみせているのであろうか?

「優しいおひとじゃから」

「それで、母様はお前への気がかりをはらせていたということかや?」

「たぶん」

死に行く人は、心の重荷を解きほどいてゆくと聞く。

「なにがあったかは、知らん。が、お前の母様はきっと本望じゃった、と、おもう」

「死ぬることがかや?しぬることが・・なんで」

「お前もおったろう?お前の父さまもおったろう?

お前が思うように何で死なねばならぬと思うほど

しあわせであったのであろう?

だったら、悲しくて辛くて死ぬるはずがない。

なにがあったかしらぬ。なれど、きっと、本望だったと。

それだけを信じてやらねば、もっと、悲しい」

「死んで、本望じゃったと?」

「そうじゃ」

共に「母様」と大声を上げる事もできず、

悪童丸は泣き伏す勢の肩をだいていた。

帰って来た悪童丸が暗いかおをしている。

「どうした?」

伽羅の声も密かに沈む。

「母様がなくなられた・・天守閣からとびおりたそうな」

「・・・」

かなえなら、有り得る事であると思っていた伽羅である。

伽羅は自分の弱さをしっていた。

だから邪鬼丸をなくした後、邪鬼丸を追えなかった。

後を追おうにも邪鬼丸の死んだわけが、

あまりにも不甲斐無さ過ぎたせいかもしれない。

色香に狂い、人間の女子に迷い挙句の果てに殺された鬼の後を追う?

お笑いぐさでしかない。

あまりにも情けない死にざまにだった。

想い思われてともにしんでくれといわれたなら、

そうもしたかもしれない。

だが、自分の事だ。

それでも共にいきおおそうとしただろう。

共に行きおおそうとした男を失くした痛みを抱えた伽羅を

光来童子は、だいてくれた。

うせ去った思いの丈を葬り、

いきることを選べたのは光来童子のくれたやさしさのおかげだった。

有り得たかった恋の果てを、

どこかで光来童子のかなえを思う心に重ね合わせながら、

この子をそだててきたのだ。

「お前が、かなえにおうたからじゃ」

惨い事実をつげることになる。

「え」

「かなえは、自分の子が光来の子か、主膳の子かしらなんだんじゃ」

「え、え?」

「おまえをみて、光来の子じゃと判ったから」

「それで・・・しんだというかや?」

「かなえは光来だけの物でありたかったのじゃ」

「すると・・わしにおうたせいで・・わしのせいで・・」

悲しい引き金を突きつけられて悪童丸は言葉をなくしていた。

光来童子におうてから悪童丸は

自分の事をおいらとはいわなくなっていた。

大人になろうとする自分である事を表すかのように

わしと大人びたいいかたにかわっていた。

だから、伽羅もあえて、おとなになろうとする悪童丸の理解にかけた。

「それがかなえにとってしあわせだったのじゃ」

悪童丸が勢に言った言葉が伽羅によってくりかえされている。

「母様には本もうじゃったというか?」

「そうじゃ」

「成れど。ならば・・父様はどうじゃ?父様をのこして」

かなえの一方的な死を攻める悪童丸ははっとした。

「な・・んで・・父様はたすけにゆかなんだ・・・」

「わからぬぞ」

「え?」

「光来のことじゃ。かなえを助けおおし、

代わりの死体をなげこんで、かなえをつれさっておるやもしれぬ」

「そうなのか?」

「わからぬ・・がの」

童子と共に生きることが叶わぬのなら死にます。

そういったかなえが神王の理にのまれ、それから十年。

いとし子が光来との愛を結実させていたとわかれば、

かなえはおもいのままにいきることであろう。

ただ、かなえが思いのままに生きると言う事は

かなえにとって死しかない。

かなえは生きるために死ぬ。

思いを張り巡らせ、童子はかなえをみつめつづけていることであろう。

そのかなえが死出の旅立ちを選んだ事を童子が知らぬわけが無い。

だから、伽羅は悪童丸に童子が救いにいったかも知れぬといってはみた。

いってはみたものの、伽羅にも、

童子の行動をおしはかることはできなかった。

かなえが飛び降りると判ったとき童子は、どうしただろうか?

かなえが思いのままに宙を舞う。

其の刹那が、かなえの至福の時であろう。

かなえは地べたに叩き付けられるその瞬間まで、

童子の名を胸に何度も刻みつけるように唱える。

そのさいわいの時のまま、童子はかなえを逝かせるのだろうか?

頭骨が砕け脳漿が、どろりと土の上にたれおちてゆく。

童子はかなえがおのれを呼ぶ声を聞きながら、

かなえの死をうけとめるのか?

やっと、童子だけの物になるかなえの最後の声を耳に刻み付けるのか?

それとも・・・かなえの死を知った瞬間。

童子もまた、あとをおうのではないか?

いや。ありえない。

童子が死んだら、あの七日七夜は誰がいとしんでやるという。

だとすれば、悪童丸に言うたように

童子は本当にかなえをうけとめにいったか?

伽羅は無念な思いで首を振った。

それが出来る男なら

とうの昔にかなえを攫いに行っていたのではないか?

前世のことなのだ。

かかわっては成らない事であると、

どこまで、自分を赦さないでおくつもりであるのか?

自分に許されるものは、思うことのみだと、諦念しきったというのか?

自分を許さないことが、かなえにみせられる誠意だと言うのか?

間違っている。

例えどんなに崇高な思いであろうと、

どんなにか己を戒しめれようとそれは間違っている。

欲付くで、己を汚しかなえを汚してゆけば良いではないか。

―童子。お前はあの時何故我をだいてみせた?―

邪鬼丸が死に、よりどころを失っていた我を

抱いて見せてくれたお前が、なぜ、かなえをだきとめてやらぬ?

おまえこそが、あの七日七夜をいきおおしつくしたというのか?

もう、お前はその時に死んでいると言うか?

―ちがう。ちがう。ちがう。

悪童丸にあいにこやといったというではないか。

父親である自分を認めている童子が・・既に死んでいるわけなぞない。だから―

伽羅は自分が口に出した悪童丸への慰めを、

いや、希望を信じたいと思った。

かなえを連れ去り何処かに二人でひっそり暮らしているのだ。

それは喩えて言えば、前世という時の狭間に逃げ込んだように

ひっそりと静かに誰も判らぬ処にいるに違いないのだ。

「伽羅・・・これをしらぬか?」

「なんぞ」

悪童丸が懐から出してきたものは、小砥ぎの束だった。

「母様がわしにというて、勢にあずけておった」

「童子のものかもしれぬな」

「やはり・・そうかの」

「あいにいってきいてみてくるか?」

童子にである。

「いや・・・いい」

それがいいかもしれない。

童子が一人で伊吹山にいるとしたら、あえるであろう。

が、それはかなえを逝かせたということである。

かなえを連れ去っておれば、きっと、童子はもう、伊吹山にはいない。

ほんの一縷の希望の有無を確かめる事ほどこわいことはない。

あるかないかわからないからこそ、

希望をゆめみていられるということもある。

この子もまた伽羅の言葉を鵜呑みに

かなえの存望を簡単に信じるほどに、

光来の心を見抜けぬ子でもないのである。

「光来のものならば、それを、お前に託すかなえの心根がわかるか?」

「う・・ん」

「ならば、良いではないかや?もう、お前の懐におさめておきや」

「うん」

勢にも、母様は父様とどこかでいきておるやもしれぬ。

死んだ事にしておかねばならぬのだ。

だから、もう逢う事はないがいきておらるる。

そういってやれればよいと、おもった。

だが・・・いえぬことである。

勢が鬼の子であることも、

勢の父親が光来童子である事もはなしてはならぬことである。

勢にとって母はかなえであり父は主膳であるのだ。

悪童丸がかなえと光来の子である事を誇りに思うたように

おそらく、主膳の子でありかなえとの子である事を

喜ぶ勢もいるはずである。

そして、何よりも童子が勢をも連れ去ろうとしなかった裏側が判る。

かなえと共に人としていかせしめたい。

鬼になどなってはならぬのだ。

いくら鬼を恐れぬおなごといえど

鬼である血が流れている事なぞあかしてはならぬことなのである。

そして、また、主膳が父でない事を決して言ってはならないのである。

だからこそ、かなえは小束を悪童丸に託したのだ。

鬼である光来童子を本意におもうている。

其の思いは、己が姿も鬼であり、

光来とかなえの子である事を知っている悪童丸にしか、

判らない事である。

「勢はなにもしらぬまま、いつか、どこかの殿にとついでゆくのだな」

真実を知らぬまま、人としていきてゆくことになるのである。

早ければ十三にも成らぬうちから輿入れはある。

「あいの子は、やはり・・わしひとりじゃ。おんの子もわしひとりじゃ・・」

悲しいひとりぼっち。

だが、父光来は一人ぼっちでかなえを思っていきてきた。

「わしも少しは父さまのきもちがわかるようにおもう」

勢にこそ、さいわいあれ。

主膳にかなえを託した光来の気持ちはこういうもの

と、近いのかもしれなかった。

かなえに主膳がいたように、勢にもいずれ人である男が寄添ってくれて、平凡で幸せななだらかな日々が続くことになるのであろう。

が、悪童丸の言葉を聞く伽羅はほんの少し暗い眼をしていた。

悪童丸が目ざとく伽羅の顔色に気が付くと

「?伽羅・・なんぞ」

「いや、なんでもない」

「いや、というかおではないわ。いうてしまえ」

「う・・む」

伽羅には一つだけきがかりがある。

「お前。妖術をおさめにゆけ」

「なん?どうして、また、急に?」

「血がこわいのじゃ。

童子のてて親が人と通じて童子をうましめた事は

はなしてあったかの?」

「いや・・きいておらぬ」

神妙な顔になる悪童丸である。

光来童子のてて親は如月童子である。

***「七日七夜」においてほんの冒頭にしか登場していない鬼である。***

「光来童子は如月童子が外つ国の女子にうませたこじゃ」

「それで・・」

それで、悪童丸も其の血を引いて異形の姿をしているのである。

「うん。だがな見目形などどうでもよいことじゃ。

今のお前に言うてもわからぬことであろうが・・・」

「いうてもみんで、わかるものかや?」

「そこじゃげな。言うても、判らんじゃろうが

言うて置かねばなるまいと思うておるに・・」

「うむ」

先行きの事であるのだと察しは付いているが、

伽羅が何を言い出すのかよく判らない。

が、聡明なこゆえ、伽羅の話を

しっかりと聞こうという顔つきになっていた。

「つまり、光来童子は人の子であり鬼の子である」

「あいのこじゃな?」

「そうじゃ。じゃが、そんな事なぞ他にない話ではない。

阿部清明という陰陽師なぞは狐と人のとのあいの子じゃといわれておる。人の中においても姿が人を留めておれば人のなかにすもうておる・・」

「うん」

「じゃがな。気になる事はそんなことでない。

お前もいずれ、どこぞの女子をすきになるときがくる」

「わしがか?女子なぞめんどうじゃに。だいいいち、口煩そうて・・」

伽羅の事をいってもいるのだと気が付くと、

悪童丸はぺろりと舌を出して黙った。

伽羅はとがめる様子も見せず

「そのように、今のお前には判らぬ事なのだ。

生きているものであらば、おおよその

男も女子も心の中に自分ではどうしようもない、

今までと違う心が生じて来る」

「其の心が、女子なぞを好きにさせるということかや?ありえぬわ」

「其れはの、ほたえというての。

その身体から、其の心から、其の血から

勝手に湧いてくるものであるから

一旦湧き出したらもう自分の考えの及びつかぬほどに

歯止めがかからぬものなのじゃ」

「ふうん?」

「じゃがの。皆同じほたえをむかうることであれば

其れもどうでも良いことじゃ」

「なんじゃ?伽羅の話はどうでもよいことばかりではないかや?」

伽羅は首を振って見せた。

「ここから話さねば今のおまえにはわからぬ」

「ふううん。すると、これからが本当のはなしということかや?

其れが妖術をおさめろということになるかや?」

よくわからぬ血の話とほたえが

何故に妖術にむすびつくことになるのか?

興深い話を聞くかのように悪童丸の瞳がくるりとうごめいた。

「ほたえは身を焦がす。それほど狂おしいものでな。

時にそのほたえのせいで、命を落とす事とてある」

「嘘、じゃろう?」

ほたえなぞというものさえうまく理解が出来ないのに

そのほたえが己の命を落とさす?

「いんやあ。伽羅の・・」

邪鬼丸をどう呼べばよいかに伽羅は迷った。

「うむ。伽羅の夫になるはずだった男は、

人間の女子にほたえをあげた挙句に

首を切り落とされてころされてしもうたわ」

「其れは、人間の女子にちかよったせいではないか?

ほたえのせいではなかろう?」

「別段、鬼だというせいばかりではないんじゃ。

邪鬼丸とて、人間の女子になぞ近寄ってはいけないのは

重々に承知しておったわな。

なれど・・ほたえが邪鬼丸をひっつかんでしもうたんじゃ」

「そんなものなのか?

ほたえと言うものはそんなにいうことをきかぬものなのか?」

ほたえというものを己の子供か何かのように言い表す悪童丸が

伽羅には可笑しかった。

「そうじゃ。そのほたえに

お前もつかまれてしまうようになったときにな・・」

「う・・う、うん」

いずれ、ほたえの春を迎えることになるという事が

まだ納得出来なくて、悪童丸は不承不承に頷いて

伽羅の言おうとする事に耳を傾けた。

「お前の血が人の女子をもとめるようになるんじゃ」

「え?」

「如月童子の外つ国の女子への焦がれが

人との間に光来をうましめたがの。

光来が如月童子と違うことは、

光来の血がかなえを焦がれさせておることじゃ」

「血が?どいいうことじゃ?」

「光来の中には人の血がながれておる。

其の血が人を恋しくさせてしまうのじゃに」

「ううん」

伽羅の言う意味が判ると悪童丸は首を振った。

「なれど、わしはそうならん。わしは・・わかっておるに」

「何が?何をわかっておるという?」

「鬼と人は一緒には成れぬが本当なのじゃろう?

だから父さまは・・ひとりで・・」

「う・・ん」

悪童丸も己が成ってはならない仲で生まれたという事は理解していた。

「だから、父さまはあんなに苦しんでおられた。

わしはそんな苦しい事なぞ、繰り返しとうはない。

わしが父様に、母さまに、してやれる事は

同じ事を繰り返さぬ事ではないか?」

悪童丸のいう事は、そのとおりである。

幼い頭で悟った生き方は、因縁納消ともいえる宗教の奥儀である。

が、因縁と言う物がそんなに簡単に

おのれの思い一つで立ち消えるものでない事が悪童丸には解らない。

判らないほどに己の心一つがどんなに操りにくいものであるか、

ほたえさえしらぬ悪童丸には量れるものではないのである。

「よしんば、おまえのいうとおり、

お前が己の血に負けなんだとしても・・。

あいのこはおまえだけではなかろう?」

「勢・・?」

「そうじゃ。お前が人の子でもあって、人を恋しく想うとするなら、

勢は鬼の子でもある。どうじゃな?」

「あ。あ・・」

何も知らない勢はどうなる?

「鬼恋しさが沸かされるやも知れぬわの?

其の時お前がどうする?

勢が鬼にほたえをあげ、鬼の子をはらみ、かなえと光来の二の舞か?

お前さえ無事ならそれでよいか?」

「いや・・」

つまり。ほたえというは、そういうことであるか

と、悪童丸は頭の隅で考えてもいた。

「もし、その鬼がおまえよりつようて、

勢を想いのままにしたらどうする?」

「そ・・そんなことはさせん」

「だが・・今のお前では己の身さえ護れぬわの?」

「わかった。だから、妖術をおさめろというのじゃな?」

微かに下を向いて、伽羅は笑った。

「賢い子じゃの。お前がほたえに狂うことがあっても、

伽羅は一向に構わんが邪鬼丸のように、死んではほしゅうない。

伽羅はお前を、死なせるために育てたでないにな」

「伽羅」

伽羅の思いに頭を垂れながら悪童丸は不思議な事を言う伽羅だと想った。

命をなくすようなほたえに、

身をまかせても死ななければ良いと言うようにきこえる。

「なんで、かまわぬのじゃ?」

伽羅にたずねてみた。が

「いずれ、わかる。其れが命じゃに・・」

「はあ?」

命をなくしかねないような空恐ろしいほたえが命であると言う?

「いずれ。わかる」

「う・・・ん」

伽羅もまさか、勢が鬼恋しさにほたえる相手が

悪童丸になるとは思ってもいない。

むろん。悪童丸がほたう相手がまた勢になるとも、

露一つ考え付くはずもなかった。

もし、半妖の身の上の二人であるという事に

もっと着目していれば

二人が同じ思いを

同じ身の上を重ねれる相手が、

受け止めれる相手が、

投げ渡せれる相手が

他にいないという事にきがついていたであろう。

特殊すぎる感情をかさねられる相手が実の姉弟であったとしても、

それでも、お互いに他に誰もありえないと、

きがつくべきだったのかもしれない。

そして、実の姉弟という事実を知っているのは悪童丸だけである。

勢はしらない。

知らせられない事実を前に悪童丸が、勢を突き放す事もできず、

事実を話す事もできず、いったいどうすればよい?

こんな懸念さえ伽羅は考え付かなかった。

考え付かぬほど姉弟であるという事実が伽羅には前提すぎたのである。

「伽羅。そうは言うが・・わしは誰に妖術をおしえてもらわばよいに?」

「あんずるな。伽羅がしっておる」

「そうか」

伽羅との離別がやってくる。

悪童丸は少し寂しげな顔になった。

「と、いうてもな。お前が十二になってからじゃに」

「まだ、いけぬのかや?」

妖術師は年に拘るものらしい。と、悪童丸は思った。

「いんやあ。鬼のおのこは親の元で一巡りを暮らして守護を得るに」

「ひとめぐり?とはなんぞや」

「子、牛、寅、卯、辰・・の十二とせで一巡りじゃに」

「ああ・・そういうことかや?」

「十二でひとり立ちしようという鬼の意気地に、

親の守護に、よせてやろうというかむはからいじゃと伝え聞いておる。ひととせでもはよう、親元を離れると

その年の守護はのうなるときくに・・」

「ずっとということか?」

「そうじゃに。たとえば、お前が子の歳を抜かしてしもうたら

十二とせごとの子の歳には守護がのうなって、

いらぬ厄災がふりかかるというに」

「ふううん。それで、十二年は親の元におるというのか」

伽羅は悪童丸を覗き込んだ。

もう少し伽羅と一緒におれる方が良いと言う、

心もとない子供心がうかんでいる。

「伽羅は親ではないが、まあ似たような者じゃで、守護はえられよう?」

「うん」

伽羅の思いはありがたい。

伽羅がおらねば悪童丸はとうに死んでおったろう。

其れを救われただけでもありがたいのに、

伽羅は自分をようおもうてくれおる。

「伽羅。わしを拾うてくれたのが、伽羅でよかったとおもうておるに」

「我も、おまえがおってくれて、よかったとおもうておる。

親でもないに、よう、しとうてくれて、伽羅は・・」

伽羅の声が涙につぶれそうになった。

「ああ。腹がすいたろう?今。何ぞつくってやるに。

囲炉裏に粗朶をくべや。伽羅が作るのをようみておきや」

伽羅はもうしばしの悪童丸との暮らしの間に教えられる事は、教えておいてやらねば成らないと思い直していた。

宗門の戸を潜り抜けると、春がそこまで来ていた。

かなえの四十九日に墓所に骨を埋める事はできなかった。

荼毘に付す身体もなく、惹ききれた内掛けに包んだ

僅かな手の残骸だけを土に埋めると、親子は弔いを終えた。

それから、二月ちかく。

かなえの無残な死にざまが、主膳をすっかり面やつれさせていた。

「父さま」

勢が主膳を呼んだ。

かなえの死が一番応えている人に、

かなえの死のわけなぞ聞けるわけがない。

「桜が咲きかけておりまする」

せめて主膳の心をすこしでも浮き立たせてやりたい勢でしかなかった。

「あ、あああ」

主膳の眼に映った桜は満開の桜に見えた。

その満開の桜の下に敷き詰められた緋毛氈の上で、かなえは茶をたてた。

「父さま?」

「あ」

勢が主膳を覗き込んだ。

勢はなんと、かなえににておることであろう。

「元気をだしてくださりませ」

かなえがそういっている。そんなきがした。

わずか十の子が母を失った悲しみを堪え、父をはげまそうとしている。

「一穂もうまれましたに・・ないてなぞおられませんに」

大人びた口調で父親をそっと諭す口調が

やはりかなえを思い起こさせられる。

「そうじゃな」

先年のことである。

主膳は嫡男が生まれぬと重臣に詰め寄られた。

勢が生まれたが、後のないかなえであった。

「じきに・・じきに・・次が・・」

子は宿ると信じていた主膳は家臣をなだめてきていた。

そのじきにが七年八年となってきたとき、

かなえへの寵愛を判っていすぎる家臣も腹をくくった。

「殿。側女をもたれよ」

頭を下げる重臣を前に主膳は頷くしかなかった。

かなえとの間に睦事がないわけではない。

が、どうしたわけか。

勢の後。主膳の胤は、かなえに根をおろそうとしなかった。

「なにが・・いかぬのじゃろうか?」

と、考えた時もあった。

が、主膳はかなえを世継ぎを生ませしめるために

伊勢から貰い受けたのではない。

共に居たい。側におってほしい。

たった、それだけの心根でしかなかった。

恋しくて恋しくて。

たった、それだけであった。

だが、一国一城の主の身の上は、

主膳を一途な男としてだけの幸せに浸りこませる事を赦さなかった。

―わしには、かなえがおるのに・・・―

この憂いを拭い去ったのがほかならぬかなえであった。

「八重さまの所にわたらせくださりませ」

かなえの口から側女に据え置かれた八重の名前まで言われた。

―誰がかなえにいらぬことをいうた―

かなえがどんな思いで八重の事を口に出したか。

いや、八重の登城がなんのためであるか。

八重の存在がなんであるか。

其れを知らされた時かなえはどんなにか己をせめたであろう。

男子を成せない。いや子すらも孕めない。

自分を責めたかなえは主膳が進退きわまったのをさっしたのである。

だが、

「かなえ・・が、わしにそういうか?」

唇をかんだかなえである。

主膳にいかせとうないといえる自分ではない。

この頃に海老名は、かなえに後が出来ぬ事に一つの推量を得ていた。

―かなえ様の血は、童子に馴れたとき

すでに鬼の物に塗り替えられてしまっているのではないか?―

破瓜の傷跡から童子の精が入り込んでゆく。

かなえの思いが童子の精をうけとめ、

そして、かなえの血をも童子のものにかえている。

だから、主膳の胤を受け止めてみたところで、胤は育ちはしない。

かなえの血が、童子の思いが流れ込んだ血が、主膳を拒絶するのだ。

―孕むわけなぞないのだ―

かなえが童子に抱かれた其の時にこの運命は既にさだまっていたのだ。

それに、今頃気が付いたのである。

海老名がこんな風に思った頃には、

やはり、かなえの中にも同じような疑念が生じてきていた。

―童子のものでしかないのではないか?―

確証はない。

だが、主膳の思いを受け止めさせないほどに、

今も尚この身体が童子のもので有り得るのなら

―恋しい人のものである―

想ってはならない想いに胸をえぐられながらかなえは

もしそうであるのなら、と、いうせんない喜びをあじわっていた。

だからこそ、主膳にいってくれるなという言葉を投げかけれなかった。

心底が童子を求めている。

いくら主膳と身体を重ねようと、

主膳のものに塗り替えられない血こそかなえの思いのあらわれである。

それならば、どんなにしても、

きっと子が宿る事なぞ有り得ないのではなかろうか?

そうでなく、ただの石女になってしまった体なのかもしれない。

だが、いずれにしろ、其れが主膳を窮地に立たせている。

「八重さまも女子です。

女子に生まれ、其れを望まれぬ不幸せは、

主膳様の寵愛を受けて子を孕めぬかなえの不幸せをみるようです」

このかなえの言葉も嘘ではない。

鼎に一心に思いをかける主膳の心が有らばこそ、

かなえも主膳の側にいることに勤められ、

主膳の情愛に身体を預ける事をいとわずにおれたのであろうともおもう。

「かなえ・・・」

「どうぞ・・かなえの不幸を

八重さまがすくうてくれるとおぼしめして」

八重のところにわたれと言うか?

八重をだけというか?

「不遜な言葉で御座います」

八重を子を孕ませる道具のようにいうことである。

「かなえ」

主膳はかなえをかき抱いてはらはらと涙を落とした。

「なんで、子を宿さぬとお叱り下さいませぬ?

なんで、かなえをせめませぬ」

主膳は俯けた顔を上げると激しく首を振った。

「なんで、おまえをせめれよう」

そして、かなえのために主膳は、八重の元にわたった。

そして、男の身体の不可思議さを主膳は知らされた。

かなえ以外の女人を抱けるとは、想わなかった主膳であったが、

身体は見事に主膳を裏切った。

かなえへを裏切らせる己の欲情の汚さに嫌悪を抱いた主膳は、

その一度で八重に懐妊がある事を祈り続けた。

其の時のたった一度の行為が

一穂という嫡男をうませしめさせたのである。

かなえはそれで我が身をはかなんだのであろうか?

それとも、嫡男を産んだ八重のために身を引いたのであろうか?

主膳が思いつくことはそれだけであった。

が、そのどちらとも違うとおもう。

最後の日になる前の日にかなえを抱いた。

かなえは確かに

「ああ」

声を漏らしその快さに酔い痴れると

「愛しい」

と、小さくつぶやいた。

心地よさ其の物がいとしいのか。

それを与えてくれる主膳がいとしいのか。さだかではない。

が、そのかなえが死ぬわけがない。

自分の裏切りがかなえをおいつめたのか?

かほどにいとしい。

かなえは最後に主膳にそう告げて、

主膳の裏切りの辛さから逃げたということなのか?

何もかもあからさまにせず

ひっそりと自分の中で悲しみも辛さも押し殺して

逝く事を選んだというのか?

「母さまは時折お転婆でありましたから

楼上の雀の巣の卵でものぞいてみたにちがいない」

「え?」

精一杯の知恵を絞り勢はかなえの死が

不慮のものであると主膳に云おうとしていた。

「そ・・そうかもしれぬ・・の」

黒・・黒つろうないかや?

愛馬にそう声をかけたかなえである。

だったら、雀の子へにでも、

楼上から屋根に伝う阿呆をやりのけるかもしれぬ。

「だとしたら、かなえは困ったおてんばをしたものじゃの」

「はい」

勢がわんわんと泣き出すと主膳は、勢の手をつないだ。

「城に帰って・・かなえが可愛がった雀の子をさがしてみよう」

「はい」

小窓より顔をのぞかせた悪童丸に気が付くと、

勢は辺りを見渡し、襖のむこうまで、

誰もおらぬをたしかめ、手招きをした。

「ひさしぶりじゃに」

「うん」

こくりと頷く姉はかわいらしい。

ただ一人の血の繋がりである。

どの人よりも近しく感じられる。

だけど、だからこそ。

「ひさしぶりにおうたに。しばらく・・」

悪童丸は近づいてくる別離を告げたくなくもあり、

告げねば成らぬとも思う。

「しばらく・・・?」

留まった言葉の先が気になる。

「う・・うん」

「なんじゃな?おまえらしゅうない」

素直で歯切れのいい男童のはずであるに?

「あのな」

「う・・ん?」

言い渋る悪童丸をしっかりとらまえる瞳が優しい。

だから・・いいとうない。

「あのな」

「さっきから、なんじゃな?あのな。あのなと、勢もききあきるわ」

どうやら、かなえの勘気な性もうけついでおるらしく、

眉がきりりと吊り上がった。

「うん。あのな」

はたりと勢の目とかちあうと、

これ以上言い渋るわけには行かなくなった。

「わしはもうしばらくしたら、葛城山に篭るんじゃ」

「葛城山?あの生駒の近くの?」

「ああ」

「い、いつまで?」

「わからぬ。行を早く得れば早く・・」

むっと黙った勢の顔がぐっと鴨居をにらんだ。

上向きに目を見開いておらねば、涙がこぼれそうであった。

黙りこくった勢を窺う。

「お・・おこったのか?」

「べ、べつに」

言葉と裏腹に声はあらぶっている。

「おこったの。よわったのう・・」

悪童丸の言葉を独り言にさせるかのようにそっぽ向いたくせに

「なんで、おまえが、どこにいくで勢がおこらねばならぬ」

ますます、言葉がとがりだしている事にきがつかない。

「そうじゃの」

男というのはどうも、こどもである。

寂しくなると言い出せない勢の言葉をまにうけると、

「もう・・こぬほうがいいのかの?」

あと、十日?二十日?も、したら葛城山中。

逢う事がかなわなくなる姉にあえるも数えるほどとおもった。

小窓に向かって立ち上がりかけた悪童丸である。

「達者で・・」

「ちがう。ちがう」

かなしい声だった。

寂しい声だった。

「いかねばならぬのか?どうしても?」

こくりと頷く悪童丸を見る。

「もう・・あえぬのか?」

そうではない。

だけど。

「わしが帰ってくる頃には、勢はきっと、どこぞにとついでおろう」

「そんなに・・?」

すると、今ここでおうて居るが、最後になりえるということなのか?

「誰もおらんようになる」

かなえが死が勢の心を悲しみに染めているのに、悪童丸も居なくなる。

「いやじゃあ」

勢の心が胸を刺すようである。

強がってみせてはいたが、勢が心をさらけられるは、悪童丸しかない。

「いくなとはいわぬ」

だけど。

「勢は、どこにも行かぬからはよう・・かえってきてくれ」

「そうはいかぬわ」

「長く・・かかるかや」

諦めきれない呟きを漏らした勢である。

悪童丸は違うと小さく首を振った。

「勢は、いずれどこかにとつがねばならぬ。

わしが事をまってなぞ、おられぬ」

「い・・いかぬわ。勢は男なぞきらいじゃに」

「阿呆な事をいうておれ。

そんな、わがままをいうたら、ばちがあたるわ」

「ばち?どこぞの男のところへ行かされる方が、勢には、ばちじゃわ」

「あほうじゃな。ほんまに、あほうじゃ」

「な・・ん?」

何を悟り深く溜息を付いて勢のごてをききながす?

「女子は子を生む。神様から与えられた勤めじゃに」

ふんと勢は悪童丸を笑った。

「神様がくれる勤め?その神様が所にとつげというかや?」

神様が与えた女子の務めなぞではない。

夫なる男が勢に強いる事でしかない。

「あ。あほうじゃ」

悪童丸が勢を言い表す言葉がほかになかった。

「あほじゃ、あほじゃというて・・」

勢が涙声になる。さらに

「勢は・・どこにもいきとうない」

「勢」

悪童丸は勢の頭を撫でた。

「女子がおってこそ、勢もわしもこの世にうまれてきておる」

勢が顔を上げた。

「女子の有難さを喜ばねば。勢もその有難い女子じゃに。

われが女子に生まれたをあだにしては・・・いかぬわ」

勢にはいわんや、悪童丸にとっても有難い女子、

母かなえが事を明かすわけにはいかぬが、女子こそが生をはぐくむ。

「う・・・・ん」

悪童丸を見上げた瞳が素直にうなづいている。

「勢が、どこぞにいくまでに・・あいにきてくるるの?」

「そうじゃな」

約束じゃぞと勢が細い指をだした。

指きりかと笑いながら悪童丸は小指をたてた。

「参らせ候。渡らせ候」

指きり唄をうたいだした勢に悪童丸がふきだした。

「勢・・それは・・意味が違う」

男と女の情恋の常。

今宵渡らせ、今宵参ろう。

僅かに赤らんだ耳元が勢の耳に識をいれたものがおり、

勢は意味合いを既に承知しているといっていた。

大人ばかりの中で育った勢は少しばかり耳がふけていたようである。

「おまえ・・しっておるか?」

大人の恋には、煩雑な感情が伴う。

その煩雑な感情が引き起こす事の一つが、先の指きり歌である。

「うん」

悪童丸が知るは理屈や噂話ではない。

春の野辺に集う獣はその存在さながら、

自然の営みを惜しげもなく悪童丸の目の中でくりひろげてみせる。

「ほたえと、いうんじゃ」

相手を求めずに置けない心が、さらに具体的な確証をほしがる。

苦しむ事を知らない勢も悪童丸も今は他人事でしかない。

僅かに嫁に行くこの先に

そのほたえに飲まれなければならないという虞があるぶんだけ、

勢の方がなまなましさをかんじている。

「男が皆おまえのようだといいのに」

無色透明。

山が育ちというのに、土臭い匂いひとつもない。

感情にいやな匂いが無い。

それが勢を落ち着かせてくれる。

異性に対しての不必要に波立つ感情もない。

「おまえは兄か弟のようじゃに」

「わしが事はわからぬが、勢は姉じやの」

「などか?」

「威張りんぼうじゃから・・・そういうておく」

たたき上げそうになる手をおろすと、勢が泣き出した。

城の中には勢と同じ年頃の者はいない。

勢が合える童は悪童丸だけであった。

「いつ・・いくんじゃ?」

涙を拭って問い直した。

「生まれた日が過ぎたらいく」

「それは?」

「あと十日」

「え?」

勢が目を見張った。

「なんじゃあ?」

「勢が生まれた日ももう・・十日ばかりじゃに」

「あ」

しもうた。いうてはならんことであった。

「同じ日にうまれておるのかや?」

なんだか、ますます近しく思えて嬉しい。

「ひょっとしたら、本当にきょうだいじゃったりして・・」

おんのこなぞと兄弟のわけがない。

疑うかけらのない心が事実を晒しているとも気が付くわけもない。

「じゃったら。勢・・角がはえてくるぞ」

「え?」

「爪もぐうううとのびて・・」

「あまり:・・うれしゅうない」

「勢は人でよかったの。わしがひとじゃったら・・よかったかの?」

鬼の兄弟でなく人の兄弟なら勢はうれしいというてくれるのだろうか?

「いんやあ。お前は・・おまえじゃからいいんじゃ」

「おんのこでもか?」

「うん」

勢自身が鬼になりたいとは思いもしなかったが、

悪童丸の姿はけして、いやではない。

むしろ、心ひかれるものがある。

それが何ゆえの感情か、

どこから生じてくるものかさえも気が付かない勢は

既に鬼に惹かれていることにも、気が付いていなかった。

ましてや、鬼という象徴の中に、男。

勢を抱く男を嗅いでいたとは、まだ十一。

幼い少女が気が付くわけがなかった。

「でも・・お前がことはほんに、おとうとにおもえるぞ」

勢の言葉をかみ締めながら、

悪童丸はこの美しい姉を顔を瞳に焼き付けた。

悪童丸がこなくなって三年の月日が流れた。

勢も十五になる。

お目見えの席に現れた陰陽師、白河澄明が勢と同じ歳だと聞いた。

だから、澄明を呼び立てたわけではない。

勢の居室に座り込んだ陰陽師に勢は尋ねたい事があった。

一つは勢の夫君がだれになるかということ。

もうひとつ。

「澄明・・・・なぜ。男に姿をこしらえる?」

「なぜ。わかりました?」

澄明は勢がこの秘密を嗅ぎ取った事を誰にも明かす気がないとわかった。

だからこそ勢の居室に一人よばれたということであろう。

「なぜ・・・だろう」

澄明の中に悲しい女が見えた。

それは、勢が己が鬼だと気が付いたせいなのかもしれない。

鬼を恋いうる女の血は悲しい。

なっては成らない血の叫びが勢に悲しみを深めさす。

これと似た女が澄明の中に居る。

だから、気が付いた。

「私は」

澄明が勢に話し始めた事は、澄明と父正眼以外、

知る事のない白峰大神との運命だった。

「なんとや?」

陰陽師でありとても、いや。陰陽師であらばこそ、

言霊の呪縛は実現させられる。

「いつ・・・しりてや?」

己の恐ろしい運命を享受する澄明は、

むしろ、悟りきったかと思うほどにすがすがしい笑顔をみせる。

「初潮のあとでした」

変わり目。

いままで、男でも女でもなかった幼女が

それを境に女という性を認識する。

勢もそうだった。

女である事実が先に勢のまえにたつと、

突然勢を襲った変化は

心のひだの中に沈み込んで勢自身も気がついてなかった事を

如実にさらけてみせた。

「私の事はようございます。

勢様は何かお気がかりがあって私をおよびなされたのでは?」

「澄明は己の運命のままにいきようときめておるのですね?」

勢の言葉は勢の心の迷いをたしなめるかのように聞こえた。

『何にまようておらるるか?』

「勢は・・・」

とどめた言葉は己が求むる相手が鬼であるというを

ためらったせいである。

「勢は想うひとがおります」

鬼へのゆらめきをいいかえてみたけれど、特定に想うひとなぞはいない。

いや、想う鬼は居ない。

漠然と鬼に焦がれる自分が居る。

「それでも、添うことのかなう相手ではない」

言葉の表面をつくろいながら

「やはり、勢も定められた夫君にとつぐしかないのですよね?」

運命のままに生きるしかない。

女の悲しい心を互いに映し出す相手は

同じ匂いの澄明の性を見抜く理由が合った。

だからこそ、不思議に澄明も

勢に己の運命をはなさせられてしまったのだろう。

「その夫君。いいえ。

運命に沿うしかない事を澄明に読んでもらおうかと思ったのです」

人としての運命を享受するしかないことなのか?

己の心。いや、もうすでにほたえというものに近いものかもしれない。

これを追従することさえ、既に間違いなのか。

己の中に湧いた鬼への恋慕はまた、己が鬼であるせいだろう。

それでも、勢は人としていきねばならぬのか?

「ご夫君は三条さま」

読んでみた運命の横に並ぶ異形の者を澄明は隠した。

勢姫はあるいはここまで澄明と同じ?

鬼の陵辱にあう?

だが、定めは確かに夫君を三条ときこしめさす。

乗り切るしかない時の流れの中の一つに鬼がおる。

そう。澄明に白峰大神がおる。乗り切るしかない。

澄明は告げる口を塞いだ。

「三条さまです・・・か」

「八卦です。かならずやとはいいきれませぬ」

澄明が運命をはなさせられるわけである。

勢姫は己に語りかけるかと思うほど

澄明に似たとおりこしがまちうけていたのである。

勢は澄明に聞かされたことを考えている。

血の中から沸く想いは己一人のものでありながら、己の勝手にはならぬ。

想いを追う事は、既に間違いである。

だが、苦しい。

初潮が全ての兆しだった。

―初潮のあと―

澄明も同じ事を言った。

勢は自分を知らせた一つの初潮のあとの出来事と

己に生じた想いを思い返していた。

勢はふすまに照らし出された鬼の影をじっと見詰ていた。

勢はそっと、後ろを振り向いた。

誰もいない。

すると、この影は?

蝋燭の明かりに照らし出されふすまに揺らめく影は

己自身の影と言う事になる。

もう一度勢は辺りをゆくりとみまわした。

間違いない。

―そうなのか?―

―そうなのだ―

己こそ鬼なのである。

今しがた、映った影を勢は恐れはしなかった。

いや。それよりも、確かに心に流れ込んだ慕情を勢ははっきりと見詰た。

悪童丸でない事はわかっていた。

が、その鬼の影に勢の心が動いた。

恐れではない。

狂おしい欲情というほうがよい。

その影の主に抱かれたいと言う思いが、確かに勢を振り向かせた。

そして、その勢の行動が、己こそが鬼であるということに

目を見開かせる事になる。

―ゆえに抱かれたいとおもうたかや―

己の中に巣食う、心の顛末を垣間見た途端に

勢は鬼への慕情と言う心のわけも一挙に知る事になった。

そして、何もかもが紐解け始めた。

勢は鬼の子である。

母、かなえは小研ぎの小束を悪童丸に渡してくれと言い残して、

楼上から身を投げた。

つまり・・・・。

悪童丸の父親こそが勢の父親ではないか?

悪童丸とは姉弟あるいは兄妹である。

そうなる。

同じ日に生まれた、同じ歳の子。

双生である。

「同じ日に同じ母から生まれながら、姿かたちが違うだけで・・」

悪童丸をすてたのは、鬼でない。

人。

考えられるは・・・海老名。

互いが違えば、すつられたは勢である。

二つ違えば、勢も悪童丸もすつられていた。

何もかも読めた。

霞がかかったように見えなかった母の死のわけもみえた。

母かなえは悪童丸に会った後に楼上から飛んでいる。

「あなたこそ、悪童丸にあうまで、勢の事もおんの子としらなかった」

そのかなえの真意はどこにある?

小研ぎ。

あれはおそらく、光来童子のものだ。

その小研ぎを母が息子である悪童丸に、鬼である悪童丸にわたす。

かなえの心は光来童子のものでしかない。

そういっている。

そういいたかったに違いない。

勢の父親が鬼なら、主膳は勢の父親ではない。

だが、この世に弟がいた事を、

勢がおんの子である事を素直に受け止めたのと同じに

やはり、主膳は父親でしかない。

血だけが情をはぐくむものでない。

たとえ、赤の他人とわかってみても、

依然として主膳は勢の父親でしかなかった。

これはどういうことか。

血のつながりがなくても親子の情はある。

ならば、

血のつながりがあっても恋情を育つ。

表面に現れていることの裏側の仮定が

現実になるのはもう少し先の事になる。

人として生きよう。

こう考えれば考えるほど埋められる鬼の血は腹のそこで唸る。

唸る声を宥めながら人としての生き様を模索し、

勢は澄明に言われた運命の人を見てみようと決めた。

三条と共に生きる。

人としての人生を送る事を三条こそが選び掴ませてくれるかもしれない。

勢を人として生きる事に執着させるに足る方である事を祈りながら

春の茶会の日を待った。

主膳が野点の趣向を思いついたのも、

一つには勢の歳の端のせいもあった。

そろそろ、嫁にださねばならぬかとも思う。

まだ、早くもあるがかなえとであった日の事をかんがえている。

自分がそうだったように政略的な婚姻を勢に強いたくはない。

若き日の己のように勢に焦がれる男が現れる気がしてならなかった。

心のどこかで勢を恋いうる男に自分を捜そうとしたのかもしれない。

かなえと自分の恋がくりかえされる。

心の底で今も燃え立つ主膳一生の恋の縮図を

かなえそっくりの面差しの娘が拡げて見せる。

どこにも流す事の出来なくなった恋情は、主膳に淡い夢をみさせていた。

だが、嫁に出すにはまだ早い。

が、かなえとであった時を考えれば、出会いとしては早くはない。

縮図を引く罫線を敷くだけだ。

主膳は、かなえが寄せてきた主膳への思慕を思った。

いや、敬慕というべきかも知れない。

かなえは幸せだったといえる主膳への情を思った。

思い思われる喜びにほほを染める娘だけが

かなえは幸せだったと言い切ってくれる唯一の人になる。

嫁にだしたくはないが、幸いであってほしい。

女子らしい感情に華やぐ幸せを勢にしってほしい。

娘を取られるという事になる。

なれど、幸いであってほしい。

親では与えられぬ男の感情がある。

かなえの父是紀もこんな気持ちであったかと

立場に成って見て、わかる。

『主膳なる若者がはたしてあらわれるだろうか?』

それさえ解らぬ事である。

嫁がせる事を覚悟するのはその先でよかろうに

親と言うものはどうにも先走りするものである。

ひどく・・苦しい。

勢を想うと体中の血が騒ぐ。

体内の血は急に加速し巡り巡って熱気をこもらせてゆく。

勢。

その名を呼んでみても、狂おしさが増すばかりだった。

熱気は抜け道を探すかのように一点に集中し始めてゆく。

一点は切なく張り詰めてゆく。

―これが・・・これが、ほたえか?―

勢にそれをぶつけることなぞ赦される事ではない。

悪童丸は一度は躊躇った手で、ほたえが張り詰めさせた物を

むずと掴んだ。

手淫である。

だが、今の悪童丸が、ほたえの苦しさから自分を逃す法はこれしかない。

ほたえは飛翔を求め、悪童丸の男根を固く張り詰めさす。

それが、勢を求めたがる。

「ならぬ・・・」

哀れな男の性に操られぬためにも、

狂うた男が、欲情の果てに実の姉に何かをしでかせぬためにも、

己がもっては成らぬ恋情を説き伏せるためにも

今はこうするしかなかった。

―勢・・・こがいに・・恋しいに―

張り詰めた内部を解放する瞬間でさえ、

このほたえが、勢ゆえであると悪童丸に教える。

―わしを、おいつめるな。

わしのほたえをこれ以上のぼりつめさせるな―

かぶせた手に白い精が勢いよく流れ込み始めると

知らずのうちに勢の名をよんでいた。

―いかぬ・・わしは弟のはずじゃに―

いつのまにか、勢を姉でなく女としてみている。

だが、決して己のかたわれにしてはならぬ人である。

決して己の片割れである事を確かめ、

かたわれを重ね合わせ一つの物にしてはならないのである。

だが、どうだ?

悪童丸の一物は確かに勢をもとめている。

勢こそがこのかたわれを拭えるといっている。

―いかぬ―

閉じ込めようとする思いは、

勢こそを抱きたい、

勢こそを我がものにしたいという思いの深さを知らせる。

若い性は直ぐに心の底をあらわせてみせる。

―勢。恋しいに・・―

ぐっと頭をもたげ悪童丸のほたえをあざわらうかのようである。

―勢・・・赦せ―

勢を想うが先か、ほたえが勢を思わすか。

さだかでないまま、苦しさが雁に手をのばさせる。

勢と一つになる事を夢想するしかない。

―勢、勢、勢・・・―

雁を押えさす快いうねりが悪童丸をつつんでゆく。

快楽の頂点は確かに勢への愛しさが、与えてくれるものだ。

勢と一つになる夢想の中で頂点を味わう。

勢を抱けば、与えられる頂点を己の手と夢想で与えつくした。

―勢・・苦しい・・・―

いとしさは何ゆえかほどに身をこがす?

僅かの宥めと慰めがどれ程の足しになったのだろうか

鬼の深い情念が時空を飛び、恋うる相手にうえつけられてゆく。

いや?

すでに勢の情念が先立った?

悪童丸に恋を植えつけたのは

勢の鬼を恋うる血が沸かすほたえの仕業だったのかもしれない。

緋毛氈が土に柔らかい。

野点の席に現れた三条は彼の父に同道され主膳に頭を下げた。

幾人かの要人を呼んだのは、勢のためだけではない。

婿選びだと知っておれば、

他の御仁も年頃の会う子息を主膳の元に使わせていただろう。

主膳とて、娘を売るような気はない。

邂逅というものは、偶然が作る。

ただ、偶然を生じさす機会をおおくつくる。

天の時、地の時、人の時があろう。

あの日あのとき。主膳がかなえにおうた。

どの一つがかけてもことはならない。

とくに人の時。

三条のご子息は眉目秀麗な若者であったが、

恋なぞという感情に興が湧くには、まだ、おぼこかったか。

勢を見る瞳も、どこか子供が、子供をみるようであった。

作法どおりに茶をすすると

三条の父は

「いかがですかな?」

笑いかけて問うは弓のことである。

「春は・・・むごいようで・・」

卵を抱く雉も、春を謳歌する兎も、次の命のために寸暇をおしむ。

「としをとりましたな」

ははとわらうて、息子道守をみる。

「遅くに出来た子はいっとう・・かわゆい」

臆面なく言い募る三条の裏側に主膳は胸がささくれる。

遅くに出来た子。一穂への処遇を

遠まわしに意見されているとわかるからだ。

「そろそろ・・」

表に出すべきであろうに、先んじては勢姫がことばかりにみえる。

勢姫が琴を始めれば、鞆にまで琴を誂える。

豪華絢爛なのは琴ではない。

主膳の溺愛振りであろう。

まだ、腕も左程という時期につり合いも取れぬような品を

娘に与えるに較べ

唯一の嫡男。一穂の噂はとんと流れぬ。

「一穂殿はいくつにあいなられてや」

「う」

勢が十五だからもう五つになるか。

考えなければ息子の歳さえわからぬ。

「上を下に置くような・・狂いはよくない。

いくら、わしがとて道守がかわゆうても、あとはとらせぬ」

いくら年が下であろうと、嫡男の立場の一穂が主家のすじである。

それを忘れたような、勢姫への溺愛はにがにがしい。

「おっしゃるとおりです」

「いや・・ですぎたくちを・・」

「いいえ。ゆえに勢が事もそろそろ・・」

どこぞにだす子であると、腹をくくろうとしている。

「ふむ」

それで、この野点か。

『よい、御仁がおるとよいの』

勢姫は随分大人びている。

それに較べ幼いほどの道守である。

並びすかせてみると似合わぬでない双方の美貌である。

だが、今の道守ではまだ、はやい。

急ぐことでなくればさきもあろうが。

少し、ばかり時があわぬと諦めるしかないか。

人の釣合を見るに聡い男は

あと、三年でも経っておればと茶をたてる姫と道守をみつめていた。

大きなためいきがでる。

三条様は麗しい方であった。

折り目崩さず茶を受ける姿は誠実な人柄を見せていた。

茶器を持つ手も優しい。

暖かな人である。

夫君ならば申し分ない。

結論を言えばそうなる。

『あの方が勢の運命(さだめ)の人』

だが、勢の事に一つたりとも

妻になりうる人かもしれぬという意識さえもっていない。

歯牙にもかけられぬというはこの場合当てはまらぬかもしれないが、

恋しさで己をひっ攫うほどの―男―が見えない。

つまり、勢は女子とも意識されていない。

押さえ込み無理やり勢の女をみせつける。

こんな激しさのないなだらかな感情で勢を牛耳られるか?

―苦しい―

この身にまとう鬼の血がさわぐ。

鬼が・・・恋しい。

鬼が・・・ほしい。

悪漢のごとく勢を押さえつけその激しさで

この鬼恋しい想いをみせつけられたい。

勢は鬼なのだ。

人であろうとすればするほど、一層鬼が恋しい。

当り前かもしれない。

己の基底が鬼でもある。

鬼をゆるすまいとする事は己自身を否定することである。

たわめられた思いは一層元にもどろうとする。

けれど・・・・。

勢はふっと思った。

ならば、鬼をもとむるば、今度は反対に人恋しさに狂う?

悪童丸?

お前はどう?

同じ身の上。

同じ半妖の血。

お前は人こいしいか。

お前は鬼恋しいか。

―あ

勢は気がついた事に瞠目した。

勢が鬼をもとむれば人恋しさにくるう。

人を求むれば、鬼恋しい。

鬼ではいかぬ。人でもいかぬ。

だから、それは、

鬼であり、人でなければならぬ。

自分と同じ半妖。

その血のものだけが勢をすくえる。

そんな者が他のどこにいる。

『悪童丸・・お前も・・この思いにくるしんでおるのか?』

「結実じゃの」

悪童丸の師。薊撫の呟きである。

無論、これも鬼である。

悪童丸に法を教えて早五年。

弟子の飲み込みの速さと

その速さを支える必死さを愛した。

最後に教えた縁者の印は、己の身を護るためのまさかの時のものである。

伽羅から童だった悪童丸に法を伝えよと頼まれた時。

薊撫は笑って断る気でいた。

ところが如月童子の孫に当るといわれた。

つまり、光来童子の子であるといわれた。

二人の鬼の血筋がどういう者であるか薊撫はよく承知している。

鬼ではある。

鬼ではあるが、如月の宿縁が光来童子に人の血を流し込み、

さらに光来童子に受け継がれた宿縁が

悪童丸の血をいっそう人の濃さにしていた。

悪童丸は半妖より、むしろ、いっそう人に近い。

なのに鬼の姿形を受け継いで生きねばならぬ。

鬼だけでないものを抱え込みながら鬼として生きねばならない。

人に近寄らずにおけなかった光来童子のように、

悪童丸もいつか人恋しさに狂う。

だが、姿形は鬼でしかない。

鬼でしかないものが鬼として生きるためには

あまりに鬼としての血がうすすぎる。

鬼と人の狭間で揺れ動いたとき、ほたえはどちらをもとめさせる?

鬼か?

人か?

後者であろう。

そして、哀れにほたえにくるうた鬼の死体がぶら下がる。

伽羅が恐れた悪童丸の血が持つ運命を変えてやる事は難しい。

だから、法をおさめさせたい。

命さえすくわれれば、人へのほたえさえのりきれれば、

生き行く術はあろう。

己の子でもない悪童丸への伽羅の情愛も深い。

伽羅の情にほだされるわけではなかったが

さらに薊撫の耳に打ち明けられた事実があった。

光来童子の子は悪童丸だけでない。

長浜が姫。勢もそうである。

悪童丸を己の血の宿縁から護るためだけにここに預けたいのでない。

同じ運命の姉を護りたい。

悪童丸の救いは己だけでは成り立たない。

姉。弟。この二人がそれぞれのかたちのままにいきる。

光来童子とかなえの二の舞を繰り返さぬ事が、

親孝行だと言い切った十歳の悪童丸のまことの成就である。

深すぎる深淵が運命をどう操るか。

到底わかりえることではなかったが、

薊撫は悪童丸をひきうけた。

それから、何年たったときだったろう?

夜半。悪童丸の密かな溜息と微細なる妙な蠢きが薊撫につたわる。

ほたえを迎え始めた悪童丸がいる。

とうとうその時を迎え始めた男をいさめることなぞできはしない。

ほたえはいきとしいけるものの、自然の摂理である。

けして、汚い事だなぞという観念をもたせてはいけない。

ましてや、うとむものでもない。

問題はほたえを操るか、

ほたえに操られるかである。

どちらを主従にするかによって己の生き様がかわる。

哀れなのは邪鬼丸がそうであろう。

己の命をついえるまで、ほたえに狂うことを許した。

比べ、光来童子はほたえを自分の意志で操った。

結果は今も悲しいおとこであろう。

が、それでも、けして、哀れではない。

ほたえが悪いのではない。

己の持つ因縁や、立場がむつかしい。

ほたえを操れたとて、相手と添う事が出来ないのは

ほたえのせいではない。

これを忘れて、ほたえをもつことをいましめることではない。

ほたえはいきとしいけるものの命の謳歌である。

賛美されるべき筋合いに近しい。

ほたえをしってこそ、また本当の大人になる。

欲というものにふられる事もない子供では、つかみ取れない真実がある。

薊撫は子供の域を脱出してゆく鬼を知った。

もうすこし。

もう、少し、教えれば今度は自分の足で宿命をあるく。

それからが、本道。

己に湧かされる因縁を、血から沸かされる想いを知らされる。

立場。鬼という立場。ほかに類のない半妖という立場。

何を思わされ、何を決める。

ほたえを知らなかった子供は親の手の中で遊ぶ子供でしかない。

今度からは自分が何もかもを定める。

結果も自分が引き受ける。

わたる綱を落ちた所で救うものはない。

ほたえという綱をわたる事になって初めて、苦しみをしる。

悪童丸の切ない声が抑えきれずに小さくもれた。

『苦しかろう?だが・・それでも、てばなせないものがほたえなのだ』

薊撫はきずかぬふりをして、ねがえりをうった。

あとは闇の中に身を沈みこませるだけだった。

行が明けた。

告げられた悪童丸がめをしばたたかせた。

「もう?」

「うむ。わしにおしえられることはもうない」

使徒になってはや五年。

悪童丸も十七になる。

ここに着たときに比べ背も伸びた。

声も変わった。

胸板も厚くなった。

なによりも勢が触った角も若人らしく伸びた。

童だった面影が消え、時に憂いを見せる顔が一層おとなびている。

「わしが教えられる事はなくなったが・・」

薊撫はたずねる。

「お前がわしに教えてほしい事がある」

「はい?」

なんだろう?

くるりとおおきくまなこが開かれ、不思議そうに薊撫をみる。

青磁を映した瞳が愛くるしい。

邪気ない瞳にすいこまれそうである。

この瞳で見詰られたら女子もたまるまいの。

薊撫に苦笑がもれる。

つまるところ、このことであるのだ。

「悪童丸。おまえは想うものがおるのか?」

「は?はい?」

突然である。今の今まで色恋にまつわる事なぞ

かけらにも話題に載った事がない。

「おまえのためいきは、そのようにきこえる・・」

ほたえだけに苦しんでいる者でないと思えた。

「あ。え。あ・・・」

薊撫は夜半の悪童丸の密か事を知っているという事であった。

答えに窮しながら、

師がほたえに苦しむ悪童丸を案じているという事だけは理解できた。

「おまえが答えとうないなら、かまわぬが・・」

どうこたえられたとて、どうにもしてやれる事ではない。

悪童丸の答えをしばし、待つ事にした。

手淫による解消を師は当然のように受け止め認めこだわりがない。

当然である。

自然である。

咎められるより先の認めの押しはすがすがしかった。

だから、心のままをいえた。

「おります」

そうか。それは、やはり、人なのか?

鬼であってくれればよい。

その女鬼がほたえをぬぐいさり、細やかな情愛が人恋しさを昇華させる。

いとしい女鬼をうしのうてまで人を追うまい。

いとしさが運命さえかえることもありえる。

悪童丸の因縁を抑えきるかもしれない。

「なれど、なってはならぬ人です。想うだけ・・」

やはり・・・

「人間のおなごか」

だが、悪童丸がここに着たのは十二の歳。

どこで、いつ、人間と接触しえた?

「人里におりたか?」

五年も前にかいまみた人間の女子一人におだを上げるほど、

既に人恋しさが悪童丸を牛耳るか?

「・・・・・」

黙った悪童丸に言うに言われぬ裏を感じ、

薊撫はここで初めて悪童丸を読みすかした。

共に暮らす相手を読む事はしない。

これは定法である。

だが、明日からは悪童丸はひとり立ちをする。

不遜であるが、戸惑った弟子の思惑が不安だった。

それほどに悪童丸は薊撫のこころに入り込み

いとしさをみせてくれていた。

読みすかした向こうに陰陽師が見えた。

悪童丸が慕う相手は姉。勢姫。

姉への恋情を外道という気はない。

考えてみれば判らぬことではない。

半妖の血。

人を求めるだけでない。

鬼を求めるだけでない。

同じ血が同じ血をもとめる。

穿ってみれば、もし光来童子のときにこのような半妖がおれば、

むしろ、童子はそちらをもとめたであろう。

ところがいなかった。

ところが、こちら悪童丸にはいる。

いたのが、たまたま姉だった。

こういうことになろうか。

が、それだけではない。

半妖だけなら、捜せばほかにもおるかもしれぬ。

悪童丸の青磁の瞳が悲しい。

まだ、混ざりこんでいる血。

外つくにの異人の血がある。

同じ血・・・。ほかにだれがおろう?

すると・・・。

姉。勢もいずれおなじか?

この血をもとめずにおけない?

繰り返さない事といった悪童丸の思いは甲斐がないものになる。

見えた運命に今更驚きはしない。

因縁という物はさもあろう。

光来童子が一国の姫と通じた。

これをおもうてみても、

やはり、どうしても親子は同じ事を繰り返さずに置けない。

だが、かすかに過ぎった陰陽師はどういうことであろう?

これが、悪童丸が命をてにかける?

もうすこし、陰陽師。白川澄明をたぐってみたかった。

だが、この陰陽師。

今は沼の神の守護のなかにいた。

―この澄明の話は「沼の神」編に改め、紹介する―

「ひさしぶりに」

勢の元に現れた精悍な若人が悪童丸であると判るまで、

勢の瞳は確かめるように鬼を見詰め続けていた。

青磁の瞳。

柔らかな薄茶色い髪。

そして、何よりも

「勢・・わしじゃろうが?悪童丸じゃが」

自分の名前を呼ばわった。

「あ・・」

言葉もうせはてる勢に

「まだ・・・嫁にいかなんだかや?」

笑うている。

「あ・・悪・・・」

つぶらな瞳から落ちるものは再会の喜びのしるしである。

その勢を抱きしめてしまいたい。

この想いを必死に抑え続け、悪童丸はいう。

「わがままをいうておるのだろう?あまり、ごてをいうておると・・」

すぐさま勢を読んだ。

「三条様が嫌気をさすぞ」

『や・・やはり・・そうなのか?』

陰陽師白河澄明の読みと同じ名をあっさりと口に出された。

「勢も三条様なら不遜はない」

「じゃろう?」

「じゃが・・」

久しぶりに会う姉との垣根は一つも無い。

それほどに話が通じる。

が、それを喜んでいる様子ではない。

「なんじゃあ?」

「・・・・」

「きにいらぬかや?」

「よいお人じゃ」

「ならば?なにを・・・」

「勢が」

勢の瞳がきっと悪童丸を見詰た。

「勢が鬼である事を三条殿では、牛耳れまい」

悪童丸は目を見張り己の耳を疑った。

「勢?今なんというた?」

「きこえなんだかや?」

「う、いや。

あ、もう一度いうてくれ。わしの聞き違えであったかもしれぬ」

「勢は鬼じゃ。そういった」

「な・・などか?」

「それを勢にいわすか?お前が一番しっておろう?」

どういうことなのだ?

勢は何をしっておるという?

「勢は・・・・」

悪童丸の胸に飛び込んだ勢は

女・・だった。

『勢?』

「勢は鬼恋しい。いんや、今、わかる・・・勢は」

勢が求むる事はわかる。

「なら・・ぬに・・」

「などか?」

悪童丸の手は既に勢を抱きとめている。

これが心である。

心そのものが表している現である。

「なら・・ぬ・・に・・」

勢に言う口が嘘である。

言う口が勢の口を吸う。

若い情念はおさえをしらぬ。

頭では判っている。

だが、それが何のはどめになる。

「勢・・・・」

おまえとわしは姉弟じゃ。

それがどうした?

確かに悪童丸の手の中にいとしいひとがいる。

これは事実だ。

かまいはしない。

いや。

これを受け止め。

これをぶつけるならば。

いま。しんでもよい。

いや。

今こそ死ぬればどんなによいだろうか?

からむことを赦すは己二人の意思である。

勢・・・・。

理屈も何も無かった。

歯止めも利かぬ。

ここに結ばれる喜びが現である。

二人の思いは自然を超える情念でむすびあった。

『勢・・』

『あく・・どう・・まる』

求める者に求められる喜びによい知れる勢がいっそう、いとしい。

「どんなにか・・」

どんなにか・・・こいしかったか。

『悪童丸』

この想いは同じ。

貫き通される破瓜の痛みが勢にしらせる。

『いっそ。いっそ。このまま・・・ときがとまればよい』

悪童丸と忘れえぬ破瓜の時を共有する。

この無上の喜びこそ、勢が悪童丸のものになりえた故である。

『勢・・・勢・・・・』

悪童丸の蠢きが勢の与えた頂点をあじわいつくす。

至福。

「死んでもよい」

勢は心底思った。

父。光来童子が愛した女性。

悪童丸が童子を思う気持ちがかなえへの追慕をうませた。

かなえを一目見たかった。

母を一目見たかった。

父の愛した女性を一目見たかった。

自分の生まれた証を見たかった。

だが、解るはずが無い。

どんなにいとしいものか。

解りえるはずが無い。

どんなに愛したか解るはずがない。

愛しながら会わない。

会わないとわかれる女性と何故結ばれずにおけなかったか。

解るはずが無い。

だが、

かなえは死んだ。

この悪童丸におうたあと。かなえは死んだ。

何をしらせようとした?

何をみせようとした。

さほどに恋しい、光来だと、命をかけてあかしてみせたか?

『勢・・・』

いとしい勢は既に悪童丸のものになりえた。

『父さま』

なってはならない恋に苦しんだ光来童子が今はわかる。

こんなにくるしい。

なれど、もとめずにおけない。

『勢?』

勢も、勢も、いずれ、その恋を明かすために楼上をけたぐり空にまうか?

『いかぬ。いかぬ・・・』

なってはならない。

うしのうてはならない人にわが手で因縁の進路をきめさせたというか?

「勢」

悪童丸をうろんげにみあげた勢である。

「勢・・・わしは、おまえの・・」

悪童丸のいわんとすることはわかる。

「解っておるに。おまえの母もかなえじゃろう?」

後悔はないという。

外道であってもよい。

畜生であってもよい。

「勢は、おまえがなんであろうと、この想い本意じゃというしかない」

『勢・・・』

はらはらとなみだがおちる。

『か、かなえ・・母も光来にそういうてくれたか?』

「勢・・・」

「勢にはよう解る。かなえは。このように。

お前のてて親を愛したに違いない」

慟哭が胸を突く。

「わしは・・実の姉を・・」

みあげた悪童丸の目に映った勢は吉祥天女だった。

「それでも、あいしております。

悪童丸・・。勢はかなえになりましょうに」

勢がいう事は勢に言われてなすことでない。

悪童丸の意思であゆむ。

「勢。わしらが光来童子とかなえになろう」

因縁どおりでよい。

親の繰り返しであってもよい。

なれど、流されるでない。

因縁に巻き込まれるでない。

二人の意志だ。

求める事を選んだ二人の意志だ。

『勢。わしらは光来童子とかなえになろうぞ』

どうしょうもなく、惹かれあう心。

これが父の思いだ。

これが母の思いだ。

二人を引き裂く宿命のときまで、

とめられぬこの想いを重ね結ばれる事をえらんでゆく。

『勢・・・いとしい』

いとしさは何ゆえこれほど身を焦がす。

『勢・・』

緩やかな愛撫が確かに重なった姉の心をさらにもとめてゆく。

「悪童丸。もっと・・勢を・・」

おまえだけに染めてくれ。

天に翳した手は悪童丸を捕らえ直し、

確かなおんの子の欲情を勢は二人だけのものとした。

自分で言うた言葉どおりである。

光来童子になろうぞ。

この言葉どおりがどんなに酷いものであるか。

勢をもとむれば求むる程光来童子の心がわく。

なってはならない。

勢を人としていかさせねばならない。

どんなにくるしくとも、その想いにたがえようとしても、

光来の心がそこからわいてくる。

くるしい。

勢をあきらめねばならぬ。

故に苦しい。

故に・・故に、もとめずにおけない。

『童子・・・あなたは・・・』

このおもいにくるしみながらいきぬいた。

かなしくも光来童子を解することこそがくるしみであり、

勢の愛をしった喜びがくれるものである。

「なんで・・・」

三条の姿を映すしかなかった悪童丸を責める勢であった。

「わしは・・ひきょうものじゃ」

悪童丸の言葉にぐっと歯噛みする想いを勢は堪えた。

『勢は・・・主膳を悲しませとうはない』

これがかなえの思い。

『三条のところにいくしかないは、わかっております』

なれど。せめて・・・それまで。

悪童丸として、勢を・・・・。

これもかなえの思い。

かなえの心は痛い。

恋しくて恋しくてならない鬼を諦めねばならぬ。

かむりをふった悪童丸の背をだいた。

『いくら。姿を変えてみても・・勢にはおまえでしかない』

主流の水を攫う後ろめたさは主膳という人への光来の懺悔ににている。

せめて、姿だけは三条をうつすことが、

勢が定めの人であると申し開きの心であろう。

何もかもが。

おんのこ。それを赦せない人のおごりのせいにおもえさえする。

『勢が悪いわけでない。悪童丸が悪いわけでない。

おんの子としていきられぬ。この世がせますぎる・・・』

勢の死への渇望がみえる。

悪童丸は勢に与える動きをおおきくして、

勢の活路をしらせる。

『嗚呼・・・・気持ちが・・よい』

この快さが至福である。

もっと、いきていたいと勢を切なく思わす。

ほとばしる。そういう。

ほとに走る思い。

ほとばしる想い。

いきていきおおしたい。

抱かれ抱かれつくされたい。

このほとばしる想いこそが性があたえるもの。

「しんではならん」

実が教える生への欲は果てしなく快い。

「いいな。勢・・しんではならん」

「ああ・・」

覚え始めた快さが勢をうなづかせる。

一つになった快さが、勢を頷かせる。

この幸いをおぼえておく。

たった一人の悪童丸と重なった勢が知った事をおぼえていたいから・・。

いきてゆく。

鬼の陵辱から護るはずの己が勢をだいた。

悪童丸は勢にあう前に無事に行を納めた事を伝えるべき人、

伽羅に会いがたくなっていた。

当然。

伽羅も悪童丸を育てたものの直感であろう。

そろそろ、悪童丸が帰ってくるのではないかという予感を

むねにいだいていた。

が、あらわれない。

ちごうたか?

おもうが、胸に潜んだ感が外れてない気がしてしかたが無い。

やれ、とうてみるか。

薊撫のもとをたずねてみることにした。

久しぶりに悪童丸の顔もみてみたい。

あれから五年。

随分おとなびたことであろう。

光来童子、そのままの顔立ちもあの十五の時の光来か。

いや。悪童丸も十七、はるかに男臭くなってしまっているのだろう。

はやる心を抑え葛城山中まで飛び退る。

薊撫にしかられるだろうか?

行の途中だとあわせてもらえぬかもしれない。

まあ。よい。それでも、感が空だとわかればよいか。

かすかな胸騒ぎがあるのがいやで

伽羅は一層薊撫鬼の元に居るはずの悪童丸をみたかった。

だが、伽羅を待っていたことは

いやな胸騒ぎの正体がなにかということと、

とっくに悪童丸がここにいないという、薊撫の答えだった。

「なんというや?」

薊撫に告げられた事が飲み込めない。

どのみち。ひとり立ちした子である。

どこで居を構えようとも、己の勝手である。

いちいち、伽羅に断りを入れる必要もない。

と、言われれば何の反論も出来ない。

突かれれば答えようがなくなる宥めと判っておれば、

薊撫も伽羅を切り崩したりはしない。

薊撫の思いやりにあまえたまま、

「なんで」

悪童丸の行が空けたを、薊撫こそが伽羅に

一番に知らせてくれなんだとせめてしまう。

「やはり・・・おまえの元に一番にいかなんだか」

薊撫の得心は何に帰来する?

「どういうことじゃ?」

薊撫にたずねてみせるが、

「一番にどこにいきそうか、おまえが、

一番よくわかっておるのでないか?」

わかっている。

判っているのはそれだけでない。

悪童丸が勢の元に顔を出すのはわかっている。

勢の所に顔を出した悪童丸が何故、伽羅の元に来ない。

それが胸騒ぎだ。

何故かえってこない?

何故かえってこれない?

いやな予感のわけを判りたくはなかった。

「わしもうかつであった」

「な・・・なにが」

聞きたくないわけを恐れた伽羅であるが、

かといって、とぼけるわけにはいかない。

「よう、ように、考えてみればはなからみえていたことであったに」

「・・・・」

「さりとて、はなから判ったことであったとて、

どうしょうもないことであったろうの」

「わ・・われが・・おもうことのとおりかや?」

伽羅とて、露一つ懸念できず、かんがえもしなかったことである。

だが、勢の元に行っただろう悪童丸が伽羅の元に姿を見せない。

こう判ってみれば一挙に悪童丸と勢に

何があったかが見えてくる気がした。

「い、いわれてみれば。いや。

こうなってみれば、お前のいおうとするとおりであろう。

いまになれば、むしろ、何で、考えつかなんだか。

おまえがいうとおり、うかつだった」

「伽羅よ」

「わかっておるわ。あやつをせめたりはせぬ。むしろ・・・」

それを外道という気はない。

姉弟である前に男と女である。

男と女である前におんの子の血。

半妖の血。

そして外つ国の血。

その下に流れるかなえと光来童子の情念。

情念は血に流れ込み、溶け込んでいる。

ほたえという火に湧かされたたぎりが

情念の高炉のなかで相手を探す。

光来童子の血、想いを受けるものが誰か?

かなえの血、想いを受け止められる者は誰か?

だが・・・。

なってはならない。

この光来童子の想いもうけつがれる。

光来童子の二の舞。

かなえの二の舞。

どんなにくるしむだろう。

悪童丸はどんなに勢を欲し、どんなにくるしんだことだろう。

切なさを開放し情念の相手と結ばれる事もさらなくるしみだろう。

「ひとり、抱え込んでるだろうに。どうにもしてやれぬ・・かや」

悟りの早さは悪童丸を真摯におもうゆえであろう。

光来童子の苦しみを見てきた伽羅であるゆえだろう。

「どうにもしてやれぬ・・かや?」

己を責め伽羅に会うことさえ避けるしかなかった悪童丸の心が見える。

我が子というより、一人の若者としての

悪童丸の生きようをおもう伽羅の姿勢は、薊撫の胸を打つ。

その伽羅に不安を告げねばならない。

「わしもおくればせに悪童丸をよみすかしてみたのじゃがの」

口ごもるように低い呟きになる薊撫がいぶかしい。

「なんじゃという?」

何がみえたというか?

邪鬼丸のような非業というのではあるまいの?

「陰陽師がうかぶのじゃ」

「陰陽師?」

邪鬼丸の死体を持ち帰ろうとした時の事が鮮やかによみがえる。

邪鬼丸の身体を括った縄は刃物も通らなかった。

結び目を解こうとした時、はっきりと判った。

陰陽師の印綬がかかっておる。

それが全てを諦めさせた。

陰陽師相手に邪鬼丸を救い出せるわけがない。

胴を離れた首は塩漬けの樽の中で死んだも同然。

いや。もう、死んでいる。と、

諦めるしかなかった。

ゆびをくわえ、おめおめと諦めることで死なせとうなかった。

わかれとうなかった。

この無念が悪童丸に法をおさめさせようというおおきな元だった。

泳がぬ者がおぼれる事はないが、水に落ちぬ事はない。

だから、泳げるようになっておけというはあたりまえだろう。

陰陽師の手にかかることなぞありえない。

と、いえるわけがない悪童丸で有らばこそ、

泳ぐ法を知らずにいさせることこそ罪である。

その、まさかの相手。

陰陽師が読める。

薊撫の言葉は早すぎる終焉をにおわせ、

伽羅の背筋がぞっと波立ってくる。

「まさかのことはないとおもう」

光来童子は神王の理をうけ、かなえの父、是紀の理を受けている。

親の赦し、親の理が光来童子を護ったとも言える。

悪童丸にはこれがない。

が、

ひとつ、かえしてみれば光来童子のように人を攫うのではない。

「姉。勢もおんの子。これだけを思えば

けして、陰陽師が如きに裁かれるものではない。

ただ、これに気付くだけのたまであるかどうか」

鬼同士が結びつくものだと見れば、陰陽師に裁かれるような欠損はない。

鬼。畜生。と詰られる者ではあるが、

姉弟の結びつきも人の生き方としての尺度であり、範疇でしかない。

自然は生の営みのほうを重視する。

それが証拠のように、要らぬ知恵のない動物達が明かす。

生への営みの前では親子もなければ、兄弟もない。

継ぐ命こそがすべて。

命を継ごうとさせるほたえこそが自然の尺度。

およそ人間の尺度なぞが、自然を超越できはしない。

それが、証拠に人とて近親相姦の情にくるしむほたえに操られる。

知恵のあるものはしがらみを生じさせ、自然のままならぬ。

しがらみという人間界の拘束を己の定規に動くか?

自然というおおきな定規の中でものごとをかんがえるか?

神の心こそ自然である。

かむはかりの量りの尺度こそ自然をもといにする。

「この陰陽師。白川澄明というが。

不思議な事に沼の神の守護をえておる。

ひょっとすると・・・」

「なんだという?」

「かむはかり・・・・の陰陽師やもしれぬ」

かむはかり。

神の御心でさにわする。神の心で量る。

「行の途中でないかとおもう」

「沼の神のか?」

「たぶん。おろがむのみだ。伽羅」

おろがむ。お頼み申しますと拝む。祈る。

この陰陽師がおろがむになるをも祈る。

おろ、すなわち、己。

おろが無。己が無になる。

己を無にしたものだけが自然の定法に乗る

かむはかりを敷くことができる。

いっさいが自然。

自然の摂理に勝てるものは情念だけであろう。

が、

自然を通り越す情念に生きながら悪童丸も勢も今を生きるしかない。

今を精一杯いきるしかない。

「あやつのことだ。わかっておるとおもう」

先にあるは悲しい諦念。

なれど、今をいきずして、諦める事なぞできない。

情念は燃え立つ。

ありとあらゆるものをその炎で焼き尽くさねばならない。

もえつきるまで。

『もえつきは・・・すまい』

光来とかなえの情念が悪童丸と勢という坩堝でたぎって

灼熱の炎になった今。

もえつきはしない。

同じ事を繰り返し巻き返し、七代の先までもの因縁を造化させる。

同じ苦しみ。同じ喜び。

子の苦しみ。親の苦しみ。それをしのいで結ばれる喜び。

苦しむと判っておっても選び取る喜びは

生き抜く長い時の中では刹那にすぎない。

それでも。

「こいしかったのだろう」

伽羅の手が顔を覆った。

―童子。光来童子。おまえを救いも出来ず、

悪童丸も救えず・・・伽羅はなくしかないか―

長浜城の堀囲いの屋根の上に、

東雲(しののめ)時から伽羅がとまっている。

烏かなにかのようにつくねんと屋根のうえにいるのだから

正にとまっているとしか言いようがない。

伽羅が待っているのはいわずと知れた悪童丸がことである。

白々と夜が明け始め、陽光は雲の隙間を探り、

山の端から黄金色に染めようと日輪を広げだす。

天守閣に続く廊下の屋根に飛び降りる悪童丸の姿があった。

用心深く瓦をきしませもせず、すばやい足で屋根をつたう。

と、その姿が止まった。

見る見るうちにぎょっとした顔がしなだれた。

悪童丸が見つけたのは伽羅である。

かくごをきめたか。

叱られる子供のように伽羅のまえにたつと、

むこうの衣居山を指差した。

こんなところで、はなしているわけにはいかない。

別の所へいこうという意味である。

伽羅は頷くと、とびあがった悪童丸のあとをおった。

着いた先は衣居山の裏にある谷に切り落ちる崖の上の平地だった。

降り立った二人はしばらく無言だった。

だが、

「おおきゅうなったの」

伽羅の母性が言わせる言葉に

悪童丸がこくりとうなづいた。

「無事をしらせず・・もうしわけありませんでした」

伽羅が事をすておいた

そのわけを話す言葉が出てこない。

だが、伽羅は勢のもとを抜け出す悪童丸を待っていた。

話さなくとも伽羅はさっしているであろう。

男と女でなければ後朝になるまで別れをおしみはしない。

それをたしかめるためか、わかっていてか、

明け方に伽羅は城に現れた。

「なごりをおしむはよいが、くれぐれも人の目にふれぬようにせねば」

伽羅はやはりわかっていた。

勢との事もわかっていた。

二人の逢瀬がもう、既になごりを惜しむ物で

男と女のものでしかない事も、勢との別れもわかっていた。

勢との事を責められるよりもつらい。

別れねばならない二人だから、今を燃焼するしかないと

伽羅にまで見通せる運命だといわれている。

「わたしは・・」

間違っているとはおもっておりません。

伽羅にどのくちでいえよう。

だが、悪童丸の心の中は畢竟それしかない。

「勢も。お前がことわかっておってのうえだろう?」

何もしらぬ勢の心をあやつったわけではないだろう?

「は、はい」

勢が光来童子の子であること。

悪童丸がかなえの子であること。

勢と悪童丸は、姉弟である。

「なにもかも・・わかっておりました」

悪童丸がはなしたわけではないらしい。

鬼の血が自ら勢にあかしたことらしい。

「ならばよい」

覚悟の上なら。

いや。覚悟なぞないかもしれない。

何もかも判っていてそれでも止められぬ想いに

身を任せただけかもしれない。

それでも・・よい。

情念でさえ、二人をつなぐ、かすがいというくさびになりえない。

くさびをうてないからこそ、

己ら一対のかたわれの物で

勢にくさびをうちこまずにおけない。

勢もうたれずにおけない。

何とかひとつのものになれないか。

この世に生きる揃い者に成れぬなら、

せめて、誰よりも深くむすばれたい。

『伽羅もその想いに苦しんだことがある』

「だが。ひきぎわをわすれぬようにな」

悪童丸の愚挙を包み込んだ伽羅の瞳も悲しい。

「し、しんぱいばかりを・・おかけいたします」

頭を下げる悪童丸の瞳から落ちてくる物があわれである。

―よりにもよって姉なぞにほれおるから、みじめになるんじゃ―

詰りそうになる言葉をのみこんだ。

ひきぎわとひとえにいってみたが、それはいつのことであろう。

悪童丸のする事は、かなえと童子の因縁を実証させるだけである。

因縁になった物事を繰り返す。

童子の子を孕んだかなえ。

勢も悪童丸の子を孕むだろう。

孕ませたい。

このほたえが結末を迎えるまで、終焉は来ない。

終焉はさらにあとを引く。

緞帳の下がった舞台の裏で

どこかに嫁いだ勢を見守る悪童丸の姿も光来童子さながらになる。

いつか?

いつか、勢も楼上をけたぐるか?

そのかなえの姿を光来はどうした?

つれさっていてくれ。

かなえを連れ去ってどこか、

だれも知らぬ土地で二人の恋を成就させていてくれ。

悪童丸の見果てぬ夢の先の幸いは

光来童子のありようにぬぐわれるしかない。

因縁の先。別れの先に再び、光明がありえるか?

伽羅は祈るしかない。

―童子。かなえと一緒にくらしておってくれ―

来世という時の狭間にかけた恋でしかないのか?

目の前にいる悪童丸に託せぬ恋を生き抜いたか?

―おまえ。この子が哀れでないか?―

泣き出しそうな伽羅であった。

崩れ落ちそうな伽羅の心を支える物が見当たらない。

―童子。どこに消えた―

あれからとんと、伊吹山の青い瞳の鬼の事はきこえてこない。

いきておるのか?

それすらあやしい。

目の前の悪童丸の運命を占う男は

いきてさえいるのだろうか?

伽羅が崩れ落ちそうな自分を支える思いを吹き込んだのは悪童丸だった。

「勢はいずれ。三条の嫁になる。

主膳の心を思うと、私には、これをくるわせることはできない。

だが、勢の心がわたしだけのものであらば・・・」

勢はやはり、かなえと同じに楼上を飛び中空を舞うだろう。

「その時こそ、私達はかなえと童子の恋をまっとうする」

「あ・・」

童子とかなえのその後の真実はわからない。

判らない恋を自分達がなぞることで

二人がそうしたに違いない事にするという。

こういう証もあるかと伽羅は息をのんだ。

「子は・・どうする?」

我らが二人の子なら同じ因縁。

因縁に任す。

と、言う言葉を飲み込んだのは数奇すぎる宿縁のせいだろう。

どのような姿のこがうまれるか。

おんのこの形か?人の形か?

人の形でありとて、青い瞳でありえるやも知れぬ。

「うまれおちてからのことじゃろう?

それに、もし、おんの子でも、こんどこそ、ちちがひろうてみせる」

勢と徒党を組んで、三条を利用するか?

言いかけた言葉を飲み込んだのは、悪童丸の底を思うたせいである。

―などか・・ほかの男に勢をふれさせねばならぬ―

この想いをしきこんでいるを思うと伽羅はだまった。

悪童丸は百歩も千歩も主膳にゆずっている。

そのためだけに、勢を他の男の手の上に出さねばならない。

それでも、勢が悪童丸を求むるなら、何もゆずらぬ。

そのためへの布石でもあった。

三条のもとへとつぐ。

そこで幸せに暮らせるならそれでもいい。

だから、三条の姿を映した。

もう一つある。

それでも、悪童丸への心が本意であるなら、

三条に抱かれるは勢もつらい。

馴らすというと語弊があるかも知れぬ。

三条の姿の悪童丸に慣れ置けば、

勢も錯覚の中で辛さをのりきれるやもしれぬ。

「わたしはひきょうなおとこです」

「いんや・・」

勢はしあわせものだとおもった。

こうまでも、悪童丸の心を占めきった勢はそれだけでしあわせだろう。

『何も・・いわん。やってみるがよい』

運命の糸をどこまでほどくことができるか。

先を見せなかった光来童子に、今はむしろ感謝するべきかも知れぬ。

ならぬと判りきってしまえば己の運命をのろうしかない。

なると、わかればここまで真摯に恋情を尊く思えもすまい。

おまえの恋の生き路、みせてもらおう。

「そうじゃ」

「なに?」

「陰陽師にきをつけよ」

「陰陽師?」

「白河澄明。おまえらの運命にかかわってくる。薊撫がいうておった」

「導師が?」

「ああ。いかなるものになるか、どうでてくるか。わからぬ。

鬼と通じた姫が既に己の子でないと知れば、主膳の想いがどうなるか。親といえぬものであっても伽羅がやはりおまえの母。

この理はてて親ほどの偉言はないが。

それでも、主膳が情の上で父であらば、理はうごく。

澄明がかむはかりの陰陽師になりたとて・・この理を崩せなくなる」

「わかった」

だからこそ。勢をとつがせるしかないとおもわされる。

これがせめて、父光来から沸かされる子へのおくりものであろう。

ばさりと伽羅の前に落とされた指指をみつめた。

「な?」

血だらけの口元はしゃかれた舌のせいだ。

「陰陽師か?澄明か?」

悪童丸がうなづく。

「どうすればよい」

切り離された指をつなぐ術があるのは知っている。

だが、斜にさかれた悪童丸の舌では韻も唱えられない。

「お・・おお・・う」

とにかく指をもとの場所につけて押さえろというようだった。

念誦を与えて元の形にもどそうというらしい。

「できるのか?」

やるしかない。

「薊撫をよんでこようか?」

悪童丸は首を振った。

縁者の因は己でつなぐしかない。

縁者の因の内、離因は他がかけられる。

だが、結因は己がかけるしかない。

一刻をかけて印綬を念じ

不完全ながらも指はどうにか身内につながった。

舌を癒せば直ぐに直せる指であろうが、

反対に手印をきって舌を治そうにも、指がまともに動かない。

「ねんのいれようじゃな・・・」

呆れるほどの陰陽師のやりくちである。

が、それだけでない。

裾さばきに血潮が乾きへばりついた地糊がおちる。

「な・・・」

悪童丸の一物がかりとられている。

「よくも」

むごい。よくもここまでやってくれおった。

だが、どうしたものか。

悪童丸はにこりとわらった。

「な・・?なんじゃ?」

心配すな。悪童丸がそういうた気がした。

勢とのまぶかいの最中に飛び込んできた男の刃を避けた時

陰陽師はさけんだ。

―悪童丸。にげやれ―

と、確かに叫んだ。

その目を、その瞳の底にあるものに狂いはない。

一瞬に見て取れた。

あしきにせぬ。今は時を選べ。

そのまま、引き下がればよかったのかもしれない。

だが、これで、引き下がったら、

勢への心は嘘になる。

刃の露になるのは、勢への心を明かしきるが先。

勢をひっ攫うと衣居山のすみかにとんだ。

討ちにくるだろう。

その前に

勢の中に最後の情念をはたきこむ。

そして、ついえる。

無残に、これが最後で三条が妻になる勢を抱く。

それでよい。

そして、ねがったとおり、

勢は三条の妻として生きてゆく道しかなくなる。

それでよい。

いっそ。それでよい。

だが、今宵は満月に近い。

因縁の胤をはたきこんだのち。

自分が死んだら・・・子を拾う父がおらぬようになる。

悪童丸の情念に迷いが生じる。

「悪童丸。勢はかなえになります」

子をはらませろ。と、勢はいいのけた。

『最後だと・・わかっておるか』

悪童丸の死を乗り越えても恋を選ぶ。

そして、勢もいつか、楼上をけたぐる。

共に生きるためでない。

おくれをとっても、おんのこを生み育て、

そして、悪童丸のもとに飛ぶ。

『あとで、勢もおまえをおいます』

身をゆだねた勢の中に、熱い血潮をしぶかせる瞬間。

陽根は胴と放たれた。

追いかけてきた男に切り込まれたとわかる今まで、

何にもきずかずに勢に浸りこめた己がうれしくもあった。

討たれるしかない。

覚悟を決めたそのせつな。

―あしきにせぬ。今は耐えられよ―

陰陽師の声が耳の奥に大きくひびいた。

舌が癒え、指を治しきる頃に式神が現れた。

『自然薯をほる。てつなえ』と。

示された場所に陰陽師がまっていた。

「よう・・辛抱してくれた」

陰陽師が悪童丸にかけた最初の言葉だった。

「おまえは?」

何を考え、われらをどうしようとしている?

「あしきにせぬというたであろう」

ちらりと自然薯の葉をみつめる。

「なくなる陽根のかわりがいるのでな」

つまり・・。

「かえしてくれるというか?」

「勢姫もな」

「え?」

「おまえのものじゃろう?」

本意だというてくれるのか。

二人の恋をまがいものではないというてくれるのか?

「はよう、てつなえ。おまえはまだやらねばならぬことがある」

澄明は自然薯の蔓を手繰って、土を掘り起こし始めた。

「おん・まからぎゃ・ばぞろうしゅにしゃ・ばざとらさとば・じゃく・うん・ばく」

澄明の口をついたのは愛染明王の真言である。

「これを百万遍はとなえなさい」

「なんだという?」

悪童丸の手も休まず土を起こしている。

「おん・まからぎゃ・ばぞろうしゅにしゃ・ばざとらさとば・じゃく・うん・ばく」

「おん・まからぎゃ・ぼそろうしゅにしゃ・・ば・・さ・・と・・」

「ばさとらば・じゃく・・うん・ばく。愛染明王の真言です」

「ばさとらば・じゃく・うん・ばく」

「そう。もういちど」

「おん・まからぎゃ・ばぞろうしゅにしゃ・ばざとらさとば・じゃく・うん・ばく」

「思うた通り、頭もよい」

一度二度言うただけで真言をおぼえる。

「愛染明王は愛欲の神。

おまえのように恋の加護もないは、この世でそいとげるはむつかしい。

愛染明王にすがるがよい」

「な・・なんというた?」

「愛染明王は・・」

「ちがう。そいとげるというたか?」

「明王の力を持ってすれば、できぬことではあるまい?

が、百万遍も唱える誠をみせぬと・・」

「そいとげられるというか?」

「勢姫も今頃は必死でねんじておられよう」

「え?」

「ただし、時に限りがある。今より三月後の満月の夜までに百万遍。

唱え続けて日を間に合わさねばならぬ。

その夜、男美奈の祭壇の陽根をかえそう」

その時の手はずは勢姫にはなしてある。

にこやかに笑う陰陽師白川澄明が悪童丸は不思議だった。

「御前、なんで?」

我らに加担してくれる?

「だから、はよう・・・ほってくれ」

澄明を見詰、手を休めた悪童丸をしかりつけると

「因縁通り越す。

自らかなえさまと童子の因縁を通ると決めたお前だから出来ることだと思う。

因縁を通るだけでない。

通り越すことこそが人がこの世に生まれてせねば成らぬ宿命なのだ。

多くの人はそれにきずかないが、

私の前に縁を盛った以上、すておきにはできない。それだけだ」

己の端末をいくばくか滲ませたかと思うと

土から姿を見せた自然薯をさししめした。

「お前の物はこれくらいだったかの?」

当の本人が頷くのを見ると

「よかろう」

さらに丁寧に土をどけ、自然薯を掘り起こす澄明だった。

「はいれぬ」

悪童丸の陽根を祭った小さな祭壇の周りの角に竹が埋められ

竹を結んであらなわが張られている。

ひどく簡単なひもろぎであるというのに、伽羅には入れない。

「ただの陰陽師ではない」

薊撫のいうとおりのかむはかりの者のせいか?

なれど、ほたえを放ち生を継がせる道具を

とりあぐる陰陽師のどこがかむはかりの者か?

「なにをかんがえおる」

悪童丸も舌が癒えぬものだから、何もはなしもできぬ。

やけに余裕を見せているのがなぜか判らぬまま

やもたてもたまらずここに来てみたがどうにも成らない。

勢・・おまえもあきらめたかや?

せめてみたが、きがついた。

勢も鬼の血。

ここにはいりきれぬか。

『おろがむのみじゃというたな』

薊撫の言葉がよみがえる。

成らぬことであれば陰陽師は悪童丸の首をきりおとしているはずである。

おろがむ。己を無にして考えるしかない。

生という、血をくりかえすなということか?

陽根が無ければ、悪童丸という鬼の血は絶える。

すでに。

生れ落ちた、その時に海老名の手に生死を載せられた悪童丸である。

いつ、死なされても文句の言える命ではないのかもしれない。

それを不遜にも、生きおおそうとした所に既にまちがいがある?

かむはかりというは、そんなに狭いものか?

判らない。

判るくらいなら、こんな簡単なひもろぎで

鬼を寄せ付けない術なぞ、みにつけられまい。

何をみている?

この陰陽師は何をみている?

判るわけのない澄明のはかりを伽羅はにらみつけている。

手の届く所にある陽根の血のりが褒賞紙に染み、

既に茶色く変色している。

あわれというだけではないか。

人と通じた鬼の二の舞くりかえすなとみせしめるためだけか・・・・

三日の間伽羅は祭壇を行き来した。

三日の夕刻。

時刻に早いに澄明が来ると、手に持った自然薯と陽根をみくらべている。

物陰に隠れている伽羅にきがついたか、

澄明は自然薯をささげあげると、伽羅に言ったように聴こえた。

「丁度よい。悪童丸がいうたとおりじゃ」

澄明が立ち去ると、伽羅は悪童丸のすみかに行ってみる事にした。

舌の傷はいえるのはやい。おまけに若いからだである。

もう喋れるようになっているということかもしれぬ。

澄明がいう事は悪童丸におうて、なんぞ話したという事にも思えた。

案の定。悪童丸の傷はいえていた。

指も綺麗に継ぎなおしたようである。

だが、伽羅を見ても口中で呟くのをやめようともせず

一心不乱の念誦である。

「なにをいいおる?」

伽羅をみると、

「勢をめとる」

それだけしかいわぬ。

「陰陽師がきたかや?何をはなしたか?」

「勢と添わすというてくれた」

あとは口中の呟きに変わる。

わからぬ。

判らぬが、行を納めた悪童丸が

どうやら陰陽師に言われた事を信じている。

ならば、よいわ。

おまえが信じれるなら伽羅もしんじよう。

鵜呑みを通り越して得体の知れない約束事を丸呑みにすると

これが伽羅の性根のよさであろう。

すると。

この伽羅に勢という、娘もできるということかや?

と、喜んでしまう。

それだけではない。

伽羅は一人とて子も産まぬに婆と言われるようになるのである。

が、それは後の話。

一心に愛染明王の真言を唱える悪童丸の胸に勢が浮かぶ。

幼い勢の泣いた顔が浮かぶ。

泣いた顔がくるりと変わると無邪気に指きり唄をうとうた。

『参らせ候。わたらせ候。指切ったぁ』

知らぬうちに交わした約束だった。

ふたりの底に沈みこんで芽吹く時を待った恋が歌わせた約束だった。

「勢」

恋と言うには、幼すぎた慕情は姉への敬意だとおもうていた。

だが、もう、ちがう。

寄せて返し、引いて返す。

約束どおり勢に参らせ、渡らせ。

勢に通じた男根の中に、今はほたえの苦しみまでもちさられたか。

祭壇に飾られた陽根がおかしくもぶざまである。

それでも、再び勢に通じる日が来る。

『渡らせ候。渡らせ候』

約束が果たされたそれから、寸刻を惜しむに

別れの日がしのびよってくる。

勢を離したくないと片割れがうずき、

勢を抱かねば、心がうめきたてた。

だが、いま、陽根にほたえごともちさられたせいかもしれない。

わかれるでない。

結ばれるのだとしんじ、真言を唱え続ける悪童丸の心の中に

うめきはない。

「勢」

おん・まからぎゃ・ばぞろうしゅにしゃ・ばざとらさとば・じゃく・うん・ばく

おん・まからぎゃ・ばぞろうしゅにしゃ・ばざとらさとば・じゃく・うん・ばく

おん・まからぎゃ・ばぞろうしゅにしゃ・ばざとらさとば・じゃく・うん・ばく

おん・まからぎゃ・ばぞろうしゅにしゃ・ばざとらさとば・じゃく・うん・ばく

おん・まからぎゃ・ばぞろうしゅにしゃ・ばざとらさとば・じゃく・うん・ばく

勢と共にしぬるあともくらせるように。

おん・まからぎゃ・ばぞろうしゅにしゃ・ばざとらさとば・じゃく・うん・ばく

足りぬほどは思いを込めてもまだ、たりぬ。

おん・まからぎゃ・ばぞろうしゅにしゃ・ばざとらさとば・じゃく・うん・ばく

澄明に言われた百日目の夜である。

海老名は祭壇の前までくると、やはり、戸惑いをあらわにする。

姫の懇願に負けてここまで来たのは来たのである。

が、

「姫様」

躊躇うような海老名の声が夜のしじまに響く。

「早う、悪童丸の陽根を、わらわの手に・・」

「なれど・・・」

「海老名、今宵を逃したら。

そもじも、あの折に言うたではないか、悪しきにはせぬと、

なによりも、悪童丸はわらわの弟、かなえのただ、一人のおのこ。

母の存念思いおこせば、せめても五体に戻してやらねばなるまいに」

「されど」

「えええい。早う、せや。わらわはこのひもろぎの中に入られぬのじゃ」

「悪童丸様にあれをお返しするだけで御座いますな?

誓って、前のように悪童丸様と馴れあそばしたり」

「判っておるではないか?わらわは三条時守の所に一月後には、嫁ぐ。

この身にまさかのことはない。わらわも時守様の子を孕んで生きる。

悪童丸もいずれ後、女鬼を娶りましょうに。

わらわ、一人子を得る幸いをえたくはない。

悪童丸の陽根をちぎりてわらわ、ひとり、子は孕めぬ」

「判りました」

海老名は謀れるとはつゆ思わずひもろぎの中に入りこむと

悪童丸の陽根に手をのばすと褒賞紙ごと掴み取り勢姫のもとに運んだ。

「嗚呼」

勢姫は、渡された悪童丸の陽根を胸にかき抱くと空に向かって叫んだ。

「悪童丸、いでや」

勢姫の声が、夜空に響くと、不穏な気配がたちこめた。

「やっ」

どうま声がすると、悪童丸の姿が勢姫の前に現われた。

「おう」

嬉しげな姫の嬌声が上がると、海老名はうろたえた。

「姫?姫?」

うろたえる海老名にちかづき、その胸に悪童丸が軽く拳を打つと海老名はそのまま地面に崩れ落ちた。

「嗚呼、悪童丸。今そなたにこれを返して進ぜ様」

胸にかき抱いていた陽根を手にもつと、

自ずから着物の裾を割り、岩を背に座り込むと岩にもたれかかった。

姫は両の足を左右に開くとかさかさに乾ききった陽根を

己の濡れそぼった秘所に押し当てるとぐいぐいとねじ込み始めた。

「おおおう」

姫のほとに潜り込む頃には、陽根は姫の精汁を吸い込んで

もとの生身のものに変っていた。

「悪童丸・・手をそえや」

姫のほとからはみ出した陽根を悪童丸がむずと掴むと

姫のほとの中で蠢めかし始めた。

「嗚呼・・よ・・い・・嗚呼・・嗚呼」

陽根が盛り上がると、こぶのようなものが膨れ上がり

それがほとの中に何度か波打つように突き動かされて行くと、

やがてほとの中から白く滑った物が溢れ出した。

と、陽根が萎み始めた。

それを見定めると、悪童丸は姫のほとから己の萎えた物を引き抜き、

己の体の先を無くした所へ宛がった。

すると、見る見るうちに肉が寄せ集められ、くるむ様に肉茎を包み込んだ。

「はああ!」

見事に悪童丸の物が己の一物と成変わると姫は立ち上がった。

悪童丸はにこりと笑うと闇の中に跳び退った。

悪童丸が飛び退るのを見送ると勢姫は

「すまぬかった」

倒れ付したままの海老名に声をかけると、老女の体を背負った。

それから一月。

勢は三条の元に嫁しこした。

これで、因縁通り越せるか?

勢を懐妊を待つ。

待つは無論。悪童丸との結果である。

だが、思わぬ落とし穴があった。

これが勢をくるしめた。

はよう。あからさまになれ。

あれから、障りが無い。

おくれておるだけか?

はらんだか?

勢がいかほどに焦るのも無理は無い。

「澄明:。この苦しさも因縁か?これもとおりこせというか?」

懐妊への不安ではない。

三条の心がくるしい。

『かなえが主膳をおもうたおもいか?』

かなえになるというた。

いうたが、かほどに因縁は想いをくりかえさせるか?

『勢』

嫁しこした姫を抱いた三条の手が震える。

心が震える。

勢はすでに男を知っていた。

どういうことだ?

穿たれる憎しみがくやしい。

しっておったからこそ、主膳は婚をせいたか?

主膳にたばかれたか?

勢は主膳をも、たばいてみせたか?

口惜しい。

勢の身体を嘗めた男が憎い。

三条の手の中で喘ぐ勢がどれ程情交をかさねつくしたか。

如実に明かす女の身体がある。

憎い。くやしい。

もっと、口惜しいのはそれでも勢を赦す自分である。

僅かの蠢きに声を漏らす女が開花している。

その勢を求めずに置けない。

口惜しい、口惜しい。

そして、まして、いとおしい。

『勢』

その男とのことなぞ、三条がぬりかえてみせてやる。

出来ぬはずはない。

既に三条に酔う勢がみえる。

よえるはずだから、

その男の事なぞ忘れられるからここにきたのであろう?

憎むまい。うらむまい。

勢は今確かに三条のものなのだから。

瞳を開き、勢は三条を見詰る。

その瞳が潤み、厚ぼったい妖艶な秋波が滲む。

その瞳は三条にほだされているとうったえていた。

堪えきれず勢は瞳をとじようとする。

が、いとしい人の姿を見つめるために

勢は瞳をひらきあげる。

『勢。かわ・・ゆい』

三条のものになる女がかわいい。

三条の姿を映そうとする勢が、瞳を閉じないのは、

悪童丸をおっているせいである。

悪童丸は三条の姿で現れる事があった。

その時、勢は瞳を固く閉じて悪童丸の心を追った。

いま、三条にだかれると、勢は逆に三条の姿に

悪童丸を追うために目を見開いた。

勢を抱いているのは三条の姿をした悪童丸だ。

勢は錯覚を現といいきかせた。

「あ」

あがってくる快感は勢の心が悪童丸を想うからだ。

勢は既に女である自分を隠さなかった。

そして、この女が求める者が悪童丸だとその女に教えられてもいた。

「だれが・・・だれが・・おまえを・・」

三条のつぶやきがもれた。

即刻に去り状が来ると思った勢の目論見は外れた。

それでも・・恋しい。

三条の本音が夜毎にくりかえされた。

『澄明。これが因縁をとおりこすということか?』

むごい。

三条の想いが伝わる度に身が引ききれそうな済まなさにうちのめされる。

父主膳もかなえ一筋の人だった。

主膳の思いがときにかなえをささえたことであろう。

だが、悪童丸への心が定まっているいま。

三条との行為よりも、

かくもひたむきに思いを寄せられるという事の方がよほど辛い。

思いもしなかったことであった。

『かなえのくるしみを解せという事か?これが通るということか?』

かなえのおもいがかなしい。

童子を思い続けたかったかなえは

それでも、きっと、主膳の心をうけとめてやりたかっただろう。

心底、主膳のものになってやりたかったろう。

三条に寄せられる思いがかなえのくるしみをしらせる。

ひょっとすると。

かなえはくるしさのはてに自分の思いを投げ出そうと

仕掛けていたのかもしれない。

主膳のものになる。

つまり、光来童子への恋をなくす。

それが・・・いやで・・。

それをなくすまいとかなえはとんだ?

あせてくる前に

なくしてしまう前に

かなえはたちもどった。

死をかけて、光来童子への恋に舞った?

主膳に八重があらわれ、

悪童丸の出生は勢も光来の子とあかした。

かなえには何の心残りもなかった。

ただ、主膳の思いに答え始めている心がこわかった?

そして、かなえは自分の心のままに生きる事をつかんだ。

これも因縁?

死ぬることがではない。

三条に寄せられる思いに苦しむことが、だ。

このまま、おれば・・・。

いきてゆけば、心も三条のものに成る?

はらんでおってくれ。

勢を穿つ三条の蠢きに瞳をとじるまい。

だが、はらんだか?

はらんでおるのか?

澄明の言葉が浮かび上がる。

―百日精を留め置かれ、膨れ上がった情念を受けながら、

それでも孕まねば、自然は三条様のものになれときこしめます―

―自然はなるがまま。これが自然―

澄明がいう。

―自然を勝る情念が味方せぬことこそ、なってはならない。

そのあかしです―

孕まぬはつまり、なってはならぬという神の意思だという。

―神の意思というは、自然です。

自然というがこれは己の化身とお悟り下さい―

「勢のおもいはどうなるという?」

語気荒く澄明を正した。

―天は相応の人を与えます―

光来への心を引かせたかも知れぬ主膳。

ひいては三条は悪童丸にまさるやもしれぬというか?

「そうあらば、勢の心が三条にかたぶくというか?」

―器にあうものがよります―

勢の心を絡める男が寄るというか?

澄明に反駁して見せた言葉の端がよみがえる。

三条の心が確かに痛い。

勢の心を吸われるような三条の思いのよせかたである。

踏みつけにしても痛いとも思えぬ男ではない。

これがすなわち心にはいりこまれることか?

「澄明。この期に及んで、まだ、ならぬかもしれぬというか?」

嫁ぐ前、勢は三条に何故に嫁がねばならぬと詰め寄った。

なんのため、悪童丸の精をうけた?

このまま、悪童丸を呼んで遁世できようとたずねた。

勢の言葉に澄明は微笑んだ。

嫁ぐしか、因縁を通り越す事はできぬと澄明はいった。

そも因縁を通るとは、親もしくは前世からの引継ぎである。

ただ事を通るだけで、おわらせとうなかりましょう?

かなえさまの思いを、光来童子の思いを二人の身で

実際に味わうことこそが事が通り越す事であり、

因縁納消につながるのです。

それが、光来とかなえにとっての本当のせいじゅでもある。

「かなえの思いをあじわえというのだな?」

「で、なければ同じ事を繰り返すだけです」

因縁通りの形を通ることが違う結末を迎える事に

つながるとは信じ難い事であろう。

「離れ離れになり、

十年先に死であがなうしかない恋でよろしゅうございますか?」

べつに死ぬのはかまわぬが、

かなえが十年先にでも光来とそいとげたかどうかわからない。

これが、今生の別れになり、

悪童丸と再びあうこともかなわぬとなるが、つらい。

「さきゆき、共に暮らせる因縁に変転させるには、通るしかないのです。そして、とおりこすしかないのです。

通り越すと言う事は因縁をしいたそもそもの思いを

自分が通りつくして己の中ですんだことにするしかないのです」

「すんだこと?」

「あたらしい生き様をもとめるには、

この因縁をすんだ事にするしかありません。

そのためには、とおりこすしかないのです」

「・・・・」

「とおりこすとは、同じ因縁の巻き返しから、

因縁の発祥である思いを全て、受け止め攫えてしまうことです」

「そ、それで・・もし、かなえのように

主膳の元に残る思いに差配されたらどうする?」

「とおりこせなかったということでしょう」

あっさりと、いいきると

「明王にまさるば、三条様の元でひととして、いきるもさいわい」

明王の真言に誓いだてた恋さえ吹き飛ばし

自然が三条をおしてくるのなら、勢姫は人として、生きよ。

言い放つ澄明の言葉こそ父光来の思いか?

澄明の言葉を解する思いが沸かされるのを身のうちで

受け止めると勢は言い放った。

「澄明。ならば、わらわは飛んでみしょう」

その時はかなえのように恋に舞うてみせる。

言い放つ勢の言葉を背で受けた事を澄明は思い返している。

―勢がある―

あの勢いで恋を生き抜く。

はらむだろう。

はらむにきまっておる。

はらまずにおくものか。

あの鬼恋しさで何もかもを受け止め

己の生き路をつかみとるはげしさで、

悪童丸との運命を切り開こうとする。

その誠に天が乗る。

自然を、人を生み出した天が乗る。

なるにきまっております。

決まっておる事なぞ口にだすまい。

三条の哀れが主膳に重なって見えた。

姫。貴方がそこまで、彼らに愛される方だという事を

しっておいてほしかった。

なぜなら、やはり、主膳と三条の悲しい瞳が浮かぶ。

土に返す身体もない。

幾日も勢の遺体を求め、夕間暮れてきた堀を捜す二人の姿がみえる。

涙を流せば堀の水さえ眼に映らぬ。

浮かばせた船の上から涙を堪え水面を凝らす。

流せぬ涙が一気にあふれ勢の姿をみつけたくはない。

涙が堀の水におちた。

波紋が小さく広がり

見付からぬ勢を思い、肩を落とした

夫と父親の姿が夕闇の中の点景になる。

影を濃くした景色にやっと月がのぼりはじめた。

澄明の見る景色は物憂い。

だが、一方で勢姫の嬌声がきこえる。

―澄明。天がわらわに与えた人ぞ―

朧の月に舞った姫はさながら天に帰る天乙女。

その手に帰り来た天乙女を抱きとめるは、

青磁の瞳を持つ紅の髪の異邦人。

去り行く姿を幸いとなす乙女はあられもなく鬼の首に手をまわす。

―澄明。わらわは鬼ぞ―

幸い被る姫のかむりには角こそはえておらぬが、

勢は確かに

おんの子に生まれた事を

楼上を飛んだかなえさながら、

舞いおどってみせた。

喜びという緋扇をはためかせて・・・・。

                          (おしまい)

最後に付け加えておく事にする。

かなえが天守閣をとんで死んだと聞いた是紀はにたりとわろうた。

「やりおったな・・」

かなえのはかりと読んだ。

そして、あの鬼がかなえを死なせるはずが無い。

是紀は信じている。

信じた自分を疑いもせぬ男は更なる勢の死にざまをしらされて、

もっと、わらった。

同じ死にざまにいや、生き様というべきかも知れない。

気がついた事は勢が光来童子の子であったということである。

ましてや、あのかなえの子である。

ならば、鬼を求めるにきまっておる。

勢めも鬼を呼んで、とびすさったな。

かんらからからとわらい、

恋をまっとうする女の血が誰から継がれたかと妻、豊をふりむいた。

ひたむきに是紀を慕う豊の血なのであろう。

一生会うこともなくなった娘と孫であろう。

が、よいわ。わしにはおまえがおる。

かなえも勢もいきておると信じさせるおまえの恋がある。

老妻の手をひきよせ、是紀はわれこそが幸いものだと思った。

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