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―沼の神 ―  白蛇抄第11話

直垂の端が水にしみてゆく。
澄明はふいと上をみた。
足元は沼の水が湧き出るほとり。
なのに、なぜか澄明は上を見た。
十七の春だった。

沼と呼ぶにはあまりにも清浄であった。
が、ここはやはり湿地帯の中で滞った水が作った沼でしかなかった。
沼の上まで枝を広げた桂の木の枝が澄明の目の前にあった。
枝の上に絡みつくようにして、
得体の知れない生き物が澄明を見据え手招きしていた。
「お、おまえ?なにものだ?」
妙な怖気も怨気も悪気もかんじない。
おかしな感情を持っていないことだけは確かだった。
だが、澄明はこんな生き物をいまだかって見た事がない。
陰陽師であるというのに、だ。
異形の者に驚く事もなくなった。
魂が表す姿は時に異形を通り越す。
例えば餓鬼もそうだろう。
だが、目の前の生き物は澄明の知る、どの存在にも値しなかった。
「よう。気がふれぬの」
そやつが澄明に掛けた最初の言葉だった。
「なにを?」
こやつは澄明の何をよんでいるという?
澄明のまどいを横に置くかのように
さらに続けられた言葉が
澄明の息をのませた。
「白峰大神との縁を結ぶはみいの年になろうの」
やはり、こやつは澄明の運命を読みすかしていた。
「・・・・・・」
と、いう事は男造りの姿をこしらえているが、
澄明が女である事も悟っているという事である。
「その運命を知りて。よう気がふれぬの」
もう一度確かに澄明の定めを知っておるとにおわせると
枝の上からぽちゃりと音を立てて沼の上にたってみせた。
沼に沈まぬ姿はそ奴に実体がないことを澄明に教えた。
「お・・おまえ?なにもの?」
やっと、言葉を吐き出した澄明であるが、
浅はかな人間の知識では目の前の存在の
正体さえわからぬを露呈するに過ぎない。
「さあてのお」
にやりと笑うと澄明をみすえる。
「お前には、わしが、どう、みえているか?」
不可思議な問いかけである。
見るものによってその姿が違うといっているようにきこえる。
そんなことがあるのだろうか?
澄明が考えているうちにそ奴は喋り始めた。
「お前は因縁を通る・・・因縁は通るしかない」
不思議な生き物の言葉は今の澄明には痛すぎる。
「因縁は更なる因縁を産む。
お前は其の流れに飲み込まれたまま生き続けたいか?」
「変転できるというのか?」
そ奴の言葉の奥の意味は澄明の耳をかたむかせるに充分だった。
「因縁は通るしかない。ただ、通りこすことで更なる因縁は納所できる」
「通り越す?」
不可思議な観念を提示された澄明は首をかしげた。
「どうやって?」
「ままよ。因縁のままに通る。
形は同じだが、通り越すと通るの違いは、思い如何による」
「?思い?」
「そうよ」
「して、いかなる思いをもてばよいという?」
生き物は少しばかりにやりと笑ったように見えた。
「お前次第。わしの姿が得たいの知れぬ者に見える内は
変転もできはすまい」
「・・・・」
生き物がどう見えているかさえ見抜かれている事に
澄明はいささか悄然とした。
得たいの知れぬこの生き物は間違いなく
澄明の領域より上にいることだけは確かだった。
「どうするかの?」
得体の知れぬ生き物の真意さえつかめぬ澄明は返事に窮した。
「考えさせてくれぬか?」
くすりと笑うは生き物の常であろうか?
澄明がみ取った笑いは、はたまた澄明の姿の反映でしかないのか?
「好きにするがよい。
どちらにせよ、白峰はお前をくじる。
この事実はかわりはしない」
ひょいと身を翻すと得体の知れぬ生き物は
一瞬、澄明の目の中で老人の姿に身を変えた。
「賢人の具象か?」
知恵多き老爺の如きなら、知る術も多かろう
と、いう澄明の思念が作った生き物の姿の変身を
そう読み取ると
生き物いや、老人は立ち去った。

今、先に見た事は夢でなかろうかと反問しながら
澄明は静けさの漂う沼を離れた。
森を外れ城下に戻る道をややもすると俯き加減に歩む澄明であった。
生き物は最初は確かに得体の知れぬ姿をして見せた。
澄明が賢人かと思ったとき生き物は賢しい老人の姿に変わって見せた。
間違いなく澄明の思いを読んでいる。
サトリかとも思った。
だが、サトリは対峙する相手の事しか嗅がない。
「白峰がお前をくじる」
と、白峰側からの事実を断定的には云わず
「お前は白峰にくじられるだろう?」
と、澄明側の思いを軸に悟りを見せ付けてくる。
ましてや、幻惑であるとしても姿を変転させてみせる芸当は出来ない。
だから、あれはサトリではない。
幻惑を操る類は天狗か妖狐か。
だが、それも沼の上に浮かぶは実体を見せずには出来ない。
神に類するものだろうが、あんな神なぞ知らない。
「わからない」
思わず口に乗せた言葉にかぶさってくる男の声に澄明はたちどまった。
振り向けば鴛撹寺の和尚がいる。
「澄明さま」
もう一度澄明の名を呼びながら澄明の側によってくると
「お探ししておりました」
和尚の口からもう用件がついてでてきそうである。
「私を?」
鴛撹寺の和尚自らが澄明を訪ね歩く?澄明は訝しげに尋ねる。
「いや、それも・・久世観音がたちましてな」
「はあ?」
「道々に詳しいことを話させてもらいますが
どうにも解決出来ない事が続きましてな、
再再久世観音に祭り上げて見ますれば
朝に「澄明」と墨書された紙がおかれておりましたので、
是は澄明さまに相談せよということと・・・」
息を静かに吐いて澄明は尋ね返した。
「解決できない事をまず聞くべきでしょうね?」
「やはり、澄明さま。悟りがお早い」
妙に浮き立った褒め言葉を添える鴛撹寺の和尚の話はこうだった。
七日前に久世観音が夢枕に立つと境内の楠の木を切るように言う。
鴛撹寺では、和尚の居宅への渡り廊下の階が
漏水によって軽く朽ちていた。
雨だれがもれてくる屋根の補修は無論であるが、
階の段をやり変えねばならない。
階へ沁みた腐食の色は廊下の長板にも及んでいる。
だが、境内の大木を切るにも私事への誂えであると思うと躊躇われる。
思案のうちに寝入った和尚の枕元に久世観音がたった。
「それが楠木を切れといわれる」
いくらなんでも私事の為にわざわざ楠を切れ、と
云うのもおかしいと和尚はためらった。
戸惑うままに三度夢枕に立たれると、
人の知恵では判らぬ委細があるのかもしれないと考え直した。
己の都合に当てはまる故に私事に加担されられていると考えたが
久世観音は楠を階の修繕のために切れとはいっておらぬ。
「どうも、まだまだ信心の薄き者でございましてな」
つるりの頭を撫でさすってはにかむ笑いを含んで見せた。
和尚は心を改め久世観音のおおせに従おう
と、近在の大工を集め楠を切らせ始めた。
ところがである。
大木である。おまけに鋸の目が立ちきらぬほど堅い。
一日かかりで楠の胴の三分目もひききっただろうか。
是は三日はかかる、続きは明日にすればよい
と、棟梁を筆頭にして今日の労をねぎらうと、
その次の日の朝に騒ぎが起きた。
三分目ほど切ったはずの楠の切り口はものの見事に
もとの鋸傷ひとつもない楠木に立ち返っている。
「和尚?でえじょうぶなんですかい?」
尻込みする棟梁を宥め、久世観音の夢枕の話を聞かせた。
このような怪異を起こすくらいで有らばこそ、
この楠を切れといわれたに違いなく
是を切れと云うに態々夢枕に立つというのだから吾らに加護はある。
と、たたりなぞは無いと説伏せたはいいが、
この三日三文目まで引き切ると
次の日にはやはり傷ひとつない楠に立ち返っている。
「さすがに是ではいつまでたっても切り倒せるわけがない」
困ったと思ったものの、
さなれば、久世観音に伐る法を聞くが早いと
夕べの祭壇にお頼み申しますと頭を下げてゆるりとねどこについた。
だが、和尚の当てが外れたか久世観音は夢に現われなかった。
(是は困った)
何故法を授けられぬか。どう悟ればよい。
およそ人知で解ける事を都度に神を当て込むなとのお叱りか?
なんぞ法があるか?
考え詰めている和尚の前に祭壇の清拭番の小僧が礼深く頭を下げ
「こんな紙がおいてありましたが如何しましょう?」
と、和紙を差し出す。
なんぞと手に取れば白い紙に墨書。
(澄明・・・とな?)
澄明といえば都の四方神を祭る四人の陰陽師の内、
白河正眼の嫡男である。
十五の歳で長浜城主主膳にお目見えがかなった
と、聞いたのはつい最近の事と思う。
一言でお目見えが叶うというが、
お目見えが叶うと言う事は事実上
白河の陰陽師としての法力の主権は澄明にあるという表明である。
(十五の歳で親父殿の法力を越したかや)
人知をあたるなら確かに陰陽師は正解だろう。
四十を越す正眼の今までの修練をあっさり飛び越す澄明の法力なら
確かに楠の怪を解き明かし法を敷けるだろう。
やっと、和尚は久世観音からのお伝えだと気が付いた。
「尚更に不甲斐無いなきことでございました」
久世観音からのおおせを何としてでも叶えるために
奔走しつくす事もせず、
ほいほいとおおせの元の久世観音に頼る己であるが
その非力を責めもせず、
澄明に頼ればよいとお伝え下さると成ると
己の赤子の如き知恵の無きさまは
まこと不甲斐無きというしかない。
「いえ。そのような怪異をみせられれば・・だれだって」
澄明が慰めとも付かぬ言い訳を
和尚にとり代わって言いたくなるのも
先の沼の生き物のことがあるせいだ。
「それで、和尚はどうすれば楠を引き倒せるかを
私に尋ねにきたということですね?」
「急ぎ、白河を訪ぬれば澄明さまは見回りに出たとのこと、
廻って、こちらにやってきました」
「ああ・・もうしわけなかったですね」
「いえ、とんでもない」
それよりも、なんとかお知恵を拝借できますでしょうか?
と、不安が和尚の顔に登ってきているのを見取ると澄明も
「それでは、楠に聞きにいきましょう」
と、応諾をみせるしかない。
「楠に、じかに、ですか?」
秘力のない和尚らしく不思議な顔をみせた。
「それしか方法がないでしょう?」
答えて見せたが法なぞとっくに判っている澄明なのである。
それよりも何故それ程の怪異を見せて楠が切られることを拒むのか?
何故ここまで拒む楠を久世観音が切らせようとするのか。
そして、この怪異の解決に
何故久世観音が澄明を名指ししてきたか。
全ての答えを楠が知っている気がした。
澄明はこの不可思議を少しばかり解いてみたいと思ったにすぎなかった。
境内の東端の鐘突堂の片尻に堂の廂を庇うように楠がそびえたっていた。
教えられなくともそれが件の楠だと察しがつく。
「あれでございます」
澄明の眼差しを見取り、いわずもがなの応を延べた。
「いやはや、どうにも・・・なりませなんだ」
和尚の力で怪異を納めようとしたのだろう、
楠木の根方には小さな壇がくまれ
その上には得度の袈裟をつまれていた。
きき目がなかったと己の非力を露呈するしかなかった和尚に答えず
澄明は楠に近寄ると幹に手をおいた。
「・・・・」
澄明の瞳が伏せられるのを見詰めながら和尚は待った。
澄明の口の中で呟く声が
「わかった」
と、和尚の耳にも聞こえた時、
それは、和尚にでなく楠の何らかの訴えに応えたものである
と、和尚に悟れた。
やっと幹から手を離した澄明の顔は聞くを躊躇うほどに悲しい。
「楠は・・・」
澄明の口が重たい。
「はい」
澄明の口から語られる悲しみを聞こうとする和尚の顔つきも神妙になる。
「楠は切られる前に一目逢いたいものがおるのです」
「はい?」
楠の怪異はそのせいであるとしても、
逢いたい者とは如何なる事であろうか?
「楠が女子であることはしっておいでですか?」
澄明にとわれると、和尚はほううと声を上げずに置けない。
さらに
「木にも男女がございますか?」
と、問い直す事になる。
「ええ」
答えた澄明の悲しみの色が深くなった気がした。
「女子の精ですか」
何をどう尋ね返せば良いか判らず和尚は同じ言葉を繰り返した。
「女子だけでは・・・ありません」
澄明の出した言葉の真意なぞ掴める訳もなく
和尚は黙りこくるしかなかった。
「母の精も」
澄明の接ぎ穂の言葉に和尚はあたりをみまわした。
さては楠の根分けから仔芽が出ているのかと考えたからである。
和尚の推量に澄明はさらに悲しく首を振った。
「楠の我が身の子なら久世観音の裁断はありません」
おかしげなことをいう。
だが、と、なると・・・・・
「楠は人と通じ子を成しております」
「な・・なんと?」
木が人と通じるはまだしも、子までなせるものであろうか?
澄明は和尚の驚きを読み取る。
「現実に子とその父親に一目あって切られたいといっております」
「ん・・・むうう」
和尚も言葉が出てこない。
やっと、楠が切られるわけが見えた。
木が人と通じた罪の清算であろう。
そのことは楠も覚悟の上ではあったのであろう。
「あわれなものだのう」
だが、もっと哀れなのは楠より父と子であろう。
「それで、その男はどこの誰?」
呼び寄せて逢わせてやろうと云う腹積もりに成っている和尚である。
だが、澄明は首をふった。
「あえば・・」
言葉が続かぬ澄明のあとをきくしかない。
「あとは?」
「おなじことのくりかえしになりましょう」
「ああ」
今生のわかれであると判っていても是が最後となれば
楠もあと一目一目と未練がわくだけである。
結局、怪異は治まらぬまま
久世観音のたっしをはたしきれないことになる。
「なにか・・よい法はござりませんでしょうか?」
澄明の苦渋に満ちた顔がやがて、臍を固める。
「引き切った鋸屑を燃やしつくし、切り口に塩をぬれば」
「それでもとにはもどりませんか?」
「戻りません。けれど、和尚は親子を、夫婦を引き裂く
この役にたえられますか?」
しばし、考えた和尚である。
「信心とは・・・そういうことでしょう」
久世観音が決めた差配に従うしかない。
己の信心の薄さを咎めた和尚が誠の精進に立ち返る道は
是しかないときめたようである。
「そうですか」
澄明が定めた道はまた、和尚の心一つによった。
「男の名は次三郎。
楠の化身と判っておるようですが、どこの楠か判っておらぬようです。しばし怪異を繰り返せば
聞きつけた次三郎のほうからやってくるでしょう」
「楠もそれをあて所にしておったのでしょうな?」
「そうだとおもいます」
「せめて、その思いを残させぬためにも、
しばし、楠の怪異を繰り返し男と子をよんでやりましょう」
和尚が楠にしてやれる事はそれしかない。
深く頭を下げた和尚に礼を返すと
澄明はおもわしくない気分のまま、寺社を後にした。
和尚に声をかけられたときと同じに気分は低く地を這う様であった。
空に闊達に伸び上がる杉の木立を抜け澄明は白河にかえろうとしていた。
もやりとした思いを朱雀にぶつけ問い質してみたいことがある。
一刻も早く白河に辿り着きたい澄明であるのに足取りは重く、捗らない。
「苦しい」
胸のうちの塊を言い表せばその一言になる。
思わぬ呟きになった独り言を発した後、
澄明はぞっとした思いにつかまれた。
「なにもの?」
嫌な気配がある。
澄明が見据えた杉の木立の後ろから女がぬるりとあらわれた。
姿を見せた女の嫌な気配のわけをたぐるまでもない。
「妖孤?」
だが、何故、妖孤が澄明の前に姿を現したのか。
「お察しの通り」
姿形こそ人の姿を見せているが
その正体が何度も転生を繰り返す九尾狐であるのは
澄明の眼下においては歴としたものである。
女は澄明を舐めるように見すえた。
「よくぞ、むごいことよの」
澄明の心のうち、楠を伐る法を明かした後味の悪さが
澄明を責めている事をみすかしている。
見透かした上で哀れむような、嘲るような笑みを見せた。
「なにがいいたい」
妖孤如きが澄明の裁断に悶着をつけようとするに
如何なる訳と心根があるという。
「お前。楠を狩ると決めた裏に、己をくじる男をみただろう?」
「な、なにを・・いう?」
澄明が妖孤の正体を見破っているのと同様
妖孤も澄明の宿命を見破っている。
つまり、また、澄明の真の姿が女子である事も
判っているということである。
「人でない者が人と交わる。
あってはならない、あって欲しくない。赦される事でない。
お前は己の定法に当てはめて久世観音に乗じて楠を裁こうとしている」
「ば・・・ばかな」
「ばか?ばかはおまえだろう?
お前は一人の男を求めて何度でもそいとげようと、
輪廻転生を繰り返すこともできない。
何故なら、お前はあってはならない
人でなき白峰大神にくじられ、己の恋をまっとうする事も赦されない。
己の恋をまっとうする楠をねたみこそすれ・・・」
「妖孤。そこまで、澄明を愚弄するか?」
澄明の声が怒りに震え始めている。
九尾狐は九回生き返るという。
九回生き返って一人の男を追い求めるという
己の生き様を語るはよしとして、何故に澄明を責める?
「おまえ。楠を・・・なんで・・たすけてやらぬ?」
妖孤の声が涙に咽び懇願のいろをみせていた。
「私にできるわけがない」
「なぜ・・そういいきれる?」
「妖孤。それよりも何故、お前が楠がことをきにかける?」
「なぜ?ほ?は?」
妖孤は大きくわらいだした。
「存外に、人の心をよみくだすお前が
そんな事も判らぬ子供だとはおもわなんだ・・ああああ。是は笑止」
けたけたと笑ってみせるときっと眉をつりあげた。
「情の怖いおなごじゃのう」
澄明に鋭く、ぴしゃりと言い放つとくるりと転を結び妖孤の姿がきえた。
この時澄明の胸に妖孤の一言が韻授となって、
えぐりこまれたと知るのはあとのことになる。

帰ってきた澄明の顔色の冴えぬを気づかぬふりで正眼はたずねた。
鴛撹寺の和尚が澄明を尋ねて来たのはもうひと刻もまえになる。
澄明の見廻りの場所を和尚に教えれば、案の定澄明の帰りが遅い。
鴛撹寺の和尚の用件に梃子摺っているのかと思えば、
わざわざ澄明を名指してきた和尚の用件も気になってくる。
ましてや、澄明が沈鬱な顔であればいっそう気にかかる。
「なんであった?」
和尚の件を尋ねられたと判っているのに
澄明の口を付いたは妖狐の事だった。
「妖狐があらわれました」
わざに狐如きが現われたと報告するわけがない。
と、なるとその狐は天変地異の前に空を舞うという白狐か?
はたまた、幻惑を操り人心を惑わすを楽しむ齢経たお咲狐か?
「九尾です」
澄明が重ねた言葉を聴く正眼にいくばくかの安堵がわいた。
九尾狐なら被害は魅入られた男にしか及ばない。
だが、唐の国の昔、殷の地に生まれ、
さらに転生を繰り返し遠い異国にも生まれ、
八度の転生の後ははたりと姿を見せなくなったと聞く。
禍なすものと恐れる必要はないが、
流石の正眼も己の生の世に
噂に聞く九尾の実在を知るとは思っていなかった。
いなかった分物珍しさがつい先に立つ。
「なんと?ほおお・・して、
妖狐は鴛撹寺の和尚をねらっているということか?」
いささか腑に落ちない。腑
に落ちないどころか笑いが嚥下してくる。
そうであろう。妖狐九度の恋の相手が鴛撹寺の和尚?
もたりと肥え気味で、頭のめぐりもいかにも鈍気で、
とても妖狐の恣意に叶う風采ではない。
ましてやおよそ色恋の似合う純な歳でもない。
「いえ」
正眼の早とちりは澄明の説明不足のせいである。
が、
「だろうの」
と、頷いて見せたもの
「さては修行の坊主のうちか?」
鴛撹寺の和尚の足下の若者の身に起きた事かとあやぶむ。
「いえ、いえ」
くすりとわらいをおさえ、澄明は事の次第をはなしはじめた。
楠の行状の顛末に久世観音が現れた事を話しが及ぶと、正眼も
「そうか」
逃れられぬ裁断を下された楠への思いが澄明を暗くしているとわかった。
「それで、鴛撹寺の和尚はどうすると?」
元々成らぬ恋のはてである。
せめても二人の恋の証に子をえさせたのは、
むしろ久世観音の情状であろう。
その久世観音の決済に従うという和尚の決意を聞くと
小さな溜息を付いた。
「だが、命かける覚悟であらば、なおのこと名残おしかろう」
「たぶん」
和尚に教えたとおり楠はきりたおされることであろう。
だが、切り倒された楠の心には岩のような根がはっている。
其の根は夫子恋しさの不動をみせよう。
「また。くるか」
鴛撹寺の和尚がである。
困り果てた和尚は又も澄明をたよってこよう。
「つらいの」
楠も父子もつらかろう。
それが、澄明に一等応える事だろう。
それが、又、正眼に応える。
「父上」
「これもなにかの因縁。通るしかあるまい。
お前がように楠の痛み、みさだめてやるしかあるまい」
「は・・い」
話は妖狐の事に戻った。
「どうしたわけか、妖狐は楠を救ってやれぬかといいだしたのです」
「なるほど」
なんの危ぶみも見せず得心する正眼を澄明は不思議な目でみた。
「どうした?」
「いえ。父上には妖狐がわざわざ姿を現してまで
どうにも出来ぬ事を言い募りに来た心根がわかるのかと」
「ああ」
簡単に言えば同病相憐れむであろう。
別離を覚悟で結びつかずにおけなかった女の恋情は
妖狐には己をみるより辛かろう。
が、是は妖狐のこと。
澄明にすれば、正体を見破られると判っていながら
それでも澄明に云わずにおけなかった妖狐の行動は
浅はかにも見えようし、
凡そ自分と自分の男以外の事に
心動かさぬ生き様の妖狐らしからぬとみえよう。
「わからぬか・・」
正眼の口から漏れた音は澄明のこの先を考えさせていた。
常の女の生き様でいえば
平凡に愛し愛される相手に巡り合うが、女のさいわいであろう。
だが、澄明の先は女子が男を追う気持ちを持つ事もなく
白峰大神の寵愛を受けねばならない。
結ばれずにおけない男女の恋情の激しさも
女の情焔も知ることなく白峰の事はただ、陵辱にすぎない。
正眼はふと亡き妻を思う。
身体の弱い妻だった。
男と女の睦事は命をちじめるだけと云われた。
だが、呼世は正眼の男の思いを受け止めたいといった。
それが、呼世が正眼に渡せる、正眼の女となる唯一の証しだった。
命を懸けて正眼の全てを受け止めた呼世なら、妖狐の思いが判るだろう。
判る。それは女として、さいわいであることの証し立てに思えた。
呼世はたしかに短い一生を終えたが、確かに幸せであったのだと思う。だが、呼世の残したこの澄明はさいわいを知る前に、
白峰大神に己を差し出すしかない運命である。
だから、妖狐の振舞いの根がわからない。
邪気なく思わず呟いた正眼の言葉が
享受しなければならぬ澄明の定めを
さらに深く澄明自身にみせつけてしまっていた。
軽く蒼褪めた顔が必死に唇を噛んでいる。
『男を思うて、命を懸けるを救うてやれ?
救われたいこそはこの澄明だ。
などか、などか、白峰などにくじられねばならぬ』
叫びたい心を押さえつけねば、
いってはならぬ正眼への責めがもたげてきそうである。
『父上が迂闊に物を言うたが、元ではないか?』
正眼の苦渋は重に承知している。
承知しておればこそ、正眼の前でもけして、弱音をはかなかった。
「そういえば」
これ以上、どうにもならぬ己のくぼみを見詰めていてはいけない。
澄明は話を変えることで己の思いをきりはなした。
「比良沼で見た事もない生き物にあいました。
父上はしっておるでしょうか?」
「おう?」
どうやら、澄明の今日一日は、楠やら九尾だけでなかったようである。
比良沼の生き物と交わした話を伏せながら、正眼の見識を待つ。
「聞いた事がある。だが、不思議な事に
観たもの観たものすべて、違う容をいいおるそうな」
「そうでしょう」
澄明の頷きはおもいあたるふしがあるということになる。
「どうして、そう思う?」
「私の見る前で姿を変転させました」
「なるほど」
と、なれば生き物は観る者の心の映しを象っていると言う事になる。
成れば、生き物は澄明の最初の目にどう映り、
次の姿が何を映えさせたかと気になるのは、正眼の親としての思いか?
はたまた同じ道の徒である陰陽師白河澄明の推眼を量りうる思いか?
「初めは得体の知れぬ、まるで、ぬえのようにも」
蜥蜴と猿を交じり合わせたらああなるかと思う奇妙な姿に思えた。
「ところが、姿を変転させたら・・・」
「なにになった?」
「老人でした」
「ふううむ」
老人は力が弱く害のない存在の象徴ではあろう。
かてて、知恵あるものと思うは正眼だけであろうか?
「なんぞ、ことばをかわしておろう?」
生き物が澄明と交わした言葉が澄明の意識をかえさせ、
その澄明が感じたことが生き物の姿にとってかわったとするなら、
生き物はひょっとすると賢人と思わす言葉を吐いたかもしれない。
「ええ・・ああ。そうですね」
生き物と交わした言葉は白峰との定めに類する事である。
それを正眼に伝えるにはむごいものがある。
「ふむ」
澄明が口を濁し
かつ、己の思念を読ませまいと塞ぎを仕込みだすのが見えると
正眼は黙った。
気まずい雰囲気を取りつくろうかのように澄明は
「父上もしらぬものですか」
と、生き物の存在自体に話を戻した。
「わからぬの」
澄明の触れられたくない事であるとならば、おそらく白峰のことである。
生き物が白峰のことで
何かを小ざかしく知った口をきいたにちがいなかろう。
ただ、なることなら、澄明ほどの眼力のある陰陽師に
賢しいとおもわすことはなかったろうが、
澄明の泣き所である白峰のことを言われれば、
澄明のほうもその生き物を認めてしまうくぼみを持っている。
「白峰のような・・ことはあるまいの?」
「え?」
思わぬ挙を付かれて澄明が声を詰まらせた。
「いいにくいことであるが、神を魅了したお前であらば、
その生き物も」
澄明をくじる欲に狂って姿をみせてはおらぬだろうか?
「わかりませぬ。ただ、あふりは・・」
考えてみれば、澄明に欲を抱く者がいれば、
白峰のあふりが必ずあがった。
だが、その生き物が白峰のあふりを喰らった様子は一つとてなかった。
「ふうううむ」
白峰のあふりが上がらぬだけで
この生き物が澄明に邪恋の情をよせていないとはいいきれない。
「白峰の域よりも遥かに高い者なのかもしれない」
そのようなものに目をつけられたとなれば。
『結局、相手がかわるだけのことですね』
投げ出したくなるやるせない言葉をのみこんで、
澄明はついと立ち上がった。
「朱雀に問いたい事がございます」
「そうか」
思念を逸にして朱雀を呼び降ろしたいということである。
「判った。邪魔はせぬ」
曖昧模糊な生き物の正体をいくら詮議してみても
実の所なぞ判るわけがない。
朱雀に聞くが早いかも知れぬと思いながら正眼は澄明を見詰め直した。
齢十七。
双生のかのとに比べ顔付きにもどこか、暗い物がある。
たった、十三で己の運命を知らされ
白峰にくじられる覚悟をつけようともがき続けている。
ただ、親の悲哀は情けなくも澄明に好いた男が現れぬ事を喜んでしまう。好いた男がいながら白峰のくじりを受けねばならぬ澄明であらば
もっとづつなかろうと思うと、
恋も知らず
それこそ、妖狐の思い一つも汲めぬ澄明である不幸に
ほっと胸を撫で下ろさずにいられない。
『女子としての幸せな思いを持たぬことをよろこばねばならぬか・・』
正眼の苦渋が呻きとして漏れ出さぬ前に
正眼もこの場を立ち去る事に決めて、澄明宜しく立ち上がると
「わしは居間におる」
淋しくつげて、澄明の側を離れた。
「朱雀よ、いでませ」
朱雀に問うてみたい事があると正眼に云ってみたものの
澄明の声にかすかな迷いがある。
が、守護をしく紅き鳥は澄明の迷いさえみすかしてあらわれた。
「妖狐とおなじことなぞいいはせぬ」
朱雀は澄明の今日の出来事をすべてしりつくしているようである。
「はい」
朱雀の瞳は半眼になり澄明の言葉を待ちじっと、持している。
「とうてみたいことがございます」
「なんぞ?」
「楠のことです・・そのおり」
澄明の尋ね事が神への批判に繋がるかと思うと
言葉を吟味せざるを得ない。
「久世のことか?」
気取るに早いはいかに朱雀が澄明を守護しようと
焦点をそそいでいるかにすぎないが、
見透かされる気分と云うものはこうかと壇上の飾のように
身体が固まってくる。
「久世のことをどう悪態をつこうがかまわぬ。
お前の心をさらけてしまわねば、底に沈めた思いを気取られ、
久世にやられるほうがおそろしい」
心のそこで久世観音に悪しき思いを持っておれば
何の折、久世の懲罰をかぶるか、わからない。
「そのほうがおそろしい」
「はい」
それは澄明もじゅうじゅうに承知している。
承知して居ればこそ正眼にさえ話さなかった。
もし正眼が澄明の批判につい、頷くという
取るに足らないほど些細な同意をうっかり示したとしても
久世観音の懲罰は正眼にも及ぶ。
「私が倫をしく」
間違えた人間の思いを諭しなおす説教をする
と、いうことにしておけばよい。
澄明を矯正するためにあえて、心のうちをはきださせる。
久世の悪態をいくらついたとしても、朱雀の名において、澄明を守れる。
『胸をかります』
心のうちで朱雀の守護を謝し、
久世観音がえらんだ行動のわけに深き物があることをいのった。
で、なければ久世観音をにくみさえしそうだった。
「それで?」
やっと、心のうちのつかえをとることができそうである。
「はい」
澄明が久世観音に思った事は実に簡単な事である。
久世観音ともあろうものが
楠が人と通じ子をなすまでになった事に
もっと、早くにきがつかぬわけがない。
ならば、何故、切り倒しひき倒す懲罰を与えねば成らなくなるまで
見ぬふりをしたのか。
もっと、先、楠が人に化身して、男と情を交わし始めた時に
それこそ、なぜ倫をしいてとめてやらなかった?と、いうのである。
「久世観音ともあろうものが」
「なるほど」
「そうでしょう?久世観音のしきりの中のことではないのですか?
己がほっておいて、懲罰をとる?」
「だがの。成らぬとわかっておって、楠が命をかけておったら?」
「え?」
「澄明。私も前言を翻すしかない。
おまえは妖狐に云われたように情の怖いおなごじゃ」
「え・・・」
「久世はどんなにか、辛かったろうとぞおもう。
命をかけてまでの恋に、決めとはいえ懲罰なぞあたえたくなかろう?」
「そ・・そうでしょうが」
「おまえごときがそんな事くらいをわからぬとはおもえぬ」
朱雀は大きくと息を突く。
「かわりにいうてやろうか?」
「え?」
何をかわりにいうという?
「何もかも見ぬふりは久世でなく澄明おまえのほうだ」
「な?何をいわせられる?澄明はけして」
続く言葉をすらりと奪い取ると
「見ぬふりはしておらぬというから、
かわりにいうてやろうといいおるのだ」
朱雀の言葉の意味がむすべない。
じっと考え込んだ澄明だったが、やがて、
「おきかせください」
と、くちをひらいた。
「おまえの頭の中にある事は白峰の暴挙のことだ」
まるで、妖狐とおなじである。
だが、あえて前言撤回と言った朱雀である。
「おまえは、命かければ恋を、願いをかなえられる事に憤っておる」
「・・・」
「もっと、言えば、白峰の暴挙に命かける誠なぞあってほしくない。
誠があるばかりにお前は虫けらのごとくに白峰に翻弄される」
「いえ」
否定はしたものの其の通りですとばかりに澄明の頬につたうものがある。
流れ落ちる涙を拭いもせず澄明は朱雀をみすえた。
「なにゆえ、望まぬ事を強いるが許されるのです?
片一方の誠だけを掬い取って、願いを遂げねばなりませぬ?
白峰が神格だからですか?
神だから得手勝手な願いが叶うのですか?」
「澄明。そこがお前の情の怖さよ」
ふるふると握った拳がふるえだしてくる。
「白峰が誠であれば澄明は供物として、おのれをさしだすに
こんな光栄なことはないと?そう考えよと?」
語気荒く朱雀に食いつきそうな勢いである。
「それより以前に神に望まれ、不足をいうは、
人間の奢りだとおもわぬか?」
「神?」
古より、天空界におわす神ならば、
人と交わろうなぞと云う欲をもちはすまい。
地に居る神は欲を律しきれず欲の重さで
天空界に上がれぬうつけであろう。
神であろうがなんであろうが、
なぜ其の欲をはらす手伝いに憤るを奢りだと言われねばならない。
「そこがお前のたらぬところよ」
朱雀の言葉が癇にさわる。
「足らぬ?何がたらぬといいます?」
「妖狐があきれるわけだ。御前は・・・」
「なんだといいます?」
「優しゅうない」
「優しいというは、白峰のくじりをよろこべということですか?」
「そうだといったら・・どうする?」
「楠の如き、双方が惹かれあうならまだしも、澄明には解せません」
「ふむ。その情の怖さが同じ情の怖い白峰をよぶのだろうの」
「ど・・?どういうことです?」
「白峰の心が晴れぬ限り、お前は来世でも
同じことをくりかえすであろうの」
はっと息を飲んだ澄明である。
朱雀の言う事は沼で見た異様な生物が云った事と相通じるのである。
「し・・白峰の心を晴らせば同じ事を繰返さずにすむというのですか」
「そうだな」
「白峰の心を晴らすためには、澄明が喜んでくじられるしかないと、
つまり、こういうことですか?」
「それだけでは、足らぬがの。
が、今の御前の心は己のための解脱でしかなく、
心から白峰を受けてやろうなぞと云う気持ちはなかろう?」
「・・・・」
この先に起きる白峰との事を諦めるのもやっとであるのに、
どうして、白峰を心からうけいれられよう。
「できるわけがない」
『だから、情の怖い女子なのじゃ』
神格である白峰が澄明恋しさになりふりかまわぬ嘱望をよせ、
じっと、澄明が大人の女子になるのをもう五年もまっている。
が、澄明はかほど恋いうる白峰を憎しと思う事はあっても、
白峰の想い一つを哀れと思う事は露のかけら一つない。
無理はないと思うが白峰の嘱望を陵辱に染めるものこそ、
澄明自身の思いかたひとつでしかない。
澄明が白峰の恋情にほだされるなら、ことの事実は凌辱にならずにすむ。
たった一つの思い方の違いでしかないが、
白峰の凌辱に晒されると思うか、
白峰に愛されると思えるかで
澄明の苦しみは天と地ほどにかわってくる。
そのためには、
心のどこかに白峰への情のひとかけらがあればよいのにと
朱雀は説きたいのだが、
いかんせん、澄明自身が沸かすしかない思いである。
いくら、口で言ってみて
澄明の頭が判っても所詮気持ちがついてゆかぬ。
おまけを云えば朱雀の云いたい事にたどり着こうにも
澄明の気持ちは硬くこわばって、憤る感情を
ますますさかなでするばかりになっていた。
  
其の後朱雀は黙りこくった澄明をじっとまっていたが、
澄明にやっと「もう少し考えます」と、告げられると
南天に帰することにした。
次の日の澄明である。
鬱々とした思いは
昨夜の朱雀とのやり取りを反芻させるだけである。
朱雀のいうとおりである。
確かに楠の誠は命をかけたものであろう。
だが、例え其の先で死を持って帳合をあがなうとしても
これを赦す久世観音が、不遜におもえる。
なってはならぬことであるなら、成らす前にとめるべきである。
其の上で久世観音の言う事を聞こうとせぬときりたおしてしまえばよい。
それもせずに何故楠の情恋をかなえてやらねばならぬ。
何故?
こう思う裏側で確かに白峰をつきくずせぬものがないかとさぐっている。
せめて、事を塞ぐことができないなら、
人と人でない物が交わるが過ちであると、
楠を決済せねばならぬなら、
白峰にも何らかの懲罰がくだされるべきであろう。
澄明は地上に縛り付ける欲を晴らさせ、
白峰という神を天空界に飛翔させるための道具か?
天はそれ程に神が大事か?いわんや、楠が大事か?
人の肉体を供物とさせる間違いを犯す事から、なぜ、ただそうとしない?
それとも、人なぞ虫けらのように些細な存在でしかなく、
神や精霊の欲を漱ぐお役に立てるを光栄と思えというか。
畢竟、人に感情があるばかりに神の所作の間違いを知るが
是さえ分を過ぎたおごりだというか?
だが、人が虫けらの如きつまらぬ者であれば
何故身も世もあらぬ神が人間の女子を相手にする?
知恵も感情もいわんや、おごりもない獣なら、
神の思うままにその恣意にそってゆくだろう?
なぜ、人間なぞに心を寄せる?
ましてや、白峰なぞ、元を正せば蛇ではないか?
蛇の分際が神格にならば、人を求むるがゆるされる?
蛇らしく蛇をもとむればよかろう?
じっと考え込んでいた澄明がはっと自分に気が付いた。
―私は久世観音の裁断や経緯におこっているのでない―
楠が既に人と交わった事がゆるせないのだ。
確かにそうだ。
妖狐のいうとおりだ。
楠が人と交わった事を赦すと言う事は
白峰をもゆるすしかないということだ。
白峰を赦す気持ちになぞけして、なりたくない。
是が朱雀のいうことだ。
赦せない白峰に誠の思いがあるとなれば、
澄明は人目には白峰の寵愛を受ける事になる。
誠一つぞと無き陵辱であるなら、まだしも
白峰側からの事実は情恋のはての結びになる。
―是が赦せない―
そして、赦せない事を赦す者がいる。
一方だけのまことをみて、欲をすすがさせるをよしとする。
澄明の思いは元を巡りぐるぐると同じ所をまわるだけである。
楠の辛い気持ちもわからぬでない。
出来るものならば、楠にとって本の短い時にしか過ぎぬ
人の一生を追わせてからでも、裁断を下しても良いではないかとも思う。
子まで成させて。
だが、それも、ならば白峰を赦しても良いでないかと自分にはね返る。
なんで、人に恋情をいだかねばならぬ?
楠を責める気持ちが鬱々と澄明に被さってゆくうちに
澄明は知らずの内に鴛撹寺に足を向けていた。
鴛撹寺の境内の端ではやはり木挽きが繰返されている。
其の楠の近くにひととせにならぬ赤子をだかえた男が
じっと木挽きの様を見守り続けていた。
それが楠と契りを交わした次三郎に違いなかった。
次三郎は楠から別れを告げられたおり、
我妻が楠の化身である事をもつげられていた。
それがどこの楠であるか。
何故今更急に別れを告げねばならぬかと不思議に思った。
思ったが暫くせぬうちに鴛撹寺の楠の怪を耳にする事になる。
と、さてはそれが我妻であったかと悟ると共に、
切られる事になった宿命が別れを告げさせたのだとしった。
次三郎が楠の木挽きをあっさり諦めるにもわけがある。
楠は己の正体を次三郎にあかした。
明かした折に正体を明かした今、もう人に戻る事はできぬと教えた。
幻惑を見破られればもう術にかからぬと同じことである。
楠が全てを明かしたのは是が今生の別れになると覚悟したせいで
二度と楠は人の姿にもどらぬということであった。
この覚悟を次三郎は悟った。
二度と人に化身できぬ運命に従うためにも、
楠はあえて己の正体を明かしたのだと。
其の運命が木挽きである。
だがそれでもしたがうつもりで覚悟した木挽きに逆らう楠がいる。
いくら、逆らっても楠は二度とひとにもどれない。
戻れない楠が、
己の宿命に従おうとするはずの楠が、怪を見せる。
この怪がなんであるか。
次三郎には苦しくもわかる。
『あんじなや。わしが坊を立派にそだててみせる』
そして、次三郎である。
『坊がおらなんだら、わしもお前の後をおうてみせように』
楠が残した真実は既に命さえいらぬといっていた。
鴛撹寺を去る澄明の胸に後悔が走る。
澄明は楠に手を当てたとき、こう尋ねた。
「お前はあほうじゃ。我が身を捨て去る愚挙のはてに
次三朗を苦しませておる。
何故、次三朗が人の女子と巡り会う幸いを念じて見守っておらなんだ?」
せめてもと己の気持ちを次三朗に告げるだけならまだしも、
思いをむけらたいと望むは、楠の分を過ぎている。
それでさえ過分であるに、人に化身し子まで成す仲になる。
「何で、人としての幸いを願ってやらなかった?」
成ってしまった結果を覆せるわけもない今、澄明の言葉は虚しい。
「あなたにはわかるまい」
思いを寄せてしまった男の心を捕らえたい。
こんな情念の底なぞ判るまいと楠は言葉をかえしてきた。
よしんば、男の心を捕らえたいために人に化身するを赦すとしても、
それは楠の得手勝手な情念である。
偶々に次三朗が楠に本意になったが、
もし、次三朗が謀れた事に憤るとすればどうなる?
そうでなくとも、男の心を捕らえたいが為の
あまりの己の勝手でしかない。
「己さえ誠であればたばかってもよいか。情念をぶつけてよいか?」
ここまでとうてみて澄明は気がついた。
結局、白峰の暴挙を見ている。
楠の元は勝手なそれこそ邪恋でしかない。
楠は邪恋が本意になるをあてこんで、次三朗にちかづいていった。
白峰も又、そうであるのかもしれない。
澄明が本意になるかも知れぬと、
白峰の邪恋も赦されているという事か?
切欠がどうであれ、双方が誠になりえるかも知れぬなら、
邪恋もゆるすか?
赦されているとしかいえない。
白峰の執着は澄明に懸想を寄せるものにあふりを食らわす。
好き勝手にあふりを食らわせる事が出来る。
これをみてもあきらかである。
澄明が他の男のものになりえることまで阻み、
己の邪恋を寄せるば、澄明が本意になるかも知れぬと云う、
澄明にとっては有り得ない可能性にまでかけるこそ
白峰の誠と天がのったか?
「おまえさえ、誠なら・・よいか?」
楠は答えなかった。
替わりに次三朗がああいった。
楠の思いがどうであるかなぞでない。
大事なのは自分の思いがいかであるかしかないと。
双方が同じ思いを抱いた今、元が邪恋である事も
得てかってである事も関係がないとつよくいいきれる。
「次三朗がお前をうとんじていたら、そういっておれるか?」
浴びせかける言葉は容赦なく楠を打つだろうが、
それは白峰の暴挙にさいなまれる哀しい澄明を露呈させるだけである。
疎みながら白峰を受け入れねば成らぬ己の悲劇が
楠の幸いをやっかんでいるにすぎない。
「おまえ。情の怖いおなごじゃの」
楠にまで、同じことをいわれた。
「お前に思いかける者はうとまれるだけか?」
くだらぬちっぽけな己でしかないと思えば
こんな自分に思いをかけてくれるはありがたいことである。
己の卑小さを知る者は寄せられた思いにこうべをたれる。
むろん、次三朗のこの謙虚さに乗じたわけではない。
が、次三朗は楠の思いをすなおによろこんだ。
よろこんだ上で、受け入れたに過ぎず、
受け入れぬ受け入れるは次三朗の自由である。
「次三郎はよろこんでくれた。それだけでじゅうぶんじゃった」
それだけで、充分じゃった男が楠を求むる。
恋しい男に求むられて拒む女子がどこにおるか。
それだけのことでしかない。
どこの世でも男と女が繰り広げる顛末でしかない。
「吾はしあわせじゃった」
楠はさいごにそういった。
澄明は楠からてをはなした。
そして澄明の心に植えられたひとつの悟りに後悔をおぼえた。
悟りは、澄明に白峰をさいわいにするもせぬもお前次第だという。
『楠の最後の言葉をきくでなかった』
誠のありようがどうであるかはもとより、
白峰が事が暴挙にすぎないかなぞ
どこかにふきとんでしまいそうである。
白峰もまた、楠のように幸せであったと思いたいことであろう。
ふと、きざした悟りにとらわれ、
暗澹とした気分に包み込まれたまま、
澄明はいつもの通り街外の見回りへ足をむけはじめた。

手の中にはまだ赤子の柔らかな命の息吹がのこるようである。
次三朗の峻烈な思いもうらやましくさえある。
命を懸けて得た物の重みの名残りが澄明を無言のまま圧している。
得手勝手といわれようがほしくある次三朗のおもいである。
別れの辛さよりこの手にしたかった赤子の息吹である。
命や、杓子定規な定法などいくらのせても楠の量りはかたむきはしない。
白峰もおなじか?
さすれば、白峰を無明地獄に突き落とすはこの澄明か?
たった一つの愛しさを欲するが、とが、でないとするなら、
それを与えぬ澄明こそ人でなしか?
「あはは」
木陰から笑いでたるはまたも妖狐である。
澄明の反問を平気で読み下し、ずけずけと音に成す。
「まっこと、いやならば、お前も誠をみせればよかろう」
「誠?」
嫌だという誠とはなんであろう。
関らぬことよと思っていたはずの妖狐の突飛な言葉に
つい澄明はたずねかえした。
「いやでいやで仕方ない成らば、いっそ、おまえも死んでしまえ」
「それが、まことか?」
ふきだしそうである。
云うに事欠いて何で白峰の陵辱から逃れるために
死んでしまわねばならぬ?
「死ぬほどいやでもないなら、たいしたことではないでないか?」
人事と思わば、ぬけぬけと
死ぬほど嫌と云う思いこそ誠の範疇にはいるといいのけて、
命をすてるほどでもないことで
ごてるは赤子の如き我侭だと暗にいう。
「とうにかくごしておるわ」
思わず口を返したは澄明のつよがりにしかすぎない。
「ほおお?其の覚悟が何故にこうもあっさりひっくりかえる?」
グッと喉の奥が詰まる。
妖狐は澄明を読み下せる。
「好いた男が・・・・未練か?」
塞ぐまでもない。
とうによまれていた。
「おまえは・・・・」
何を読んだか、妖狐はだまった。
だが、人事と言えど、
わざわざ楠をすくうてやれといいに来る妖狐である。
「まあ・・男のさいわい、いのるしかないの」
楠の男の事をいうか、
澄明の想い人を言うか、定かでない哀れみをうかべて、
諦めるしかない定めをなだめる。
が、辛らつである。
「いくら、すいておっても添えぬ相手は添えぬ。
それを人であらぬ楠が思いを成就させるがにくかったか?」
白峰の事がなければ・・・添えぬ相手であっても、
せめても楠のように思いの丈だけでも
はきだすことができたかもしれない。
さすれば、せめて・・・ならぬままでも子を成し。
こういいたいところであるが、澄明はわらった。
「妹ととりあいなぞしたくはない」
ならぬ恋は諦めるしかない。
自分がこう諦念するというに、人で無き者はうつけばかりだ。
やっと、澄明も皮肉に妖狐にいいかえした。
「おまえもならぬ恋になくばかりか?」
「しかたなかろう?おまえと同じ。
好いた男のさいわいいのるしかなかろう?」
嫌な目をするかと思った妖狐が存外素直にしゃべりだした。
「やっと、輪廻転生を果たし恋しい男もこの世におると判って
ここまできてみれば、
楠にとられてしもうたあとじゃった」
「え?」
今、妖狐はなんといった。
「すると?」
妖狐の恋の相手は次三朗であったはずである。
それが何故楠にとられる事になる?
「仕方なかろう。魂に刻まれた因縁がなさせる業じゃ」
次三朗の魂に「人でないものと結ばれる」と、
刻まれた因縁が人でないものの恋情をひきよせさせる。
「す・・ると」
今の今まで楠が次三朗を引き寄せていたと考えていた事が逆になる。
いうなれば、楠こそ次三朗の因縁にひきずりこまれたのである。
「なんと」
やっと、澄明に久世観音が楠を許さねばならなかったわけがみえた。
そして、
「妖狐。それで、お前は楠をすくうてくれといいにきたか」
「ふん。吾はまだ、転生できるが、楠はそうもいかぬまい?
それに今日の次三朗を見ておって判ったろう?
あれの思いはもはやかえられぬ。ならば、今回は楠にくれてやるわ」
こんどいつ巡り会えるか判らぬを思う妖狐の瞳が
きつくみひらかれると言放った。
「なれど、今度こそ。次の転生でとらまえてみせるわ」
「妖狐・・・?おまえ・・」
「哀れに見えるか?」
いや。そうではない。
ならぬ恋を諦めぬうつけばかりでないのだ
と、澄明は妖狐をみておもいなおしていた。
「楠が事はもはや、どうにもならぬ。わかっておった。が、なぁ、澄明」
妖狐は、ずいと澄明に近づくと声を細めた。
「吾は、本当は次三朗に知られもせず諦めねばならぬが
口惜しかったのかもしれない。
だから、せめて、こんな思いを持った女子がいたと言う事を
誰かにしっておってほしかったのやもしれぬ」
人事のように胸のうちをあかし、
「転生。転生。吾は待つのみぞ」
からから笑い声をあげたとおもうと、
「気が晴れた。さらば」
高らかな歓声だけが残り妖狐は姿を消し
この後澄明の前に二度と姿を見せる事はなかった。

妖狐は気が済んだかもしれない。
が、実の所、妖狐の言葉が澄明を
さらなる困惑の只中に落としているとはしりもしない。
一つの疑念は終焉を迎えたが、
思いが今生で叶わぬなら転生の後にかけるといった、妖狐の言葉に
澄明はぞくぞくする悪寒さえ感じていた。
これこそ、朱雀の言う
「白峰の心が晴れぬ限り、
お前は来世でも同じことをくりかえすであろうの」
であり、
「因縁は更なる因縁を産む。
お前は其の流れに飲み込まれたまま生き続けたいか?」
と、沼の生物が明かしたそのままであろう。
楠に悟らされた通り白峰を幸いな気持ちにさせてやることができねば、妖狐の如く、白峰も澄明の来世を待つことになるのではないか?
こう考え付いた澄明の背中に
冷や汗が粘るように伝い落ちてゆくのがかんぜられた。
楠や妖狐にとりまぎらわされ、後にしていた
沼の生物との会話が現の如くにあがってきた。

「因縁は更なる因縁を産む。
お前は其の流れに飲み込まれたまま生き続けたいか?」
「変転できるというのか?」
「因縁は通るしかない。ただ、通りこすことで更なる因縁は納所できる」
「通り越す?どうやって?」
「ままよ。因縁のままに通る。
形は同じだが、通り越すと通るの違いは思い如何による」
「?思い?」
「そうよ」
「して、いかなる思いをもてばよいという?」
生き物は少しばかりにやりと笑ったように見えた。
「お前次第。わしの姿が得たいの知れぬ者に見える内は
変転もできはすまい」

確かこのような事をいうたと思う。
沼の生物のいうた、いかなる思いを持てばよいかは
ここ暫くの騒動で見えてきた澄明であるが、
この思いを知った澄明の目に果たして沼の神はどう映るのであろうか?
どう映れば沼の生物の言う「変転できる澄明」と言う事になるのだろう?
澄明の映した姿を沼の生物はよしとするのだろうか?
違うとされれば、
それは、変転できる思いに達してないということになるのか?
まどうておるよりも見た方が早いと
澄明は比良沼のある甲塚山にあがっていった。
山と云うにはおこがましい。
なだらかで、わずかの高地をていしているにすぎない甲塚山であるが、
頂に開けた湿地帯を有している。
奥にある比良沼の水が溢れ逃げ場所を求めた。
僅かに溢れくる湧き水は流れを作る事もできず
辺りをゆっくりと侵食し、是がやがて、湿地帯になった。
澄明は湿地帯を囲む木々の根方を伝い、奥へ奥へとすすんだ。
沼はしんと静まり深いよどみは漆黒に近いを翠をなしている。

聞いてみたい事が幾つかある。ひとつは妖狐の言葉に類する。
魂に刻み付けられた男の因縁と妖狐はいった。
それはこの世に男が存在を派生させたそも最初から
刻み込まれた物ではなかろう。
妖狐の最初の情恋が知らぬうちに
男の魂に因縁を刻み込ませたのであろう。
で、あるならば、
この澄明も白峰によって、因縁を刻み付けられるということになる。
だが、朱雀も沼の神も因縁を刻みつける元こそは
澄明の思い遺憾に関ると同じ事をいうた。
澄明の事は妖狐のように互いが求め合うことで出来た因縁ではない。
来世に持ち越す事は有り得ないと考えられるが、
実際妖狐の様はどうである?
妖狐は男との恋の為に、転生を繰返しているが
今回のように恋を果たせねば来世にもちこすという。
同じように白峰が澄明との契りに幸いを得なければ
来世にもちこさぬとも限らない。
あげく、是がそもそもの刻み付けになるだけかもしれない。
どうすればよい?
冷たい汗が乾ききらぬというに澄明の身体は冷えを感じさえしない。
頭の芯に穿たれた思いが足を速めさせ澄明は比良沼の端に立った。
「沼の主・・・」
呼んでみたが沼の生物は姿を現さない。
是は呼び名が違うかと思うところが澄明の粋かもしれない。
「沼の・・・」
はたと考え直す。
本人は神の域のつもりの者なのかもしれない。
「沼の神」
はたして沼のよどみが開け、沼の神が姿を現すようである。
ごくりと澄明の喉が空息を飲む。
澄明の前に現われる沼の神はいかなる姿をみせるのであろうか。
「哀れな。小ざかしい知恵は己によるものでない故に、哀れな」
呟きがきこえ、澄明の前に姿を見せた沼の神の姿に
澄明は己の目を疑った。
だが、是こそが実体なのかもしれない。
澄明は後に引く間合いを取りながら、いやらしげな男をみつめた。
「ふん。正眼にいらぬ知恵をつけられ、心の目が開かぬか?」
股座の脹らみをなでさすりながら澄明を見る男の目は
女子への色欲をありありと浮かべ、だらしなくあいた口元も、
すいたらしさを表すばかりで賢人には程遠い代物でしかない。
「そ・・それが・・」
本性か?父正眼に見破られたゆえ、
澄明をたばかることができなくなったか?
それとも、この澄明が沼の神のつぶやきのとおり、
正眼の危惧に己の心の目を曇らせたか?
どちらを信ずればよい?
「己を護ろうとばかりする者は弱い者じゃの」
藪をにらむかのような目つきが澄明の女子を
上から下までなめるようである。
ぞっとする嫌悪感がわく。
この場を逃げ出してしまいたい澄明は自分を堪え
立ちつくすがやっとである。
それでも、堪えながら澄明はたずねた。
「己を護ろうとする者と云うは澄明のことですか?」
「あたりまえだろう?このわしの前に他に誰がいる」
「ど・・どう、守ろうといいます?己を護るきなら」
こんな怪しい生物の前にわざわざ来はしない。
関らぬようにするが得策ではないか?
「笑止。おまえの眼に映った姿の男が、おまえにどうするか
・・みてみたいか?」
びくりと澄明の足があとずさりをみせるとからからと笑う。
「元々、ここに来ようと云う思いが、いかなるものだった?
己の保身しかなかろう?」
じっさい、その通りである。
「己を、くじられる哀れな女としか見ていないお前の反映が
わしのこの姿ではないか?
わしと対峙するに、お前は哀れな自分を通してしかできぬ。
是が弱さじゃ」
「ならば、どうするが、強いというのです?」
反駁する事も出来ぬが口おしく、窮鼠猫を噛むが如く、
言葉の意味あいだけをつまみ、言い返した澄明の言葉は自分でも虚しい。
結句、沼の神の言うとおり、弱い自分が強くなる法をもとめている。
すなわち、やはり、保身でしかない。
「強いというは優しいということじゃ」
「だったら、優しいとは如何?」
「わしをだいてくれ」
沼の神が見せている男の、無理にでも女子を犯しかねない風体とは
裏腹に優しげな嘆願である。
「そ・・・それが・・やさしさか?」
「ぷぁっ」
「なに?」
妙な嬌声は沼の神が噴出したものであると判る大笑いが
澄明の耳に長く響き、じっと、沼の神の笑いがおさまるをまった。
「なにがおかしい?」
「いや、いや、白峰はようもこんな子供ににほれたものよと。
あはははは」
澄明の噴石がくずれそうである。
「妖狐にも同じ事をいわれました。
一体、澄明のどこがこどもなのです?」
それが、判らぬ所が子供よといなすと思った沼の神は案に相違した。
「子供というは、己の事しか考えぬから子供よ」
この場合、反義がある。
「大人と云うは、周りのことを考えるということですか?」
「そうなるの」
「つまりは、自分事より、回りの事を考えよとこうですか?」
「そうだの」
沼の神の言う周りとはなんであろうか?
沼の神が澄明から引き出して見たい悟りを探る。
「周りと云う・・たとえば父のことですか?」
「それもあるの」
それもある?
・・が、それさえも考えておらぬといわれる事が一等判らぬ。
判らぬが、百歩譲ってみても正眼の事を考えておらぬということが、
白峰の懸想の相手を子供と侮蔑する事につながるわけがみえぬ。
「澄明が正眼が事を、考えておらぬが、白峰をも酔狂といいますか?」
「親の言葉が理になり白峰を迎えねばならぬ定めを与えられ・・・」
澄明の瞳が真向こうを向くを避け、ふせがちになってゆく。
「つらかろう。くるしかろう。
だが、正眼の思いを知らぬ白峰でもあるまい?」
「・・・・」
それでも澄明を望まずにおけない白峰の思いや、いかばかりか?
「正眼の苦渋を踏んでもお前を望む。
この白峰の真摯を見てやる気はないか?」
沼の神の言葉に澄明は
真摯を向けられたいは政勝であるにと哀しく思った。
伏せた瞳を上げると、目の中に映った沼の神は、政勝の姿だった
「え?」
沼の神は澄明の思いを映し込んだのだ。
「ほ?」
沼の神も一瞬の変転を悟った。
「親の苦渋をしりとても望まれたい男はこやつということか?」
「い・・え」
澄明の戸惑いをみぬく。
「妹と争う、も、省みぬお前でありたいが、本当だろう?」
「違う・・」
「ちごうておりはせぬ。
お前は白峰の如く勝手気ままに望むものに触手をのばす事もできぬ。
白峰の勝手な生き様は羨ましくもあるが
それをうらやめば己がつぶれる」
「ちが・・う」
「ちがわぬ」
政勝の姿が澄明をときふせようとする。
そうだといえば澄明はどうなる?
何もかも、正眼の一言が元で心を寄せた相手も諦めるしかなくなった。
だが、正眼を責めたくはない。
己に与えられた定めに従うしかないと決めた澄明の
どこが子供だという?
沼の神のいいぐさは己の心に従うが、大人であるかのようにきこえる。
こんな、馬鹿な大人があっていいものか?
「なってはならぬことであっても、ならせたい。
この思いに殉ずる事ができぬが、子供なのだ」
澄明の胸の内の反問を読み透かしている。だが、
「それこそ、己のことしか考えぬ子供でしょう?」
「だから、いうておろう?正眼の苦渋をしった上での決心であると」
何もかもを踏まえたうえでの選択というか?
「ならば、澄明のどこが子供です?
白峰のどこが大人だと言います?」
何もかも踏まえて諦念するが、子供で、
何もかも踏まえて己の我を通すが、大人?
「それが本心か?己の心のままか?
己の心に偽らざる生き様に添おうとできぬものが、
白峰の覚悟の下の痛みなぞ、わかるまい?」
「馬鹿なことを・・。誰のせいで澄明は」
其の名を出すにいくばくかのよどみをみせたが、
心を寄せている事実を認めなおすしかない。
澄明は、城で出会ったその日から心引かれた男の名を
はっきりと口にしてみせた。
「誰のせいで政勝殿をあきらめねばならなんだ?」
「なんで?あきらめねばならぬ?」
「な?なにを?」
あきれて物が言えぬというは、まさにこの事かもしれない。
だいたい、沼の神は澄明と白峰の定めを解しているはずである。
「馬鹿な・・。白峰に・・」
己のこの先を己でいうに、その言葉はあまりにも惨めである。
白峰に嬲られる己がなんで、政勝を慕えよう?
と、云うさえ、あわれである。
「それで、諦めれるなら、諦められるだけの思いでしかない。
お前は諦められる言い訳を作って、
真の思いでない自分を繕っているに過ぎない。
清くない自分では、政勝にすまないと、いいわけをしてみせるが、
ようは、政勝を振り向かせる事が出来ない自分を認められないだけだ」
「なんで?なんで?そうなる?」
「己が清くなければふりむかれぬ?
人の作った神話の通り、良い子でなければならぬか?
おまえの己勝手の裁量でしかなかろう?
白峰にいくら、くじられようとて、
それでも、求めてやまぬものではないのか?
良い子で居ろうとするこそ、
己がことばかり考えておる子供だとおもうがの?」
「澄明の裁量は保身だといいますか?」
「ありたかった美しい恋ができぬ。と、ふてておるだけだ。
こんなものは真でもなんでもない。己可愛いだけでないか?」
「なにも・・そこまで」
酷いいわれようである。
「だがの。いくら白峰に穢されようが、
それでも求むる女の心に政勝は振向かずにおれまいに」
「それは」
卑怯といおうとした。騙しではないかと問おうとした。
「大人と云うはそういうものよ」
沼の神の悟った物言いの意味合いなどわかるわけがない。
「それが自分の事しか考えない子供ではないというのですか?
自分さえ良ければと我をとおす子供ではありませんか?」
「わしは周りを考えるが大人じゃというたろう?
だが、お前は周りを考えるというたをとり違えて居る」
「どういうことです?」
「妹と縁を結ぶ男と判って、身を引くは結構。
だがの、問題はそんな事でない。
白峰の事がある。妹との縁がある。
ところが、なっては成らぬはずのものでも求めずにおけない。
その思いをして、周りが赦さずにおけない。
周りが赦さずにおけない思いを持つこそが
大人ということなのだ」
「そんな・・勝手なはなしなぞ・・・」
「ある。むしろ、勝手なのは己可愛いで
自分をはかなむしかないお前の子供ぶりだ」
鋭く言い放たれた澄明の胸に兆すものがある。
―周りが赦さずにおけない―
白峰の暴挙が何故赦される?
何度、恨みがましく思った事だろう?
暴挙の帳合は神といえど赦されるものか?
天罰をくらえばいい。
人を呪わば穴二つ。呪詛の心が己を堕とす。
堕ちるぞ。堕ちては成らぬと心を空にするに努めた。
それでも、何で、赦される。
なんで、白峰の我侭が通るといかにくちおしかったか。
それが、これか?こんなわけか?
きっと沼の神を見詰めなおすと
「なれど、この澄明。政勝殿のこと、我をとおせば、
それこそ白峰と同じ。こう考えます」
「なるほど。白峰と同じになりたくはないか?では、聞く」
「はい?」
「政勝がおまえをのぞんだらどうする?本心はどうだ?」
「あ・・」
「ふりむかれたくもないか?のぞまれたくもないか?」
瞳からつぶらなしずくがあふれてくる。
「それをこたえろといいますか?」
「いや。だが、覚えておくがいい。
お前が本心は我を通してでも政勝を掴みたい。
この心はまた、白峰と同じものでしかない。
嫌で仕方がない白峰と、お前の思いは形こそ違え
底に流るるものになんの違いもない。
白峰と同じになるまいと思うお前の底こそ
白峰と同じ思いでしかないことを覚えておくがいい」
思わぬ笑いが鼻先に上がってくる。
「ふっ。そんなことを覚えておいて、
自分をさげすみ、はかなむ役にたてろとでも?」
裂くような皮肉を返した澄明を見つめる政勝の姿を模した沼の神の瞳は
酷く優しかった。
「で、なくるば、白峰をだきおおせぬ」
なんで?
抱かれねばならぬ定めとて、渋々、不承不承でしかない。
それが、何で、こっちから、だいてやらねばならぬ?
ましてや、だきおおさねばならぬ?
だきおおす?おおす?
「でないと・・因縁とおりこせぬ」
いうが、沼の神は姿をくゆらそうとしはじめていた。
通り越すとは如何?
答えを知りたい澄明は
沼の神の前にぐっとのめり沼の神を引止めようとした。
澄明ののめった身体に手をさしのべると
沼の神は澄明を胸元にひきよせた。
沼の神の姿は恋しい男のままである。
「だいてくるるか?」
恋しい男が澄明に思いを向けている。
こんな幸せな幻はない。
瞳は伏せられ夢の中に身をまかせてしまいたくなる。
「そう・・その思いだ。その思いで・・だきおおせ」
幻の手が澄明の胸に触れ裾裁きをまくりあげ始めたとき、
澄明に怯えが走りわずかな覚醒が現を運んできた。
『違う。この人は政勝では・・な・・い』
瞳を開け澄明は確かめたかった。
幻でもいい。
政勝が澄明を望んでいる。
其の夢に身を任せきるためにも、澄明は瞳をこらした。

だが・・・・。
そこにいたのは、政勝でなかった。
沼の神を呼んだときに現われた淫卑な男が澄明を抱いていた。
「あさましい・・」
沼の神の見せた淫卑な男の姿のことではない。
目の前で何度となき沼の神の変転をみれば、
否が応でも是が己の心の象りでしかないとかんがえつく。
と、なれば、この淫卑な男も澄明の心の象りである。
己の心の底で政勝を求めているを見せつけられ、
澄明は我を忘れ、幻に身を任せようとした。
政勝恋しのはて。
叶わぬ恋のはて。
幻で己の憂さをはらそうとした。
これもあさましい、己の欲である。
だが、幻であっても政勝への思い一途になるなら、
澄明の思いは真といえるかもしれない。
ところが、己の思いを晴らす欲に狂いきれもしない。
己の思いだけに照準を合わすことさえ出来ない。
澄明の心に忍び込んできたものは疑いであり、保身である。
沼の神こそ、白峰の先をなして、
澄明をくじろうとしているだけではないか?
ふっと、わいた疑いはあっという間に政勝の姿をうばいつくした。
いっそ、幻でもいい。
いや、幻だからこそ、己の恋情を昇華できる。
うっかり、現の政勝に近寄れば、かのとを苦しめる。
政勝をしても、白峰のあふりにさらすだけである。
ゆるされるものが、この幻でしかない。
澄明の戒めが解かれ己の心のまに飛翔する事が赦される
ただ、ひとつの悲しい幻惑。
で、あるのに・・・。
「あさましい」
結局、己の身を恋の駆け引きにつかいたいのだ。
幻にこの身をくれてやっても、現の政勝のことだに届きはしない。
みかえりさえない幻との接触は己の心に殉俸する事をやめさせた。
そして、己の心を量ることをやめ、沼の神の真意を疑った。
とたんの、変転である。
あさましく淫卑な男が澄明を抱いている。
いや、あさましいのは己である。
己の真一つにこの身をかけられず、見るは沼の神。
向こう側である。
「心というはしにくいものよの」
沼の神は澄明を抱いた手を緩めた。
「お前も是が実体でない、お前の生み出した者であることは、
もう、わかっておろう?」
小さく返事をする澄明を押しやると
「白峰の情恋如き、手のひらに乗せてくるんでやれぬお前だ。
己の心さえくるめはすまい」
澄明を見詰めた沼の神の瞳が憐れむに優しい。
「私は」
沼の神をくるむことなぞ、露一つおもいもしなかった。
だが、この言葉は沼の神に引き出されたものに過ぎないと、
澄明が飲み込んだ言葉を悟る沼の神は小さくうなづいた。
「また・・くるがよい」
「はい」
このまま、澄明を我が物にして出来ぬ事でなかったはずであるに
沼の神は成さぬかった。
沼の神は澄明に何かを教えようとしている。
教えた物を育ててゆこうとしている。
それは、たんに白峰と同じ思いで、しかないのかもしれない。
沼の神の男としての思いを良く受け止める澄明を
作ろうとしているのかもしれない。
だが、思いは何かを掴み始めている。
はっきり、姿をみせないが、
澄明の中に沼の神が植えつけようとする悟りが根を下し始めている。
この悟りを掴む事が
あるいは沼の神の手に落ちることになるのかもしれない。
だが、何かがある。
自分の知らない何かがある。
産声を上げる前の赤子は今暗い産道で命を掴もうと必死である。
なにか。光明がみえる。
是は澄明の陰陽師としての感でしかないかもしれない。
だが、
「又、来ます」
強く言い直すと澄明は比良沼を後にした。

とうとうと流れる涙があわれである。
澄明が鴛撹寺をあとにし、比良沼へ足を運んでからの三日の間。
澄明に教えられたとおり次三朗は楠の怪を抑えた。
楠は元に戻るにも木挽きの屑がない。
木挽きの屑があっても次三朗に盛り込まれた切り口の塩が
屑を寄せ付けず木肌を盛り返す事もさせぬだろう。
諦めるしかない。
楠も覚悟が欲しい。
愛しい者が悟法をしく。
これで、未練ごと切られて行くを楠も望んだ。
「やっと・・」
次三朗の涙である。
「やっと、たおれました」
楠の大木はみしりと片ぶき、ゆるりと身体を斜に落していった。
楠がどうっと倒れ身を横たえた境内で
枝は取り払われ、大火にくべられた。
次三朗と赤子は小さな枝を取ると火の中にくべこんだ。
「ちゃいよ」
次三朗が声をかけると赤子は火に枝をなげこむ。
木屑もそうした。
赤子は楽しげに木屑を掴むと
「ちゃあ」
と、声をあげ香炉に木屑を落した。
次三朗の腕の中に抱かれた赤子は
何度もかがみこむ父親の意図を悟るか
飽きもせず木屑を掴むと香炉の前に歩み寄った父の腕の中から
香炉に木屑を目掛けた。
目の前で楠が倒れ際限なく続いてきた香炉へのはたきが終ると
赤子は
「ちゃあ」
と、木屑をはたきこませろと父親にせがんだ。
子が母にしてやれる尽くしとしっておるか、
楠の心が切り倒された今も赤子に尽くしを求むるせいか、
次三朗は木屑がなくなった今、小さな枝葉を赤子に掴ませた。
「ちゃいよ」
楠の未練が大火と共に天へ登ってゆくようである。
子がくべる尽くしが煙となって楠の未練を連れ天へ帰るようである。
「これで・・あれも・・らくになれる」
次三朗が思ったのも束の間だった。
枝葉を取り払われ、綱を巻かれた楠は
何人の人足が寄り集まり引こうともびくとも動かぬのである。
次三朗の涙がとめどなく流れるを見ながら、
澄明の予測にたがわなかった楠の心を思った。
「楠も是が最後。坊によいとなを言わせてやってください」
「ああ」
よいとなというは木を引きずり運ぶ時のかけごえである。
坊の掛け声で楠は冥途に発ちたいのである。
「そうなのですか」
「明日は・・私もまいりましょう」
楠と唯一心を交わせる澄明が来てくれる。
次三朗の顔色が僅かに和んだ。
「伝えたい事はありますか?」
澄明は死を看取る者らしく尋ねてみた。
「いえ」
何もない。
たとえ、坊を立派に育ててみせる、安心せよといってみせても、
楠の悲しみをどれほど、掬い取れよう。
例え、お前がいなくなっても次三朗の心は変わりはしない
と、誓いだててみてもどうなろう。
次三朗が見せられる誠は楠が消滅した時からこそ、始まる。
それを見る事は楠には出来ないのである。
証だてるは己にだけである。
「そうですか?」
もう一度念をおした澄明である。
「本当に何も・・・いわなくていいのですか?」
次三朗の無言が答えになり、瞳から落ちる涙が無言のわけを語る。
『心張り裂けるほど、愛しておるとさけんだら、私もしんでしまう』
恐ろしいほどに張り詰めた心の均衡を保たねば
次三朗は楠の後を追いそうである。
今何か言わば心が緩み次三朗は楠の後を追ってしまう。
『さすれば、誰があれの思いをうけてやれる』
次三朗まで死んでしまったら
楠の情恋を覚えていてやれるものがいなくなる。
誰にも思われることのなくなった楠こそ哀れな甲斐なき恋になる。
「そうですか」
読みすかしたわけでない。
溢れる哀しさと激しさが澄明に伝えてくる次三朗の恋に頭をたれ
澄明は次三朗のひざで眠ってしまった赤子をみつめた。
この子だけが二人の恋の証になるのだ。
楠がこの子によいとなをかけて貰い
冥途に旅立とうとする前に葬るは二人の恋なのである。
「では、明日に・・・」
「はい」
今生の別れがさだめられる。
次三朗の顔はなくすものへの決別を
やっと突きつけられる安堵に変わって見えた。
『この人も苦しんでいる』
次三朗の苦しみを思う楠の苦しみが澄明を突き上げてくる。
だが、澄明でさえこうであらば、楠を思う次三朗はさらにであろう。
けっきょく、どうにも成らぬ定めがお互いをかなしませるだけである。
が、それも明日で終る。
いや、終わりにさせねばならない。
二人の縁を引き裂くが、苦しみを終わりにさせてやれる事になる。
『これも、周りが赦す。と、いうことか』
死を持って引き裂く事が今の二人にとって、解決になる。
ここまで、周りの気持ちを固めさせるためにも、
楠は怪をおこしてみせたか?
哀れなまま、無理に裁断を下せば、下した方もやるせない。
この気持ちをさっして、楠はごてる怪をみせたか?
『そうかもしれない』
澄明は心のうちでそっと呟くとついと立ち上がった。
「これを」
祭壇に供えた榊をとり、次三朗に渡す。
「口に出さぬ貴方の思いをこめて、今晩一夜。
貴方の側においてやってください。明日はそれでやいとなを」
「はい」
澄明に辞去を告げると次三朗は鏑木の部屋をでようとした。
明日のやいとなに思いを込める榊を眠りこけた坊の胸元にはさみこむと
次三朗は
「おがみます」
と、澄明にいった。
明日の事は楠への死を与えることでしかない。
だが、それでも、次三朗は澄明を拝むといって、部屋をでていった。
『虚しい』
二人の定めをどうにもしてやれぬ自分の非力が澄明を責める。
「すまぬ」
達観に至った次三朗の姿に、自分の非力でしかないと、
手を合わせ深く詫びるしかなかった。

次の日の朝である。
目覚めると妹のかのとが澄明を覗き込んでいた。
「ど、どうしました?」
八葉はむかしから体の弱かった亡母咲世に変わり
白河の賄いを一手にひきうけていた。
その八葉の元へ里子に出されているかのとであった。
八葉は何もかも、八葉がかのとの実の母でないことも、
まだ、存命であった咲世こそがかのとの真の母であることも
かのとにつげ、白河の家につれてきていた。
「すこしは、くどの事をおぼえたらどうですか?」
澄明の上掛けをむしりとりながら、いつもの小言をくわせてくれる。
小言の小煩さにくらべ、口調はこころなしか、はずんでいる。
澄明も怪訝に妹をみつめなおし、あらためて、たずねた。
「どうしました?」
どうやら、かのとは勿体をつけたいらしい。
「うふふ」
笑って、答えようとしない。
ならば、もう一度尋ねられたいにきまっている。
「何か、良い事がありましたか?」
弾んだ笑いが、既にそうだと答えているではないか?
「あの・・ね」
やけにもったいぶってみせるが、澄明に告げたい喜びごとが
かのとの頬に赤く色を刺し始めていた。
「なんでしょう?」
およその察しがつかぬ澄明ではないが、
かのとは自分の口から言いたいのである。
云いたいはずのかのとが言葉にするをためらい、頬を上気させる。
つたうるにさえ、頬を染める妹の高揚を横からいいあててはいけない。
「なんなんです?」
待ってられない。澄明のじれた口調にかのとはやっと、くちをひらいた。
「みてまいりましたの」
云うと、恥ずかしげに口元をかくす。
凡そ子女のすることでない。
この禁を破った恥ずかしさもある。
こっそり見てきた政勝という男が
かのとの心にかなう男ぶりであった事を
喜んでしまう女心のかろさも恥ずかしくもある。
だが、尻軽女の物見に思える行動を白状してまで、
かのとは澄明につたえたい。なのに、
「澄明のいうた通り・・・」
あとはためいきにかわった。
精悍でいかにも武士らしい面構えの下にそこはかとなきやさしさがある。
もっと、いろいろといかに政勝が良い男かをかのとにふきこんだが、
うっとりしたかのとの声色をきけば、
具体的な政勝をこれ以上四の五の言う必要もあるまい。
ためいきのあと、かのとはやもたてもたまらぬように、澄明に詰問した。
「ほんに、あの方がかのとの良人になる方なのですね?」
あまりに弾んだ声に澄明はわざといじわるく、とぼけてみせた。
「わざわざ、でむいて見たに、きにいらぬのですか?」
「まあ。とんでもない」
こっそり、物陰から登城する政勝を見た。
その瞬間から胸の中にはいりこんだ、政勝の姿が胸をたかならせる。
澄明の云うとおりの人だ。
その人と縁を結ぶと澄明が読んでいる。
どうか、澄明のいうとおりになりますように。
本当に本当にそうなりますように。
ひとめかいまみたその時から、願わずにおけなくなったかのとが、
「きにいらぬ?」
どうして、そんな?
澄明がいった通りの良いお方であるに?
澄明のとぼけであるとも、思いつかず、
かのとの目はびっくりとおおきくみひらかれた。

麗かな、春の夕刻。
双生の妹であるかのとに乞われるまま、澄明はかのとの縁を読んだ。
澄明の胸に大きく走った慟哭はいまでも胸を刺す。
かのとの良人なる人は、城中で見かけたときから
澄明の心を捕らえて離さない男と判じられた。
むろん、白峰との定めを受ける身であらば、
ならぬ恋ととっくにあきらめていた。
だが、つもりであった。
かのとの縁に浮かび上がる政勝の名に鋭い痛みを与えられた澄明には
かのとに気取られぬようにその名前を告げるのがやっとだった。
「どんな方です?澄明はおうたことがありますか?」
やつぎばやにたずねるかのとの頬に良人なる人に
人生をたくしてゆく女の甘やかな夢が色めきたつ。
情が細やかで、明るく、芯の強い妹である。
まだ見ぬ政勝への敬慕は、嫁ぐ前の娘なら誰でも持つ
花嫁姿への憧れからわいてくるものであろう。
が、政勝なら、かのとの期待にたがわぬ。
かのともまた、あの政勝になら、
尽くす喜びを背負っていきてゆけるだろう。
判じられた相手が政勝だったという慟哭と裏腹に
政勝が娶る相手がかのとであることに澄明はずいぶん安堵した。
「よう、にあうておりますよ」
目の中に寄添う二人の像をむすばせて見れば、
心の底から良かったと思える。
「まあ?どんな」
どんな人ならかのとと似合うのだろう?
不思議な面持ちのまま、かのとはそっとためいきをついた。
そして、新緑の五月の季節をむかえ、澄明はかのとの溜息をきく。
「みてまいりましたのよ」
こらえきれぬ嬉しさがかのとの頬を染め、
澄明はこの後、直ぐに政勝の知己をたぐり、
婚儀の話をもちこめば、
期に応ずるが如くの政勝の応諾を得る事にあいなるのである。
が、それは、もう少し後の話。
「よい刻限です」
かのとが起こしてくれた事に礼は述べるが、
澄明の顔はいささか思わしくなく見えて
かのとはたずねずにおけない。
「どう・・なのです?」
「なにが?」
「いえ、かのともしっておりましてよ」
澄明は楠の怪にたずさわっていることをいうのである。
だが、澄明のほうには、ここ暫くの出来事が煩雑すぎて、
すぐにはかのとの指す事が楠が事とはむすびつかないでいる。
「あの・・鴛撹寺の・・・」
途切れがちの言葉は澄明の心痛をおもいはかるせいである。
「ああ・・きいておいでですか?」
「ええ、些少は・・・」
澄明の言葉が丁寧になる時は澄明が心をふさぐときである。
長の付き合いで姉の癖など、当に見越しているかのとであるが、
素知らぬ顔で尋ね返した。
「楠をやはり、裁断せねばならぬのですか?」
「どういうめぐりあわせか」
裁断せねばならぬお役が澄明にまわってくる。
「かなしいですね」
かのとがつぶやくとおりである。
「そうですね」
だが、他の者にその荷を負わさずにすんだことを、よろこぶしかない。
「なんで・・澄明。いえ、ひのえ・・」
澄明の痛みを少しばかり持ち去ってやりたい妹は
姉を実の名に呼び替えた。
「貴方がそんな悲しい役をえねばならぬのでしょう」
「そうですね・・・なぜでしょう」
わからないふりで答えてみせたが、澄明の胸に記する物がわく。
久世観音が澄明を選んだわけ。
それこそ、澄明の心に巣食う悪夢のせいである。
この悪夢は政勝への焦がれと、相反するように
白峰への憎しみを増幅させている。
何もかもを呪い、
澄明は我鬼道に堕ちるやもしれぬすれすれにたっている。
さらに、たっているだけで、
落ちぬことさえ憎みかねない澄明である。
いっそ、狂うて、堕ちればよい。
我が身を投げ落とし狂気の沙汰に身を任せてしまいたい。
なのに、澄明は餓鬼にもなれないでいる。
餓鬼になればどんなに父、正眼がくるしむであろう。
妹、かのとに伏せとおした白峰の事も白日にさらされ、
事実を知ったかのとがどんなに嘆き悲しむだろう。
だが、実際の澄明は堕ちることもできぬまま、
心のありようは無明地獄を這い回る亡者の如きである。
久世観音は心映え一つを見せてやりたかったに違いない。
けして、異種混合の婚姻があざといものばかりでない
と見せたかったに違いない。

澄明に一縷の光明を見せたかった観音の思いに突き当たると
澄明はかのとに示唆された選択がいっそう、ふしぎである。
久世観音はまた、救世観音とも表されるとおりである。
が、なんで、澄明なぞを救済しようとする。
こんなしにくいつまらぬ女陰陽師なぞ、
どう、もがこうが、捨て置けばよいほどにちっぽけな存在でしかない。
こんな・・つまらぬ澄明なぞに。
己をさいなむ責めはやがて、澄明の瞳から雫をたらさせそうである。
「ひのえ」
姉の瞳の潤みにきがついたかのとは、
予想以上に楠の裁断に応えている姉なのだと慰める言葉をさがしていた。
「だいじょうぶですよ」
澄明はかのとの情を喜ぶ。
「あなたが、気に病まなくていいのですよ」
「は・・い」
けれど、たった、十七。
人としてのありふれた幸せに手をのばそうとしている自分に比べ
陰陽の道を歩んだ姉は、姿さえ男のつくりに変え、
娘らしく装うことにさえ自分を殺し、
あげく、人の情を引き裂く役に徹そうとしている。
あまりにも厳しく、無情を求められる重圧は十七の姉には、つらかろう。
「そうでは・・ないのです」
かのとの心情とは、違う所で澄明は涙をこぼしていた。
『私は・・・ありがたいと、おもったのです』
ちっぽけな。虫けらほどでしかないおのれである。
あらばこそ、久世観音が寄せる慈愛に打たれた。
こんな取るに足らないものに心を寄せてくれる。
この思い一つがありがたい。
いつか、朱雀に諭されたとおり、澄明のありようは驕りでしかなかった。
かのとに何気なく久世観音は何故澄明を選択するかと問われた時、
澄明は正にその通りだと思った。
こんなちっぽけな自分に何をまかせようという?
久世観音の役に添えるような無私にもなりえず、
久世観音の裁断さえ疑っただけだった。
だが、かのとは、役を担える澄明でないことを責めもせず、
つらかろうと澄明を慮った。
かのとの思いが開眼の兆しだった。
只、思われる。
かのとにすればどうしてやる事もできず、只、思う。
これしかできない。
後は理屈でない。
澄明の中でいっさいが波のようにおしよせ、一気に心が開かれていった。
思われる。
思う。
この心こそが有難い。
「楠は幸せだったのです」
樹齢何百年をいきながらえ、「思う」心をしらずして、
境内に立ち尽くすより
わずか、一、二年。
「思う」心を得て、生きた歳月は死を贖っても足り尽くす幸いであった。
「そう・・ですね」
かのとこそ理屈ではない。
成るがまま、自然な感情を解す。
「ですから、かのとの縁組もいそがねばなりませんね」
澄明は素直にそう思う。
妹も又、「思う」幸せにいきてゆける。
「あ、はい」
そんな事はどっちでもいいのです。
今はひのえがことがきになりますといえないかのとである。
楠のことから、かのとの幸せを考える澄明に結びつくのか
繊細はわからないが、
ただ、姉がもう少し大きな境地に立っていることだけは判る。
自分が幸せであることで姉をも幸せにできるのだと悟るに早い妹は、
「よろしくおねがいします」
と、政勝への恋慕を惜しげもなくさらけてみせた。
かのとにせっつかれ、朝餉をたべおえると、
澄明は出かける仕度をととのえだす。
「まあ」
膳の片付けもそのままの姉に小言こうべえのかのとになる。
「いつまで、母や私を宛てにする気です?」
母とは無論八葉のことであるが、
八葉とて、亭主の世話もしなければならない。
手のすいているかのとが八葉に先じて、
白河の賄いにはせてくるようにしているのであるが、
いくら、男の作りをして、陰陽事に従っている
といえど、澄明とて女子ではないか。
「私もその内これなくなりますのよ」
かのとの云うは、政勝のところへとついで行くを
さっさと決め込んでいる。
話が整ってもいないうちから、
すっかり、政勝に熱を上げている自分にきがつくと、
「だいたい。貴方も女子なのですよ。
いずれ、婚儀を結ぶでしょうに。
くどの事一つもかえりみないで、良人に何を食させてあげるのですか?」
小言の矛先成らぬ、矛を変えて、澄明を糾弾する。
ところが、澄明は小言に取り合わずあっさりと、こたえた。
「楠のところにいってまいります」
「あ・・・は、はい」
そうつげられれば、かのとも返す言葉がない。
気がかりをあとにさせて、
いつなる先の良人への食事の云々を論じてみても、
女子としての澄明の心機一転に功を成さすことなぞできはしまい。
「きをつけて・・いってらっしゃい」
小言を飲み込んだかのとに送り出され
澄明はやっと、鴛撹寺に向かう小道を歩みだした。
「これは、これは」
澄明の姿を捉えると鴛撹寺の和尚は手を擦り合わせる蠅の如きである。
「いかがですか?」
愚問かもしれない。
目の前には楠が横たわり、かけられた綱が地面に伸びている。
綱の側にはいくつもの土を蹴散らした足跡が深い。
どう見ても楠を動かせなかったと判る。
「いけませんなあ」
やっと、切り倒した楠に安堵したのもは束の間だった。
「次三朗さんが来て下さって、
澄明さまに教えられたとおりにしてくださったのですが」
こんな事態は予測していなかった和尚である。
「澄明さまがきてくださったのは・・・・?
次三朗さんが話しに窺うといっておりましたが?」
いつの間にか澄明さまになったのが可笑しくもむずがゆい。
「ええ。昨日。きてくださいました」
和尚の目が澄明を窺う。
次三郎に言われてきたとならば
澄明は楠の怪を取り払う知恵を授けにきてくれたということであろう。
安堵の色をなす和尚に澄明は告げる言葉をさがしていた。
『貴方如きが楠と次三朗の別離に介在しようなぞ
と、かんがえてくだされるな』
ほんに云いたい事はこうであるが、
いかにも、和尚の保身の気持ちもわからぬでない。
かといって、安気に、楠を刈りさえすれば
一件落着と痛みも感じぬ姿ははらだたしい。
いつの間にか二人の恋の葬に粛正な尊厳を覚え始めている澄明である。
「後の事は次三朗さんと赤子におまかせください」
えっと和尚が一瞬うめくのも無理なかろう。
大の男、十人がかりでびくとも動かなかった楠である。
が、和尚も考え直す。
何度も楠の怪を我が目で見てきた和尚である。
「それが、法ですな?」
いくら頭で考えてもありえない事がおきてきた。
結局澄明の云うとおりになってきている。
「なにか、てつのうことはありますか?」
澄明が静かに首を振り、頭を下げて和尚の志だけを受取る礼をみせた。
「わかりました」
和尚は己の法力のなさに、ただただ、わらをもすがる思いでしかない。
「なにとぞ、よろしく」
言葉短にお頼みを言うと、和尚は門をふり向いた。
赤子の声がそちらから聴こえた気がしたからだ。
「ああ・・きましたよ」
次三朗が来たと告げるまでもない。
澄明のまなこは和尚を飛び越え門をくぐる次三朗を映していた。
歩来る次三朗の腕に抱かれた赤子が榊を手の中にあそばせている。
澄明の眼差しが赤子と次三朗に注がれ、それがひどくやわらかい。
胸中にこみ上げる思いが澄明の足を動かし、
次三朗と赤子を向かえるように澄明も又あゆみよっていった。
「おいでなさいませ」
澄明を捕らえたあと、次三朗の瞳がうろんげにあたりをみまわす。
まだ人足が集まってきていない。
「早いとはおもったのですが」
ゆっくりと楠の側に歩み寄ってゆくのは、
最後の別れの時をおしむためであろう。
次三朗の後を付きながら澄明はつげる。
「楠を引くは貴方一人で充分です」
怪訝な顔を見せたが直ぐに得心が湧いたらしい。
「動きますか」
楠の意志で何人の男が綱を引こうともがんと動かなかったのである。
これを裏に帰し、楠の意志に乗ずれば、次三朗一人の引きでも楠は動く。
むしろ、次三朗に引いて欲しいが為に楠は動こうとしなかったのである。
「野辺送り・・ですね」
楠の前にかがみこんだ次三朗は楠の幹に手を置いた。
「たあ」
次三朗を真似、赤子もてをのばす。
澄明はくるりと背を向けると
「お別れがすんだら、楠を引いてやってください。
行き先は楠がしめしてゆくでしょう」
この先どうなるかは知らぬが、
どこで木肌を削られるかは楠も察している。
「そこまで。あれがあないしてくれますか」
多分一番町の大工の棟梁のところである。
「はい」
背を向けたまま澄明は答え、ぽつねんと立ち尽くす和尚に声をかけた。
「吾らはむこうにいきましょう」
親子夫婦水入らずの最後の逢瀬である。
和尚も澄明が歩み寄ってくると
「方丈で茶でもいかがでしょうか」
と、澄明に案を呈す。
「そうですね。いただきましょう」
おっつけ人足もやってくるだろう。
それまでの刻切りは次三朗に短いものか、長いものか。
当に覚悟を定めている次三朗にとって、
どちらでもないものかもしれない。
 
方丈に入り茶を整える和尚の手元を見詰めながら
澄明は外の気配に耳を凝らしている。
人足が来たら、まず和尚の所にやってくるだろう。
次三朗の事は人足も楠との由縁ごと、じゅうじゅう承知の事であろう。
人足も幼子と次三朗のうずくまる姿にしのびがたく感嘆の声をあげよう。
だが、次三朗親子を跳ね除けて
吾らが楠を引かねば成らぬと思い込んでいる人足である。
次三朗がどいてくれといわれるまえに、
次三朗からじかにことの次第を語らせる前に
澄明が人足達をさがらせてやりたい。
「おはようござります」
ぬうと方丈の濡れ縁に顔を出した人足頭である。
和尚の前に座る丹精な顔立ちの若い男が
例の陰陽師であるなと頷きながら澄明にも礼を返す。
「どうすりゃあいいんですかい?」
頭も楠の前に座る次三朗に何と言えばいいのか、見当がつかない。
見当がつかないのをそのまま次三朗に近寄ってみても尚更困る。
きずかぬふりで楠から目をそむけ慌てて方丈に駆け込んできて、
言葉足らずのぶしつけをみせるていたらくである。
「あの」
和尚が頭にいうべきことは、結句澄明の胸先三寸でしかない。
何も云わずにいるわけもいかぬ和尚は澄明の差配をうながす。
頭も和尚の様子で和尚に尋ねても埒が明かぬと
ふんふんと頷きながら澄明に向き直った。
「あの。どうすりゃあようございましょうかねえ?」
「何も成されず野辺送りをしてさしあげてください」
「え?みてるだけでいいんですかい?」
陰陽師の一喝で楠が動くとみた。
なんとも、はや、鴛撹寺の和尚がたよるはずである。
けれど。
「本当になんにも、しなくてよ、よいんですね」
「ええ。よいんです」
可笑しげな口調をなぞりきかせると、
何を得心するか、ほうううと溜息をついた。
「さすがですな」
長浜陰陽師四天王の一人白河正眼の嫡男、白河澄明。
十五の齢で主膳様にお目見えがかなったときく。
見ればなよけた女のような細っこさがたよりなげである。
噂はとめられぬものと人の口の責任のなさを責める気もおきない。
が、頭の目にうつった外見と澄明の法力は対をなさぬものであるらしい。
もうすぐ、楠の怪を抑えるうら若き陰陽師を、
法力を目の当たりに知る事になる。
「はああ。さすがですなあ」
これから起きる事を起きると既に信じて込ませる澄明がふしぎである。
妙に信を与えるも陰陽師の法力の深さか徳の広さか。
いずれにせよ頭を唸らせる物がある。
「はじまりましたな」
赤子の通る嬌声が響く。
「ちょい、ちょい」
甲高い声は笑いをふくんでいる。
「よいとなあ・・よいとなあ」
次三朗の低い声に赤子は片言でよいとなをあわせてゆく。
「ちょい・・ちょい」
頭はそとへとびだすと、仲間をよんだ。
おうように皆、次三朗の所作をみつめていたが、頭の声にふりむいた。
「俺らがてつなわなくとも、動くとよ」
一同からほううと大きな声が上がった。
なかから、若い衆がひとり、己の推察に惚れ惚れとした声でこたえた。
「だろうとおもいましたよ」
「そうかい?」
若い衆を軽くいなす。
「だって、そうでしょう?
木挽きが散々苦労しても切れなかった楠なのに、
次三朗さんがきたら、きれたんだ。こんどだって、そうでしょう?」
「そうだな」
「初めから次三朗さんがひいてやりゃあよかったんだ::」
「そうかな?」
頭の目が「若造よ」と笑っている。
「そうじゃあねえんですか?」
頭になんで、若造と見られるかが腑におちない。
「まあ。そんなこたあどうでもいい。俺らも折角来たんだから
野辺送りにたってやらねえか?」
「はあ・・」
茶を濁された後味の悪さが
これ以上頭に食い下がるを無理とおしえている。
つづまった若い衆の返事ではあるが、それは了承である。
「いくか」
楠を引こうとする親子の側に集まり弔い送りをする。
方丈を振り返った頭には濡れ縁を下りる澄明の足先が
やけに細く哀しげにみえた。
本当はこんな事なぞみとうないだろうに。
陰陽師の宿命なのだろうが。
あたら、法力が高いばかりに、
知らぬでもよい悲しみが足先まで染めてゆく。
と、いって、この自分とてなにもしてやれはしない。
「次三朗さん。わしらもかみさんをおくらせてくだせえよ」
せめて、いくばくか、悲しみを共有する時をすごすだけしかない。
「はい」
誰にも知られる事なくきゆるはずだった異種婚の夫婦の絆を
赦された最初で最後だった。
楠を妻と認め普通の良人の悲しみに寄添おうとしてくれる情のぬくみが
次三朗に涙をわかせた。
「ありがとうございます」
頭を下げた次三朗の目下の土にぽとりとしずくがおち、
乾いた土の色を濃くした。
「さあさ。もう、きめたんだろ?
名残り惜しかろうが、いつまでも、こうしちゃいられまい?」
「はい」
赤子を育て行く糧も稼がねば成らない。
次三朗が生きてゆくと決めた裏には
いくつも振り捨てて行かねばならない悲しみがあった。
この子を育ておおすと決めた次三朗が
いつまでも、悲しみにかかわずらっていてはいけない。
「なあ・・・。生きて行くって事はつめてえもんだよ」
平気で己の情さえ断ち切らなきゃならないときもある。
切羽詰ったぎりぎりをわたらなきゃなんないときもある。
でも、そりゃあ、決して無情なんかじゃねえんだよ。
「なぁ。精一杯。生きてゆく事がかみさんにしてやれる尽くしだろ」
わかってんだよ。わかってんだよ。
次三朗さんがつれえのも、そんでも、頑張って生きなきゃって、
力いれようってのも、わかってんだよ。
頭は言いたい事なぞ上手く言えるような性質じゃない。
口下手で、お世辞にもかわいげのある面相だなんていえない。
みてもだめ。喋るも下手な男の次三朗に向かい合う心の声を
次三朗の方がよくわかった。
「ありがとうございます」
しゃきりと顔を上げた男は片袖でぐいと涙を拭うと坊をだきなおした。
楠を結んだ綱を伸びた背筋に廻すと、
よいとなの声を腹に貯めるように深く息をすった。
「はあああああーーー」
凛と透る声が静かな境内にひびきわたり。
大きく、高らかな節回し一声。
「よいとな」
どう覚えたか腕の赤子は榊を振りながら
「ちょい、ちょい」
と、唱和する。
片腕で軽く引いた綱が張り切ると
楠がするりと水の上の流木とみまがう動きで次三朗の寸分前に泳ぐ。
「あああ」
人足達の驚嘆の声は昨日びくとも動かぬ楠をしっておればこそである。
「よいとな・よいとな」
しゃしゃと榊が振られちょいちょいと声がはずむ。
筋張った腕に絡められた綱で次三朗を締め付けるまいとばかりに
楠は綱の緩みを追う。
軽く引けばその緩みを崩さぬように楠が追う。
「みょうと・・ですよね」
歩み寄ってきた澄明が頭にそっとつぶやいた。
「そうです。是が、最後の夫婦ごと」
頭の声に被さる楠の声が澄明の耳の奥底にとどいた。
―是で、思い、切った―
澄明の胸に楠の昇華の時がきこえ、
穏やかな笑みをうかべた澄明に頭はたずねずにおけなかった。
「なにを・・?」
思いなさる?
澄明の眼差しはまるで、久世観音のように柔らかく、
縋ってゆきたくなる錯覚をわかせる。
「愛しいものです」
思い込めて、命さえすてて、思い一つに生きた楠こそ愛しい。
「うらやましいくらいですな」
頭は思うままに言葉をかえしたにすぎないが、澄明は素直にうなづいた。
「わたしも。そう思う事がなかなかできませんでした」
「はあ?」
わかき陰陽師の苦悩なぞしるよしもない頭である。
「うらやましいは、いけませんか?」
心の持ちようである事はわかるが、
陰陽師とも成るとねたみそねみの前、
うらやむもよくないと素直に己の心を認めてはいけないらしい。
「しにくいものですな」
陰陽師という生業が心をしばりつける。
日々精進で湧いてくる悪心と戦うも陰陽師なのか?
「たいへんですな」
いい姐さんがいても、
いい女だなんておもってもいけないということらしい。
ましてや、いい仲になるなぞ、もってのほかか。
妙な得心ぶりであるが、
それでも、楠が事、涙誘われる夫婦の情まで
うらやましいとおもってもかまうまい。
とて、とうの澄明がそこにきがついたということであるのだから、
なにもいうことはないのだが、
親をしのぐほどの陰陽師とて、
まだまだ人の心のあやおり、いろは、はしらぬとみえた。
「まだ・・おわかそうですが・・妻は?」
妻を取らぬかと聞いてよい歳か気に成った。
「わけあって、澄明は妻帯できませぬ」
「ああ」
陰陽師としての修練でなく、妻帯できぬわけが
うらやむ事さえ、征していたのだ。
うらやめば、妻帯できぬ自分があわれになろう。
人の心を思いはかるに聡い男はだまりこんだ。
だが、あの微笑はほんものである。
自分とは切り離した所で楠の生き様を愛でることができるなら、
この陰陽師はおろがむの境地に立てる、本物の陰陽師になるのだろう。
「みおくりましょう」
澄明をいざなう言葉をかけると頭はさきにたった。
楠はじき鴛撹寺の門をくぐる。
この先は親子二人が同道するだけである。
門出と云うはおかしいことかもしれない。
だが、波にもまれる父子を産み出した基は楠の思いからである。
父子と云う船を作り出した船大工が
雄雄しき航海に向かう父子をみおくる。
やはり是は門出なのだ。
澄明はひくく寿ぎ唄をくちずさんだ。
澄明の心根を察する頭が唱和し始め、
境内の男衆もまた、楠の情を褒めるが如く、
父子につたうるが如く、
頭と澄明に加わり、二人のちいさな唄は大きな唱和にかわった。
弔いは残された者の新しい門出の発心にならねばならぬ。
異例なる弔いでの寿ぎ唄を聴きながら和尚はおもった。
生業であらば、当り前のように死者と向かい合っていたが、
弔いはむしろ、生きている者の執心をきり、
残された者が生きるめどうを掴む儀式なのだ。
死者に生との決別を諭しあの世への引導を渡すばかりが弔いではない。
生きている者を生かす為にも
死者との決別を儀式という形にしてこそ、心にけじめがつく。
ふうむと唸ると和尚も小さく唄ってみた。

―くたびれた。心底くたびれたー
澄明は、どお、と、襲い来る睡魔にかてず、
夕餉もそこそこに自室に引きこもると夜具も延べず
畳につっぷしてしまった
追ってきたかのとも小言の甲斐がない。
寝息を立て始めている姉をほっておこうと思うくせに、
手は押し込みをあけて上掛けを引きずり出している。
こんな調子ではかのとがいなくなる、この先がおもいやられる。
澄明いや、ひのえは、自分ごとはおろか、
父正眼の世話をするどころではない。
母八葉とて、一日中白河の家におられはしない。
それに・・。
かのとも、とつげば子をなそう。
できれば、八葉にてつないにきてほしいのだが、
こんな白河の家人をすておくわけにはいくまい。
かのとの先先の心配までは余分というものだが、
「に、つけても、つくづく・・」
八葉は丈夫な女子である。
風邪のひとつでもこじらせて、白河の賄いにこないなぞ
と云う事がいまだかってない。
この丈夫さゆえに白河の家人は八葉にあまえ、
ひのえにいたってはくどにたとうなぞという考えすら
思いつかないようにみえる。
澄明にすれば、いそいそと賄いに来る八葉に
私がしますなぞといえはしない。
この勘定のちがいをかのと一方から見れば、
つくづく怠惰な姉なのである。
「ひのえ」
しゃくにさわって大声で呼ぼうてみたが、
なしのつぶてというがごとく澄明の寝息は
一定の韻律をきざむばかりである。
「しかたのない」
もそもそと文句をいいながら、上掛けをかけてやりながら
陰陽ごとはこんなに心身ともにくたびれさすものかと思う。
父、正眼がかのとに陰陽事をしこまなかったことを
密かに謝したくもなる。
朝に出かけ、帰ってきたのは夕刻。
楠の裁断はきいていても哀れで胸を刺す。
裁断を下す澄明ならば、もっとつらかろうと
かのともあえて、なにもきかなかった。
が、どう考えても、朝に出た澄明が夕刻になるまで
帰ってこぬかった、は解せない。
強がりの姉のことだ。
弱みは見せまいとどこぞに隠れて思い切り泣いて泣いて、
泣き切ってしまってから、帰ってきたにきまっている。
だからこそ、優しくなんぞしてやりはしない。
いつものように小言三昧をふるまおう。
いつものかのとだったのに、寝入る姉の瞑った瞳をみいる。
泣きはらした痕はなかったようだが、沈んだ心を塞ぐに長けた姉である。
平気なら、さっさとかえってきておろう?
澄明の眦あたりを覗き込んで、かのとはふとためいきをついた。
『誰がこの強情な強がりの姉をおもうてくれるだろう』
いまのところ、この姉の欠所ごと許容するのは
かのとくらいしかおらぬだろう。
仮にこの姉の強情ごと好いてくれる男がいたとしても
「くどのことひとつ、まともにできぬが、
いくら、陰陽事で人を救うてもひのえの良人は救われませぬわ。
良人を救えぬような女子では・・ひのえ・・あなたこそ救われぬ」
姉の幸いもやはり女子としての生きてこそ、
掴みえるものだと思うかのとは、
澄明が妻帯、いや、夫帯というべきか。
男を繕うた澄明の言葉を借りて言えば
妻帯できぬと漏らすことさえしらぬ。
澄明にそう決意させる白峰との運命も
かのとはこれっぽっちもしりはしない。
どこかで女子として生きるを諦めている澄明が、
くどよりも陰陽ごとに心をかたぶけるもむりがないのであるが、
これさえ、かのとにおしはかれるわけがない。
「たまには、おなごらしい格好をしてみたら、どうですか?」
と、かのとがしかってみても、
装うなぞいっこうに興がそそられぬとばかり
化粧っ気一つも見せず、みよがせとばかりに
男の姿をつくり陰陽ごとにかまけている。
あまり責め立てるとたまりかねるのか、
「陰陽事をするが、女子と知れば信をえにくい」
と、男を繕ういいわけもあくまでも陰陽事がさきにたつ。
その陰陽事にかかずらわったあげく、
畳の上にじかに突っ伏して寝入る姉である。
「本当にそれでいいのですか?」
そっと、とうてみたがやはり寝息の軽さだけが辺りにひろがる。
『それでも、きっと、心惹かれる殿御にめぐり合えば、
ひのえも女子。かわりましょうて』
かのとの憤怒を宥める八葉の言葉どおりであることを祈るしかない。
「かえります」
八葉と判造ももう、夕餉の膳の前でかのとをまちわびているであろう。
つつましい夕餉であるがそれを取り囲む家族の憩いがある。
同じ双生でありながら、
姉には得られなかった父母との語らいのひと時が
かのとをみたしてくれる。
こう、考えればひのえも母に甘える子でありたい我侭が
くどにたつを八葉にまかせるのかもしれない。
いつか、ひのえが母になるまで、
その思いは逆転しえないものかもしれない。
『良い人にめぐりあえればよいのですが』
くどもあやうい。
針をもつ手もあやしい。
ひのえのめぐり合う人が
余程忍耐強い男である事を祈るしかないようである。

夜半遅く目覚むれば、なんとしたことか、
足袋もそのままに畳に寝入っている。
上掛けはどうやら怒りん坊の妹が
しょうことなしにかけていんだようである。
正眼もさすがに年頃になった娘の寝相を案じ夜中にのぞく愚挙もしない、
澄明も上掛けを引っ張り出した覚えがないのだから
妹のはからいでしかない。
『随分、また、怒っておったのでしょうな』
朝から膳も片付けずに出かけた上、
晩も食し終えると早々にへやにひきこもった。
正眼の茶碗を洗うは娘の役としても、姉の物までしらぬ。
かのとはあなたの端女でない。
たんび怒りながら、たんび洗うてくれる妹に甘えてばかりいる。
こんな形でもかまわれていたいのが本音かもしれない。
こんなもの寂しい思いを考えるにつけ、
何かが大きく欠損していると思う。
その欠損を言い表す言葉がなんであるかは
自分でも判らないがどこから生じるかは判る。
かのとにあって、己にないものといえば、ただひとつ。
母と呼べる存在である。
ふせりこみ勝ちな母であった。
澄明が自ら、母に甘えるを制したのは父正眼の姿にも因があった。
呼世を気遣う父をみるたび、
母に向かうはこうあらねばならぬとおもわされた。
是が男と女の裏側が判らぬ子供の視野でしかない。
正眼は正眼で呼世の病をきずかいながらも、
男である自分をぶつけずにおけないでいる。
男のわがままを呼世にこそ充たされたい。
見方を変えれば恐ろしく勝手な子供であるが、
呼世は病を押して正眼をうけとめた。
その呼世の心がいっそうにいとおしい。
いとしい呼世をもとめずにおけない。
なにも正眼とて、只、只与えつくすだけの聖人君子でない。
裏側でのこどもぶりがあり、これを許しいつくしむ呼世がおればこそ、正眼の均衡もたもたれていた。
正眼がそうであるのに、澄明は呼世に甘える自分をゆるさなかった。
母にあまえる子供である自分をゆるそうとしなかった。
是が欠損である。
母と云う者が、
女と云う性別を具有する者の多くがなにもかもを許し容してゆく。
考えで割り切れないよしなし事さえ女は許容してゆくのである。
澄明が呼世に甘える事さえできれば、
理屈でなく肌身で女親の情の広さをまなべたことであろう。
何もかもを情で受け止め情で赦しつつんでゆく。
一言ではいえない欠損である。
この欠損は、澄明をして知らずのうちにもがかせる。
赦す心の薄い自分に湧いてくる理屈は人を攻める。
口角鋭く人の心を刺したときほど己の狭さが醜い。
自分をのろうほどに己の穴をうとむ。
うとめば、こんな自分でも誰かに思われたいと飢えが心をきしませる。
変則すぎる甘え方かもしれないが
澄明の飢えにさいなまれた心が叫び声を上げ
体裁を付けられる甘えで僅かな解消をさせていたのかもしれない。
体裁の付けられる甘えとはすなわち
『私は陰陽事に忙しいのでくどの事をしてください』
であるが、体裁は己の心を隠し
『くどの事で私の世話をして構って下さい』
と、は、口がさけてもいいはしない。
だが、この甘えで己を倫律されていたうちはいい。
どうしようもない飢えがつきつけられはじめる。
求める事を律っし切れない恋情がしめつけてくる。
かのとの良人になるひとだ。
白峰の陵辱にさらされる我が身である。
いくら、考えで制しても、心は政勝を求める。
いくばくかの後ろめたさを隠しながら澄明は、楠を見送った後、
沼の神の元へ出向いた。
政勝に抱かれる夢の続きを模索していた。
楠の真摯に心を打たれ、恋情に生きる姿は羨ましさを生む。
せめて、我が身に赦されるは幻の政勝を追うだけかと
嘲り半分でありながら、愛しさに手を伸ばさずにおれなかった。
沼の神を呼ぶ己の心の仇を振り返る暇さえないほど
焦がれる政勝の姿に抱かれたい飢えにとらわれていた。
だが、澄明の前に現れた沼の神はあろうことか、
一番望まぬ白峰の姿を見せていた。
「なぜだ?」
自問自答に答える前に浅はかにも、
もろく政勝を求める己の勝手が身を責める。
沼の神は少なくとも澄明の心を晴らす道具ではない。
で、あるのに、澄明は恋情に目がくらみ、
政勝の姿を呈する沼の神を求めた。
「おまえのさきはこのおとこのものであろう?」
沼の神に制された心は己のもろさでしかない。
確かに現実と夢の狭間を心が行き来している。
白峰が現に身を任す定めと諦念しようとすれば政勝恋しがわきあがる。
夢の政勝に己を託そうとすれば、白峰との現が夢に酔うをゆるさぬ。
澄明は見せられた白峰の姿に沼の神の元を逃げ帰ってきた。
影が揺らぎ、蛇をまとい出た男はそれは、それはひどくうつくしかった。
魂ごとほだされそうな美しさで我が目の前に立つのが白峰とさとった。
手を伸ばしたいほど美しい男に望まれていると知れば、
どこの女子でも、心がゆらごう。
まさに澄明もそうだったかもしれない。
だが、砕けそうな心に倫律を与えるは澄明の心に政勝おらばこそである。
結局。幻と知りつつも白峰と向かい合うを恐れ、
澄明は逃げ帰ってきていた。
「どうにもならぬ」
心一つさえ、我のままにならぬ。
幻で昇華されもしない。
現はのがれたい。
「なんで、この身、白峰なぞにくじられねばならない」
それさえ、なければ。
自分の中を一瞬通り過ぎかけた思いを澄明はつかまえた。
「それさえ、なければ?・・・。
それさえ、なければ私はかのとから政勝をうばえたか?
いや、うばおうとするのか?」
政勝に抱かれてしまいたい。
思いにゆすぶられ見せられた沼の神の姿こそ答えかもしれない。
どんなに仮想してみても、それは仮想にすぎない。
あざとくも白峰の姿が澄明にこたえをあたえてみせた。
仮想による疑念に答えを求める事が土台、虚無を追うにすぎない。
同じように、白峰が事なければと考えるもおろかなことである。
されど・・・。
澄明、あわれである。
(恋しい)
胸の中に住む事しかゆるされぬ人を思いいだくしかない。
せめても・・の幻を掴む事もゆるさない。
己の思いに甘えることも出来ない。
澄明を拒絶する沼の神の政勝。
是も己の心がつくりだしたものである。
是を見てもよくわかる。楠のように、思い一つに生きられない。
どんなにがんばってみても心のままにはいきられない。
「ふうううん」
板戸の隙間から声がする。
「心のままにいきられないのではなかろう?
心の持ちようが違うから、その心に添えぬだけであろう?
いっそ、そのしにくい心をかえてしもうたらどうじゃ?」
板戸の裏の存在はさっきまでの澄明の心を読みすかしている。
「だれだ?」
「だれだろうの?」
その答えようが澄明の怒気をはなたたせる。
「貴様、人をおちょくる気か?」
澄明の憤怒に一向に怖気ぬようで、もさと答える声も悠然である。
「お前の前では誰になるや。わしもみてみぬとわからぬ」
と、いうことは?
(沼の神?)
「なんで、ここに・・これる?」
沼の神がどこを飛翔するは好き勝手である。
だが、此処は少なくとも白峰大神さえ恐れる朱雀を奉じる聖地でもある。
朱雀を祭る澄明は又朱雀の守護のなかである。
そこに平気でこれる?
と、成ると、やはり、沼の神は
澄明に邪心をいだくものではないと考えられる。
澄明の思いをあざ笑うかのような板戸の向こうである。
「朱雀の護りか?笑止」
沼の神がいう意味はどういう意味であろう?
いつか正眼が案じたとおり、
白峰の域より高い者でしかないということであり、
なれば、朱雀をもはるかにしのぐ高位の者であることさえ、
見抜けぬ澄明とわらうか?
「お前は朱雀にわしがことふさいでおろう。
朱雀の護りをあてにせぬお前がなんで朱雀の守護の中におろう」
沼の神にいわれるとおりである。
確かに澄明は朱雀の側に居るが羽の下に入らずに居る。
「おまえ。本意はこの男にまもられたかろう?」
板戸をひらき沼の神がずいとはいりくる姿は政勝である。
「その心にはじて、朱雀にわしがことふさいだろう?」
なにも言い返す言葉が見付からぬまま澄明は政勝の姿をみつめていた。
「来や。お前の欲して止まぬ心に従いて・・こや」
沼の神とわかっておりながら政勝の姿は澄明の心を焦がす。
沼の神はその澄明の心をみぬき、
澄明の欲しい言葉を口にするに過ぎない。
「ばかな。澄明の定めは・・」
政勝に縋らないために言い訳を自分に言い聞かせるに過ぎない。
それが明かしに説く言葉が途切れる。
「幻にかきいだかれるがいやか?
いやならば、定めに飲まれる心構えをさろうてみるか?」
偽の政勝の偽心に溺れたくないならば、
澄明に寄せる真を持つ白峰ならば、どうだと沼の神はわらう。
「なにを?何をさらいだと?」
白き影が揺れ上がり瞬く間に政勝の姿は白峰大神の姿になりかわる。
「なんど、みても美しい男だろう?
澄明。幻に抱かれて己をあわれむがいやなら、
いっそ、この白峰に抱かれて政勝をおもうてみるか?
その方が本当だろう?」
たじろぐ澄明を笑いこける。
「つまるところ、女のさがが男をほっしておるだけだろうが?」
せめて、好いた男にだかれたい。
それだけの事でしかなく、本意はただのほたえとわらう。
「おまえこそどうだという?」
結局、沼の神お前こそがこの澄明がほしいだけでないか?
手を変え品を変え、
何かを悟らせるかのようにふるまってみせているだけでないか?
沼の神はきついまなざしを向ける澄明の詰問に
堪えきれぬ笑いを浮かべる。
「それはわしにとうておるか?この姿、白峰にとうておるか?」
愚問である。
「おまえにきまっておろう。政勝に姿を変え、白峰に姿を変え、
結句、お前こそ、この澄明を」
わななきがおきてくる。
「この澄明をくじりたいだけでないか?」
疑心をぶつけるというに、
沼の神の姿は微動だにせず白峰を写しているのがふしぎである。
澄明の憤怒がさも可笑しくて仕方がないと
悠然なる笑いを浮かべる沼の神である。
「しかたなかろう?
お前は心は早い話どうにか喜んでくじられぬ事はできぬかと、
そればかりでないか?
わしはその心に何とかこたえてやりたいだけだ」
いうに事欠いて澄明のためにだいてやるという?
「馬鹿な。私はお前なぞのぞんでおらぬ」
「いいや。お前は」
いかぬ。澄明の目の前で再び政勝の姿に変転してゆく。
「本心はこの男と通じたい。だが、妹との事。白峰との事と、
望むにのぞめぬ。前にもいうた。お前がいうた。
自分の思いだけに生きるなら白峰と同じ・・」
言葉が途切れると沼の神の姿がかわりはじめる。
「こういうことか?」
澄明の目の前にいるのは白峰である。
「違う。そういうことではない」
否定したものの澄明の心の底で澄明が澄明に語りかけてくる。
『澄明こそが白峰でしかない。
我勝手の思いで恋する人を我が物にしたい。ふりむかせたい。
この白峰の姿は澄明の本心を象っている』
「きがついたか?」
隠しおおせる相手ではない。
「ええ」
存外素直に頷く自分が一層不可思議である。
『お前はつまり。この私の中にある白峰と同じ我が勝手な思いを・・。
私こそが抱いてやれと、いいたいのだろう?』
「判れば良いわ」
間違いなく澄明の心を寸時に読んでいる沼の神である。
「お前はどうだ?」
白峰の我勝手でなくお前の我勝手はどうだと沼の神は問う。
お前が抱いてやるお前の我勝手はどうだと問う。
「言うて赦されるなら。せめて、この思いだけはなくしたくない」
自分の思いとだけ向かい合えば、そうとしかいえない。
「いじらしいものじゃの」
やっと自分の心を認めさらけ出した澄明を見る沼の神の瞳は優しい。
「成る。成らんではない。心一つこそがいとおしいの」
「あ?」
沼の神の言葉に澄明の胸の中に
一心に思いのまに生きた楠が浮かび上がった。
澄明もまた、沼の神のように、楠の思いを愛しいと思った。
『澄明の・・この私の、この思いこそが愛しい?』
そういうことか?
そういうことなのだ。
自分の中のこの思いこそが愛しい。
『お前の言うとおりだ。この思いをこそ尊ばず
白峰にくじられる事ばかり儚んでいた』
上を向いた澄明の顔は又澄明の心も上向いている事をみせる。
落ちてくる涙をこぼすまいと上を向いた顔を沼の神に向けなおすと
沼の神は静かに語りかけた。
「この、男の心もいじらしいと思うてやれぬか?」
俯く哀しげな白峰大神である。
ふと、ふと、いじらしい。
白峰大神のことではない。
ここまで、澄明の心をとらえようと哀れな道化さながら
幾度も姿を変転させた沼の神がである。
「もうよい。こい」
「なんというた?」
「お前を見て居ると自分の様だ。
なんともならぬをおろおろと諦めきれずに居る。
自分をみておるようで・・・」
「みておるようで?」
この気持ちが生じてくるさえふしぎである。
「愛しくなってくる」
「本意か?」
「思い一つに必死になれるお前がうらやましい。
私はお前を抱くと見せてありたい自分を
いとしんでいるだけにすぎない」
「ならば・・・いらぬ」
「え?」
「お前の思うた通り。わしはお前の心を捕らえたい。
お前を抱くはそのあかしでしかない。
なれど、今のお前は。結局、己可愛いでしかない。
そんな心なぞこのわしはいらぬ」
思わぬ拒絶である。だから、聞ける。
「どう思えばきがすむという?」
「お前の情でだいてくれぬか?」
「私の情?」
「今いうたように「どうすればきがすむ」
これが相手の思いをくるんでやる情であろう?」
自分のきがすむことでなく、
相手の気がすむことを与え尽くしてやりたいと考える。
「おまえのきがすむ?」
「わしは、本意でお前をだく。
おまえはそれにこたえているか?どうじゃ?」
「こ・・こたえているとはいえません」
「澄明。わしがこと抱ける女子にならぬば・・因縁はくりかえす。
なれど、因縁繰り返しとうないが心根でわしにだかれても、むだじゃぞ」
え?
「わしが所に近寄るお前の下心では、わしをだくは無理だと言うておく」
あ?
「答えはかんたん。わしを好きになるがいい。
どんな姿をみせようと、それはお前の心の写しにすぎない。
わしの心だけを見詰められるとよいのにな」
寂しげにうつむくとひょいとからだをひねった。
それから、何度比良沼に行こうとも、
何度よぼうてみても、沼の神は姿を現さなかった。
あの夜、身体をひねると沼の神の姿が揺らいだ。
揺らぎながら後じさりする沼の神の姿は
政勝のような白峰になり、
白峰のような政勝になった。
包んでやれといわれた己自身の心の象りを表す白峰と、
包まれてしまいたいと思わせられる政勝の姿が
奇妙に渾然一体化し、一番抱かれたい男と
一番抱かれたくない男が一つの物になっていた。
『何を悟れという?』
澄明の心の表れであるというならば、
其の姿は、一体、澄明のどんな心をあらわしているという?
それが最後であると、思うわけもなく
澄明は沼の神が要求してくる悟りを見つけようとあがいた。
足掻ききれず、三日の後。
澄明は比良沼に足を運んだが、沼は静まり返り、
何ひとつ、動く気配もみせなかった。
さらに三度。日を置いて比良沼を訪ねたが、結果は同じだった。

いったい、なんであったのだろうか?
突然目の前に現われた奇妙な生物は僅かの間に
澄明の心の岐路を見せつけた。
―お前の心に答えた―
沼の神が言うた事は本当のことだと思う。
白峰の暴挙を喜んで受けられる法はないか?
結句澄明が心に岐路を作る基はそこでしかない。
沼の神が教えてくれた事は、
澄明が探っていた、白峰の暴挙を喜んで受ける法であったと思う。
自分の思いの愛しさを知ってみれば、
また、白峰の思いも、いけるものの一心として
澄明の中で愛しいものであると考えられるようになった。
思い一心に生きるものは、すべからく、尊い。
こう思えるようになったのは、沼の神の示唆による。
自分の思いこそが愛しい。
自分と云うものから否定していた時、
白峰の事も、暴挙としか思えなかった。
だが、今は白峰も白峰で思い一心なのだと思えるようになってきている。
くじられる、なぶられるとしか思えなかった、自分主体の見方から
白峰の思いをみる見方になると、
ふと、それは、それはさぞかし抱きたい事であろうと、
自分の中の政勝へ恋慕が白峰の恋情を解させる。
思いと身体が重なる事ばかりでないかもしれない。
ゆえに思いこそなくしたくないと気が付いた今、思いこそ愛しい。
思いこそ自由だと思ったとき
澄明は又己を飛翔させられる事に気が付いた。
くじられる、なぶられるでない。
抱かれるのでないこの澄明こそが抱いてやる。
これくらい、思いの世界では立場を
いくらでも自由に変えられるというに
それ程に自由な思いをして悲惨にもくじられる。
なぶられると儚んでいる事が無益に思えた。
最後の沼の神の寂しげな顔が浮かびあがり澄明は、
もっと、気が付いてゆかねばならない自分が居る事だけは
しっかりおぼえておこうと思った。

澄明は今朱雀と対峙している。
沼の神が教えようとした思いは
いくばくか澄明の中に育まれつつあったが、
沼の神が何者であったのか今ひとつわからない。
澄明の尋ねを黙って聞いていた朱雀であったが、やっと口を開いた。
「澄明・沼とはどう書きます?」
問われた事にまま答える澄明である。
「水を召す・・・ですね」
「そうですね。ならば水、これはなんですか?」
考え込む澄明である。
沼を水を召すと解くのは字面通りであるが水とは如何?
と、問われれば頭をひねるしかない。
「わかりませんか?」
答えを出せず黙り込む澄明にそっと助け舟をだす。
「水を注ぐ音はどうですか?」
音から考えるかと発想の転換についてゆけない自分の固さが
可笑しいが澄明は思うままに答える事にした。
「じゃあ、じゃあ・・か?」
ところが、朱雀はそうでないという。
「いいえ。じょう、じょう、です」
澄明の言葉を言い換える。
そうであるかもしれない。
澄明は黙って朱雀の明かしを聞くだけである。
「じょう、じょう、すなわち情ですね?」
と、いうことは
「沼の神の心は情でしかないと?」
澄明欲しさでないというが腑に落ちなくもあるが、
続く朱雀の言葉が滑る出すのを聞くと澄明は黙った。
少なくとも澄明には判らなかった沼の神の心を
解き明かせる見解を朱雀は持っている。
澄明には及びつかない事である以上まず、聞いてみるしかないのである。
「情はまた、じょう。じょう、すなわち上(じょう)です」
また、判らない事を言い出す朱雀である。
「じょう?上?」
全く闇の中を手探りで歩くに似ている。
示された物を手に取り、出口への進路を探るに似ている。
「上(じょう)は己の上にあるべき心のありよう。
上はまた、かみという。
上の心をして、神とあがめ、この心に添えよと己に物申すが本来」
少しばかり澄明が自分で考え付くのを待つ朱雀である。
「すると?」
朱雀は澄明が気が付いたとおりと頷くと一気に事実を解き放った。
「おのれの心の底に沈めた神が浮上したのです。
水を召したい己の心が沼をつくりだしたのです。」
「なんと?では?」
朱雀は澄明の聡さに微笑む。
「己の底に沈めた情が上にあがり神の姿を拵え、
己に情を注ぎこんだのです」
「では?あれは私だったと?こういうことですか?」
「そのとおりです。沼の神は澄明、お前の情が像を結んだ実体なのです」
朱雀がしっかりと肯定した事実は澄明には驚愕である。
「す、・・すると私は私に導かれたと?」
項垂れるかのように深く頷く朱雀である。
「情はそそぐもの。注ぐものはいつも上にある。
いつまでたってもおろがむ心になれぬお前を見かねたお前の情が、
上になり、上はかみになり、かみは、神に姿をかえてみせて、
お前に情をそそいだ」
つまり、やはり、
「あれが・・わたしだといわれる?」
「そう。おまえの情はもっと、尊く高いものであるに、
己さえ救えぬ粗末さ。
澄明。思いこそすべて。思いなくして、吾はない。
思いをだけや。
思いをだいて、情をそそいでこそ・・・」
「そそいでこそ?」
「吾より他も救える」
え?
「さらば」
沼の神の正体を明かすと朱雀の姿はきえた。
静寂一つになった鏑木の部屋で澄明は大きな息を吐いた。
耳の底には朱雀の言葉が残っている。
「我の思いを抱いてこそ吾より、他も救える」
沼の神が姿を見せなくなったのは、
己可愛さの澄明と限界を見たからに相違ない。
己可愛さで吾の気持ちを抱くは朱雀の言とは意味合いが違う。
沼の神の求める所は確かに我が思いを包むことである。
朱雀の言う事も同じである。
思いを抱くとはいかなることか?
己可愛いでは抱くとはいわぬ。
これは確かである。
『白峰の中にある・・我の思いをだけということかもしれない』
そうであるとして、これによってほかも救える?
我が事として、我が事のように抱く?
これを情とよぶとしても、
これで他、この場合白峰を指すのであろうが、
白峰をも救える?
頭で考える事は理屈でしかない。
確かに白峰の情念ははらされ、白峰は救われるのかもしれない。
だが、澄明の救うものはおのれでしかない。
「ふ・・ふふ」
笑いが起きてくる。
沼の神が己であるというなら、白峰とて己の姿である。
すべからくものはすべて、己?
妖狐も・・・楠も。
何もかも己の姿のなんらかが別に宿って、
自分の姿を見せてくれているに過ぎない。
ただ、自分の姿と、きがつかないだけでしかない。
外にある自分の姿を憎むか抱いてやれるかは、
自分の中の自分の思いをいかにだくかでしかない。
己こそ尊い。
こう考えれば外に現われた姿はいとも簡単にいとしい。
楠を見て、己の運命を疎んだ。
その時楠はうとましい存在に見えた。
「あ、ははは・・」
白峰が憎いと思うたは己が憎いゆえか?
おもい通りに生きられぬ自分が憎い。
自分の外にある物が己の心の色を教えるなら
澄明はいかに白峰を・・おもうがいい?

澄明はただ、ただ
手が届きながらたどり着けぬ悟りを模索する。
白峰大神の澄明を嘱望せんがための発動は
僅かこのふたとせあとになる。

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