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出雲大社

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出雲大社
IzumoTaisha-honden.JPG
出雲大社本殿
所在地島根県出雲市大社町杵築東195
位置北緯35度23分55秒
東経132度41分16秒
主祭神大国主大神
社格式内社名神大
出雲国一宮
官幣大社
勅祭社
別表神社
創建神代とされる
本殿の様式大社造
札所等出雲國神仏霊場1番
例祭5月14日 - 16日
主な神事神在祭など
 
 
神紋(二重亀甲に剣花角)

出雲大社(いずもおおやしろ、いずもたいしゃ)は島根県出雲市にある神社である。式内社名神大)、出雲国一宮で、旧社格官幣大社。現在は神社本庁包括に属する別表神社宗教法人出雲大社教の宗祠。明治維新に伴う近代社格制度下において唯一「大社」を名乗る神社であった。

祭神は大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)。古来より「国中第一之霊神」として称えられ、その本殿は「天下無双之大廈」と評された。

縁結びの神様としても知られ、神在月(神無月)には全国から八百万の神々が集まり神議が行われる(神在祭 旧暦10月11日~17日)。正式名称は「いずもおおやしろ」であるが、一般には「いずもたいしゃ」と読まれる。二拝四拍手一拝の作法で拝礼する。

由緒 [編集]

日本神話によれば、大国主神が天津神国譲りを行う際、その代償として、天孫が住むのと同じくらい大きな宮殿を建ててほしいと求め、造営されたのが出雲大社の始まりであるという。古代より杵築大社(きづきたいしゃ、きづきのおおやしろ)と呼ばれていたが、明治4年(1871年)に出雲大社と改称した。延喜式神名帳には「出雲国出雲郡 杵築大社」と記載され、名神大社に列している。神階は貞観9年(867年)に正二位まで昇った。江戸時代には社領五千石を有していた。明治4年に官幣大社に列格し、大正時代に勅祭社となった。現在は神社本庁の別表神社となっている。

創建以来、天照大神の子の天穂日命を祖とする出雲国造家が祭祀を担ってきた。現在の宮司は84代国造千家尊祐で、國學院大學を卒業後太宰府天満宮を経て出雲大社禰宜→権宮司と昇格し、平成14年(2002年)宮司に就任し翌年神社本庁より神職身分特級を拝受している。また、宮司の正服の紋様は神社本庁の定める黒綾文輪なし裏同色平絹ではなく黒綾にご神紋である二重亀甲剣花角の文様を練り込んだものであり他に類を見ない。現在も、皇室の者といえども本殿内までは入れないしきたりを守り続けている。60年に一度の式年遷宮に際して、神体が仮殿に遷御された後に、本殿の内部及び大屋根が公開されることがある。

創建伝承 [編集]

出雲大社の創建については、日本神話などにその伝承が語られている。以下はその主なものである。

  • 大国主神は国譲りに応じる条件として「我が住処を、皇孫の住処の様に太く深い柱で、千木が空高くまで届く立派な宮を造っていただければ、そこに隠れておりましょう」と述べ、これに従って出雲の「多芸志(たぎし)の浜」に「天之御舎(あめのみあらか)」を造った。(『古事記』)
  • 高皇産霊尊は国譲りに応じた大己貴神に対して、「汝の住処となる「天日隅宮(あめのひすみのみや)」を、千尋もある縄を使い、柱を高く太く、板を厚く広くして造り、天穂日命をに祀らせよう」と述べた。(『日本書紀』)
  • 所造天下大神(=大国主神)の宮を奉る為、皇神らが集って宮を築いた。(『出雲国風土記』出雲郡杵築郷)
  • 神魂命が「天日栖宮(あめのひすみのみや)」を高天原の宮の尺度をもって、所造天下大神の宮として造れ」と述べた。(『出雲国風土記』楯縫郡)
  • 垂仁天皇皇子本牟智和気(ほむちわけ)は生まれながらにであったが、占いによってそれは出雲の大神の祟りであることが分かり、曙立王と菟上王を連れて出雲に遣わして大神を拝ませると、本牟智和気はしゃべれるようになった。奏上をうけた天皇は大変喜び、菟上王を再び出雲に遣わして、「神宮」を造らせた。(『古事記』)
  • 斉明天皇5年、出雲国造に命じて「神之宮」を修造させた。(『日本書紀』)[1]

伝承の内容や大社の呼び名は様々であるが、共通して言えることは、天津神(または天皇の命によって、国津神である大国主神の宮が建てられたということであり、その創建が単なる在地の信仰によるものではなく、古代における国家的な事業として行われたものであることがうかがえる。

また、出雲大社の社伝においては、垂仁天皇の時が第1回、斉明天皇の時が第2回の造営とされている。

祭神の変化 [編集]

出雲国造新任時に朝廷で奏上する出雲国造神賀詞では「大穴持命(大国主大神)」「杵築宮(出雲大社)に静まり坐しき」と記載があるので、この儀式を行っていた平安時代前期までの祭神は大国主大神であった[2]

しかし、神仏習合の影響下で鎌倉時代から天台宗鰐淵寺と関係が深まり、杵築大社(出雲大社)の神宮寺も兼ねた鰐淵寺を中心とした縁起(中世出雲神話)で出雲の国引き・国作りの神を素戔嗚尊としていた[2][3]ことから、中世のある時期から17世紀まで祭神が素戔嗚尊[4]であった。14世紀「当社大明神は天照大御神之弟、素戔嗚尊也。八又の大蛇を割き、凶徒を射ち国域の太平を築く。」と杵築大社(出雲大社)の由来が記され、寛文6年(1666年)毛利綱広が寄進した銅鳥居に刻まれた銘文には「素戔嗚尊者雲陽大社神也」と記された。

さらには、鰐淵寺の僧侶が経所で大般若経転読を行い、社殿では読経もした[5]。また、江戸時代初期には社僧寺社奉行と杵築大社(出雲大社)の運営管理に関する交渉を実施していた。

ところが、杵築大社(出雲大社)内は仏堂仏塔が立ち並んで神事が衰微したため、17世紀の寛文年間の遷宮時に出雲国造家が神仏分離廃仏毀釈を主張して寺社奉行に認められ、寛文4年から寛文5年にかけて仏堂や仏塔は移築・撤去され、経蔵は破却された[5]。これに併せて祭神は素戔嗚尊から、古事記や日本書紀などの記述に沿って大国主大神に復した。

施設 [編集]

 
国立公文書館所蔵「出雲大社絵図」(明治8年頃作成)

本殿 [編集]

玉垣、瑞垣(廻廊)、荒垣の三重の垣根に厳重に守護されている。本殿内にある御神座の向きは拝殿正面の南側ではなく、西側を向いている。これは本殿が古代の高床式住居とほぼ同じ構造になっているためで、高床式住居における入口と最上席の配置と向きの関係から、御神座は必然的に西側を向くことになる。

現在の本殿は延享元年(1744年)に作られた。高さは8(およそ24m)で、これも神社としては破格の大きさであるが、かつての本殿は現在よりもはるかに高く、中古には16丈(48m)、上古には32丈(およそ96m)であったと伝えられる。その伝承より想定される形は大変不思議なもので、空に向かって延びた何本もの柱の上に社が建つというものであった。この想定は東大寺大仏殿(当時の伝承によれば十五丈・45m)や平安京大極殿より巨大であったとされる。これは平安時代源為憲によって作られた「口遊」で数え歌に歌われていること(雲太、和二、京三=出雲太郎、大和次郎、京三郎[6])を元にしている。[7]

16丈の建築物が古代において建造可能であったのかに疑問を呈する意見もあるが、実際に何度も倒壊したという記録があり、当時の技術レベルを超えて建築された可能性は否定出来ない。上古32丈についても、山の頂上に建てられ、その山の高さであると考えれば、不自然では無いという意見もある。

平成12年(2000年)、地下祭礼準備室の建設にともなう事前調査に際し、境内からは勾玉などの他、巨大な宇豆柱(1本約1.4mの柱を3本束ねたもの)が発掘された。古代社殿の柱ではと注目を集めたが、中世の遺構で現在とほぼ同大平面であり、柱の分析や出土品からも宝治2年(1248年)造営の本殿である可能性が高まった。

荒垣内摂社 [編集]

※「荒垣」とは本殿鎮座地の四囲にめぐらした石垣と塀で、大社ではこの内側をいわゆる「境内」としている。
本殿瑞垣内
  • 大神大后神社(御向社、みむかいのやしろ) -- 式内名神大社(同社坐大神大后神社)。大国主の正后・須勢理毘賣命を祀る。
  • 伊能知比賣神社(天前社、あまさきのやしろ) -- 式内社(同社坐伊能知比賣神社)。大国主が亡くなったときに蘇生を行った蚶貝比賣命・蛤貝比賣命を祀る。
  • 神魂御子神社(筑紫社、つくしのやしろ) -- 式内社(同社坐神魂御子神社)。大国主の妻で宗像三女神の一人、多紀理毘賣命を祀る。
  • 門神社(もんじんのやしろ) -- 廻廊八足門内の両側にあって本殿を守護する宇治神(東)・久多美神(西)を祀る。 
本殿瑞垣外
  • 出雲神社(素鵞社、そがのやしろ) -- 式内社。父(または祖先)の素戔鳴尊を祀る。本殿の真後ろ、八雲山との間に唯一鎮座する社。
  • 釜社(かまのやしろ) -- 素戔鳴尊の子の宇迦之魂神を祀る。
  • 氏社(うじのやしろ) -- 2つあって、出雲国造家祖神の天穂日命(北)と17代の祖で出雲氏初代の宮向宿彌(南)を祀る。御神座は本殿のある東を向いて、西を向いた主祭神に対面するようにしつらえてある。
  • 十九社(じゅうくしゃ) -- 東西に2つあって八百萬神(やおよろずのかみ)を祀る。神在祭の際、神々の宿舎となる。

荒垣外摂末社 [編集]

  • 神魂伊能知奴志神社(命主社、いのちぬしのやしろ) -- 式内社。神産巣日神を祀る。(出雲市大社町杵築東182)
  • 阿須伎神社(阿式社、あじきのやしろ) -- 式内社。子の阿遲須伎高日子根命を祀る。(出雲市大社町遥堪1473)
  • 大穴持御子神社(三歳社、みとせのやしろ) -- 式内社。子の事代主神・高比賣命(古事記では下照比賣命)と素戔鳴尊の孫の御年神を祀る。(出雲市大社町杵築東)
  • 大穴持御子玉江神社(乙見社、おとみのやしろ) -- 式内社。子の下照比賣命を祀る。(出雲市大社町修理免字向地920)
  • 大穴持伊那西波岐神社(いなせはぎのかみのやしろ) -- 式内社。天穂日命の子で、国譲りの際に事代主のもとに使者として向かった稻背脛命(いなせはぎのみこと)を主祭神とし、白兔神を配祀する。(出雲市大社町鷺浦102)
  • 上宮(かみのみや) -- 素戔鳴尊・八百萬神を祀る。神在祭の際、神々の会議所となる。(出雲市大社町杵築北)
  • 下宮(しものみや) -- 天照大御神を祀る。(出雲市大社町杵築北)
  • 出雲井社(いずもいのやしろ) -- 岐神(ふなどのかみ)を祀る。(出雲市大社町修理免)
  • 因佐神社(いなさのかみのやしろ) -- 建御雷神を祀る。(出雲市大社町杵築3008)
  • 湊社(みなとのやしろ) -- 櫛八玉神を祀る。(出雲市大社町中荒木)
  • 大歳社(おおとしのやしろ) -- 素戔鳴尊の子の大歳神を祀る。(出雲市大社町杵築北)
  • 祓社(はらいのやしろ) -- 祓戸四柱神を祀る。参道大鳥居の東側にあり参拝者が前もって身心を祓い清める社。(出雲市大社町杵築東195)

ニギハヤヒ


ニギハヤヒノミコトは、日本神話に登場する。『日本書紀』では饒速日命、『古事記』では邇藝速日命と表記する。

『古事記』では、神武天皇神武東征において大和地方の豪族であるナガスネヒコが奉じる神として登場する。ナガスネヒコの妹のトミヤスビメ(登美夜須毘売)を妻とし、トミヤスビメとの間にウマシマジノミコト(宇摩志麻遅命)をもうけた。ウマシマジノミコトは、物部連穂積臣采女臣の祖としている。イワレビコ(後の神武天皇)が東征し、それに抵抗したナガスネヒコが敗れた後、イワレビコがアマテラスの子孫であることを知り、イワレビコのもとに下った。

『日本書紀』などの記述によれば、神武東征に先立ち、アマテラスから十種の神宝を授かり天磐船に乗って河内国大阪府交野市)の河上の地に天降り、その後大和国奈良県)に移ったとされている。これらは、ニニギの天孫降臨説話とは別系統の説話と考えられる。また、有力な氏族、特に祭祀を司どる物部氏の祖神とされていること、神武天皇より先に大和に鎮座していることが神話に明記されていることなど、ニギハヤヒの存在には多くの重要な問題が含まれている。大和地方に神武天皇の前に出雲系の王権が存在したことを示すとする説や、大和地方に存在した何らかの勢力と物部氏に結びつきがあったとする説などもある。

先代旧事本紀』では、「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊」(あまてる くにてるひこ あまのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)といいアメノオシホミミの子でニニギの兄である天火明命(アメノホアカリ)と同一の神であるとしている。

新撰姓氏録』ではニギハヤヒは、天神(高天原出身、皇統ではない)、天火明命(アメノホアカリ)は天孫(天照大神の系)とし両者を別とする。

別名

  • 饒速日命(にぎはやひのみこと)
  • 櫛玉命(くしたまのみこと)

アメノホアカリと同一視

  • 天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてる ひこ あめのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)

大国主の子とする説

アメノホアカリの別名

  • 天照國照彦天火明尊(あまてる くにてる ひこ あめのほあかり の みこと)
  • 天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこほあかり)
  • 天火明命(あめのほあかりのみこと)
  • 彦火明命
  • 膽杵磯丹杵穂命
  • 天照御魂神

スサノオノミコトの子であり、大物主、加茂別雷大神、事解之男尊、日本大国魂大神、布留御魂,大歳尊と同一視する説

  • 古代史ブームの火付け役と目される原田常治氏は、推論に推論を重ね、大胆に結論を断定する手法で、大神神社の主祭神である大物主、上賀茂神社の主祭神である加茂別雷大神、熊野本宮大社の祭神である事解之男尊、大和神社の主神である日本大国魂大神、石上神宮の祭神である布留御魂、大歳神社の主祭神である大歳神(大歳尊)と同一だとする[1]。学術的には大いに問題があるという意見がある一方、影響を受けた作家も多く[2]、多くの読者に読まれてきた経緯もあり、古代史へのロマンを広げる説であるという意見もある[3][4]

主な神社

祭神同一視神社

  • 真清田神社 - 尾張国一宮。(祭神の天火明命は本名を天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊と社伝にいう)
  • 籠神社 - 元伊勢の最初の神社。(祭神の彦火明命はニギハヤヒの別名と社伝にいう)

脚注・出典

  1. ^ 原田常治 『記紀以前の資料による古代日本正史』 同志社
  2. ^ 真説日本古代史 
  3. ^ 『記紀以前の資料による古代日本正史』の書評(amazon.co.jp) 
  4. ^ 

ニギハヤヒ関連・・・。

http://www2.odn.ne.jp/~cic04500/yamatai07.html ~から抜粋転写(文章も・・) 

魏志倭人伝(三国史・魏書・東夷伝・倭人条)

 8世紀に編纂された「記紀」は、日本の歴史を神代にまでさかのぼって書かれたもので、特に『日本書紀』は日本におけるまさに正史です。そこには本当なら2~3世紀頃の邪馬台国のことは書かれていなければなりません。初期大和政権の誕生をもって、つまり古墳時代に入って前方後円墳体制ができあがる時期をもって、国家の始まりとするなら、その直前に存在したのが邪馬台国です。中国の史書に「30の国を支配し、女王卑弥呼の都するところ」とまで書かれている内容は、「記紀」には、本来、卑弥呼の実名入りで書かれているべき事柄です。ところがそれがない。
 しかし、よく見ると、とても奇妙な記述が何箇所かあるのです。

丹後一の宮、籠(この)神社はまた、古代史ファンにはよく知られた神社です。
 1975年、神社に代々極秘で伝えられていた系図が公表され、関係者の大きな注目を集めました。現存する日本最古の系図として、また、従来にない古代史の新史料として、思いがけないものだったからです。翌年にはさっそく国宝の指定を受けたのも異例のスピードでした。
 この系図には、なんと邪馬台国の女王、卑弥呼と思われる名前が記されています。最近、卑弥呼の墓の最有力候補として注目されている奈良県・纏向遺跡にある箸墓古墳、その被葬者とされる倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)の名が載っているのです。

 系図によると、始祖の彦火明命(ひこほあかりのみこと)から9代目の孫のところに、「日女命(ひめのみこと)」と出てきます。この「日女命」の脇に、「またの名を倭迹迹日百襲姫命」、「またの名を神大市姫命」、「日神ともいう」などと記されています。
 「日神」とは、すごい呼び方です。太陽神のような扱いを受けた女性ということでしょうか。なんとなく卑弥呼を思わせるといってもいいでしょう。
 それに、「神大市姫命」の「大市」。これは『日本書紀』のなかで箸墓について、「倭迹迹日百襲姫が死んで、大市に葬る。時の人はこの墓を名づけて箸墓という」とある記述に完全に一致します。宮内庁による箸墓の呼び名「倭迹迹日百襲姫の大市墓」の「大市」です。
 どうやら、箸墓に葬られた百襲姫という女性は、丹後の籠神社の系図にある「日女命」と同一人物で、彼女が卑弥呼であるらしい。つまり、卑弥呼は「日女命」と考えてよいようです。

 この系図は、5世紀に丹波国造となった海部氏が、籠神社の神主となって代々伝えてきたものです。主祭神の彦火明命を丹波国造の祖として、以後、今日まで海部氏が代々続いており、現在は82代目の海部光彦さんです。
 「海部氏系図」と呼ばれるこの系図には、始祖の彦火明命についての驚くべき伝承も伝えています。
 彦火明命は、「天火明命(あまのほあかりのみこと)」、「饒速日命(にぎはやひのみこと)」など、いくつかの名前がありますが、天皇家の祖先と同じ天照大神の孫で、やはり天孫として天降っている。しかも、丹後に天降っているというのです。
 天孫降臨というと、普通、天皇家の祖先のニニギノミコトが九州の日向の高千穂に天降ったといわれますが、「海部氏系図」はもうひとつの天孫降臨伝説を伝えており、海部家と天皇家は同じ天照大神の孫で、兄弟の間柄になるようです。
 籠神社には、2000年間にわたり伝世されてきた息津鏡(おきつかがみ)、辺津鏡(へつかがみ)と呼ばれる秘蔵の鏡も2面あります。

記紀によれば、ニギハヤヒは物部氏の祖先とされていますが、物部氏の氏族伝承を伝えるといわれる『先代旧記本紀』(平安初期成立)によると、ニギハヤヒは物部一族を連れて天の磐船で空を駆け巡り、河内国のイカルガノ峰に天降ったということです。
 河内国のイカルガノ峰というのは、東大阪市の生駒山付近とされています。神武の軍勢がいったん大和川沿いに大和に侵入しようとしたとき、ニギハヤヒの家来のナガスネヒコに撃退されたのが、東大阪市日下(くさか)町付近でした。
 この日下町には石切剣箭(いしきりつるぎや)神社という古社があり、現在も、ニギハヤヒを祖神として、直系の神主が百代以上に渡って仕えているといわれます。ニギハヤヒの本拠地は本来このあたりのようです。
 一方、ニギハヤヒについてはもう一つの伝承が残されています。前の
「卑弥呼の名のある系図」のところで紹介した天橋立の籠神社に伝わる「海部氏系図」という国宝の系図によりますと、ニギハヤヒは河内の国に天降ったあと、大和国の鳥見(とみ)の白辻山(生駒山付近)に移ったということです。そこでナガスネヒコの妹と結婚した。

神武天皇はじつは東征に出発する前からニギハヤヒの存在を知っています。
「東の方によい土地があり、青い山が取り巻いている。その土地は、大業をひろめ天下を治めるによいであろう。きっとこの国の中心地だろう。その場所に天の磐船に乗って降りてきたのは、ニギハヤヒだろう」と語っています。
 ところが、ニギハヤヒとの大和で実際の戦いは、あっけないほど簡単に終わってしまいます。さんざんに抵抗したナガスネヒコを、ニギハヤヒ自身が殺してしまうのです。
 このような神武とニギハヤヒの戦いは、前にも述べたように最初から勝敗が決められた「出来レース」のような感じがしてなりません。ニギハヤヒはどうも、初めから朝廷側の意向に沿った形で記紀に登場しているのです。

島根県大田市に石見国一ノ宮の物部神社があります。ニギハヤヒの息子の宇摩志麻遅命(うましまじのみこと)を主祭神とする神社です。6世紀の継体天皇の勅命によって創建されたと伝えられています。三輪王朝や河内王朝の時代ではなく、継体王朝と関係があるらしく、それほど古いとは思えません。宗教的に重要な出雲の地に、物部氏のために大和朝廷によって建てられた神社のようです。ニギハヤヒという人物と重なってきます

神庭荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡から出土した銅剣や銅鐸は、ほぼ紀元前2~1世紀を中心とした時期に製作されたものと見てよさそうです。たぶん紀元前2~1世紀ごろに作られ、あまり時間を置かずに出雲にもち込まれ、その後、紀元後1世紀の前半ごろに埋められたと考えられています。
 紀元前2~1世紀ごろというのは、日本の古代史ではかなり古い時代です。大和朝廷(三輪王朝)の成立を西暦300年ごろとすると、それよりも400年以上前の時代です。その頃、出雲は近畿や九州から銅鐸や銅矛が集まってくる立場にあったことになります。
 銅剣や銅矛、銅鐸はいずれも弥生時代には貴重な祭りの道具です。これらが大量に集められるということは、それだけ出雲が重要な地位にあったことを意味しています。ここに早い時代の出雲勢力のひとつの基盤をみることができます。
 しかし、当時の出雲がどれほど重要な地域であったのか、今のところそれを知る材料はほとんどありません。古代出雲の厄介なところが、ここです。突然、大量の銅剣や銅鐸が出土したけれども、当時のことを知る考古学資料があまりない。

研究家のなかには、古代の出雲には列島を支配する王国のようなものがあった、と考える人もいます。しかし、考古学の発掘からはそれを裏づけるものは出ていません。政治的な意味での王国があったかどうか、疑問です。
 ちょうど紀元前1世紀ごろの倭国のことを書いた『漢書地理志』によると、当時の日本は「分かれて百余国となる」とあります。百ほどの国に分かれ、まだ全土を支配する王のようなものはいなかったようです。まだ日本には、統一王朝のようなものはなかったようです。
 むしろ、古代出雲について、どうしても気になるのは、邪馬台国の存在です。
 あらゆる状況証拠から考えて、現在では、邪馬台国は畿内大和の纏向遺跡周辺にあったと考えるのが最も有力です。しかも、第1部の
「邪馬台国は出雲系か」のところで見たように、邪馬台国はどうやら、出雲系の神を奉じる王国であったようです。
 仮に、古代出雲王国と呼べるものがあったとしたら、それは邪馬台国と同じではないか、と考えられます。
 古代の日本では、出雲の神々への信仰が、列島のかなり広い範囲に及んでいたのではないか、と私は思います。いわば、古代出雲文化圏のようなものがすでに存在していた。邪馬台国はそのような基盤の上に成立し、出雲文化圏の上に乗っている。

倉橋 日出夫 プロフィール


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ミカサフミ

ミカサフミ』(漢字表記は三笠山紀)は、『ホツマツタヱ』と同様のヲシテ(神代文字のひとつとされる)を使い五七調の長歌体で記され、全64アヤ(章)で記述された日本古文書である(ホツマツタヱの項参照)。現在9アヤ(章)が再発見されている。

ミカサフミは景行53年8月1日、ホツマツタヱと同時にオシロワケ(景行天皇)に上呈され、その編纂は中臣氏の祖オオカシマ(クニナツ)と序文にある[1][2]。厳密には成立時期は不詳であり、ホツマツタヱと同様に確実に遡ることが可能なのは江戸時代までである。江戸時代和仁估安聡(わにこやすとし)によって書写されたもので、現在発見されている文献は1973年に松本善之助ならびに研究者によって序文及び8アヤ(章)が再発見された。その後、龍谷大学大宮図書館において、同氏らによって溥泉(ふせん)旧蔵書の中から『ミカサフミ トシウチニナスコトノアヤ』が再発見された。

この再発見の経緯については、『ホツマツタヘ―秘められた日本古代史』『ホツマツタヘ 続―秘められた日本古代史 (2)』『よみがえる日本語』など、ホツマツタヱ関連書籍に詳しい。

日本語学や歴史学の学会では、ヲシテは神代文字のひとつとみなされており、神代文字の文献ということで学会では偽書とされている。また、古史古伝の研究家からは古史古伝のひとつとされている。しかしながら、ヲシテを縄文時代から日本で流通していた文字で、その文書もその当時の記録であり、記紀こそがその文書から制作・創作されたとする研究もある。

ヲシテ研究者によると『古事記』『日本書紀』とホツマツタヱ・ミカサフミの同内容の箇所を精密に照合することによって、記紀の原書である事が認められる文献であると主張されている。原文および記紀との照合は、『校註ミカサフミ・フトマニ[1]および『定本ホツマツタヱ』、『記紀原書ヲシテ(下巻)』によって、一般へ提示されているが、原本の写真版による復刻はなされていない。

日本ヲシテ研究所では残りの『ミカサフミ』他ヲシテ文献を探しており、その連絡先は日本ヲシテ研究所

●目録

和仁估安聡本(やすとし本) ミカサフミの目録 「ヲシテをカナに直したもの」

  • クニナツガノブ
  • ミカサフミキツヨヂノアヤ
  • ミカサフミサカノリノアヤ
  • ミカサフミヒメミヲノアヤ
  • ミカサフミハラミヤノアヤ
  • コヱソフノキサキタツアヤ
  • ミカサフミタカマナルアヤ
  • ミカサフミナメコトノアヤ
  • ミカサフミハニマツリノアヤ

溥泉伝本(ふせん伝本)

  • トチウシニナスコトノアヤ
    1. ^ a b 校註『ミカサフミ・フトマニ』松本善之助監修・池田満編 1999/11
    2. ^ 吾郷清彦『日本建國史 全訳・ホツマツタヱ』 國書刊行会(株)新國民社 1980/02
    3. ^ 松本善之助『ホツマツタヘ―秘められた日本古代史』 毎日新聞社 1980/07 ISBN 4620307246
    4. ^ 『ホツマツタヘ 続―秘められた日本古代史 (2)』 毎日新聞社 1984/01 ISBN 4620302759
    5. ^ a b 池田満監修 青木 純雄・平岡憲人著『よみがえる日本語-ことばのみなもと「ヲシテ」』明治書院 2009/05 ISBN 4625634075
    6. ^ 池田 満『ホツマツタヱを読み解く』 展望社 2001/11 ISBN 4885460832
    7. ^ 池田 満=校訂・編集『定本 ホツマツタヱ』 展望社(ホツマ刊行会) 2002/03 ISBN 4885460867
    8. ^ 池田満・著『記紀原書ヲシテ 下巻』展望社(ホツマ刊行会) 初版 平成16年(2004年)8月1日 ISBN 4885461162 ISBN 9784885461163

ミシャグジ

ミシャグジ信仰は東日本の広域に渡って分布しており、主に石や樹木を依代とする神で蛇の姿をしているとも言われている。その信仰形態や神性は多様で、地域によって差異があり、その土地の神や他の神の神性が習合されている場合がある。信仰の分布域と重なる縄文時代の遺跡からミシャグジ神の御神体となっている物や依代とされている物と同じ物が出土している事等からこの信仰が縄文時代から存在していたと考えられている。

諏訪地方では特に諏訪の蛇神であるソソウ神と習合されたためか白蛇の姿をしているともいわれており、建御名方神洩矢神(モレヤ神)と同一視されることもある[要出典]。また御社宮司、御左口など多くの漢字があてられる[注 1]

この神を祀っていた守屋神社(もりやじんじゃ)では、神官に憑依して宣託を下す神とされた。また1年毎に八歳の男児が神を降ろす神官に選ばれ、任期を終えた神官が次の神官が決まると同時に人身御供として殺されるという「一年神主」の伝承も残る[1][要検証]

マタギ等の山人たちにも信仰されていたと言われる[1]

ミシャグジ?

石神。シャクジーのことでは、なかろうか?

御石神

ミシャグジと読めないだろうか?

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九頭竜伝承

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九頭龍(大神)伝承(くずりゅう(おおかみ)でんしょう)、九頭龍(大神)伝説(くずりゅう(おおかみ)でんせつ)は、日本各地に残る九頭龍(大神)に関する伝承・伝説の事である。神社が建立されることとなった事跡や奇瑞事象の、およその年代順に説明させて頂く。

戸隠神社 奥社本殿

目次

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千葉鹿野山の九頭龍伝承 [編集]

千葉の鹿野山麓の鬼泪山(きなだやま)には、九頭龍という九頭の巨大な大蛇が棲みつき、村人を襲い人々を喰らっているという。 村の長が都に使いをたて大蛇退治を願い出たところ、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が大蛇退治に遣わされた。 村人がその恐ろしさをタケルに語ると、タケルは腰の剣を抜き「必ず この草薙剣で大蛇を退治してみせる」と誓い、村人の案内で小川沿いの道を鬼泪山に分け入った。 タケルは懸命に九頭龍を探すが一向に見つからない。疲れ果てていつしかタケルは眠ってしまった。するとそこに九頭龍が現れ、タケルを一飲みにしてしまった。

三日程たったある日。村の娘が小川で洗濯をしていると、だんだんと川の澄んだ水が赤く染まっていった。娘はあまりのことに驚き、村人を呼んだ。「タケルノミコト様が大蛇を退治して下さったからに違いない」「いやもしかしたら、タケルノミコト様の身に・・・」などと話し合っていると、ヤマトタケルノミコトが現れて「つい油断して九つの頭の蛇に一呑みにされてしまった。幸いにも生きていたので 約束どおり この剣を抜き、奴の腹の中を滅多斬りに切り裂いて、外へ出れた。そして、九つの頭を全部切り落としてやった」と仰った。

この時流れ出た血が、川を三日三晩染めたので、今でもその川のことを「(血)染川」と呼んでいる。なお、退治された九頭龍の霊魂は長年を通じて供養され、「九頭竜権現」として祀られるに至り、今でも神野寺仁王門に鎮座されている。また、鹿野山測地観測所の下には「大蛇作」「蛇堀」などと呼ばれる場所がある。かつて大蛇の棲息していた場所だと言う。

  • 龍ではなく、鬼泪山に篭って日本武尊(ヤマトタケルノミコト)と闘ったのは、鬼とされた阿久留王だったという伝承もある。別名、六手王とも言った。鬼泪山北麓を流れる染川(血染川)は、その鬼の血で三日三晩染まったので「(血)染川」と呼ばれるようになったとも言われる。また、鬼が泣いて許しを請うたので「鬼泪山」という呼称がついた事にもなっている。阿久留王の墓という祠が江戸期までは実在したと言われている。
  • 鬼泪山でヤマトタケルと闘ったのは、でいだく坊、だいだあ法師、デーデッポ、だいだらぼっち という巨人であったという伝承もある。

越前国平泉寺白山加賀国~ 九頭龍川流域の伝承 ~福井県石川県(金沢)~ [編集]

寛平元年(889年)6月、平泉寺白山権現が衆徒の前に姿を現して、尊像を川に浮かべました。すると九つの頭を持った竜が現れ、尊像を頂くようにして川を流れ下り、黒竜大明神(※)の対岸に泳ぎ着きました。以来、この川を「九頭竜川」と呼ぶようになったということです。

―――以上『越前国名蹟考』福井県郷土誌懇談会 著 1958年発行 より――――

※九頭龍川下流域には、今でも黒龍を冠する福井市内の神社として舟橋町の「黒龍(くろたつ)神社」と毛矢町の「毛谷黒龍(けやくろたつ)神社」が建っている。 二つはもともとは、高尾郷黒龍村(毛谷の杜)にあった。

 ~黒龍大明神信仰の歴史(参考まで)~

雄略天皇21年(477年)、男大迹王(継体天皇)が越前国の日野、足羽、黒龍の三大河の治水の大工事を行われ、北国無双の暴れ大河であった黒龍川(九頭龍)の守護と国家鎮護産業興隆を祈願され高龗大神(黒龍大神)、闇龗大神(白龍大神)の御二柱の御霊を高尾郷黒龍村毛谷の杜(舟橋の現在地から6.5km上流の川の中央に位置)に創祀された。この儀により現代まで連綿と続く九頭竜湖~九頭龍川流域での黒龍大明神信仰が興ったのだとされる。

この地方での黒龍大明神の祭祀は、天地の初めから国土を守護されてきた四方位を象徴する御四柱の神々「四大明神」の御一柱を祀るものとされた。東の常陸国には鹿島大明神、南に紀伊国には熊野大権現、西の安芸国には厳島大明神(神宮創建 推古天皇元年593年)、北の越前国の当地には黒龍大明神として、日本の国家鎮護 及び 黒瀬川(九頭龍)流域の守護神として祭祀されてきた。五行思想から黒と水は北方を象徴し北方を守ると考えられ、また、四竜において北方を守護するのはやはり黒龍だからである。

  • 第四十三代元明天皇和銅元年(708年)9月20日、高志連村君(こしのむらじ・むらぎみ)が継体天皇の御遺徳を景仰し、高尾郷黒龍村(毛谷の杜)で御霊を合祀。
  • 延暦3年(784年)8月、社殿が火災で焼失し坂上苅田麻呂(さかのうえのかりたまろ、坂上田村麻呂の父)が再建
  • 承平元年(931年)、藤原利行 朱雀帝御宇承平元年越前国黒龍村、毛谷神社神職となる。(藤原姓の神職の祖 第一代)
  • 承平3年(933年)、長者となった生江の世常の宿祢(いくえのよつねのすくね)の夢にお告げがあり、社殿を新しく造りかえた。毎年七度の祭礼が行われてきたという。それが延喜式にある坂井郡毛谷神社で、今の毛谷黒龍神社にあたる。生江の世常の宿祢が長者となる奇跡の物語は、今昔物語[巻17-47]や宇治拾遺物語[巻15-7]に載っている。
  • 光明院御宇暦応元年5月2日、二十四代藤原行古が左中将義貞に従軍し藤島の里に戦死。暦応元年5月、新田義貞が斯波高経と戦ったとき、 黒龍神社も兵火にかかり燃える。このとき神霊は、白龍となって山上に飛び、木の上にとまった。そこで、このあたりを竜ヶ岡(たつがおか)と呼ぶようになった。(「太平記」巻第二十に黒龍明神下での戦いの記載あり)

箱根の九頭龍伝承と祭祀 [編集]

群書類従2』p330-336「筥根山縁起并序」の項より

又湖水西の汀に九頭の毒龍有て時々雲を拏び波を起こして人民を損害する事あり。 上人衆生の苦を救ふを願とす。此故に彼深潭に臨で仏に祈誓し給ふに毒龍 則 降伏して其形を改め、宝珠錫杖及水瓶を捧げて出現す。上人則鉄鎖を呪して縛して以て大木に繁ぐ。 其木を栴檀漢羅樹と云。今尚湖中に有り。

九頭龍神社の縁起箱根神社と同じ天平宝字元年(757年)。九頭龍神社箱根神社を開いた万巻上人が調伏した龍を奉る神社。

芦ノ湖がまだ万字ヶ池と呼ばれていた奈良時代以前、箱根の村には毎年 白羽の矢(※)が立った家の若い娘を芦ノ湖に棲む毒龍に人身御供に差し出すという習慣があった。

それを知った箱根山で修行中の万巻上人は娘達を助け、村人を助けるため法力で毒龍に改心してもらうため立ち上った。 万巻上人は御仏に祈り人身御供の代わりに三斗三升三合三勺の赤飯を21日間の祈祷満願日の前日6月13日(旧暦)に捧げることを誓い、湖畔で経文を唱え 毒龍に対して人身御供を止めるように懇々と仏法を説いた。毒龍は 姿形を変え、宝珠錫杖水瓶を捧げ出現した。それでも鉄鎖の法を修し、龍を湖底の白檀の大樹に縛り付け、仏法を説き続けた。後に、その木は「逆さ杉」と呼ばれるようになった。 龍は、もう悪事はせず、地域一帯の守り神になる旨を約束をする。万巻上人は龍の約束が堅いことを知り、九頭龍大明神としてこの地に奉ることにした。その満願の日とは6月14日(旧暦)。そのため九頭龍神社の祭りは、毎年6月13日が例大祭、毎月の13日が月次祭である。 今でも芦ノ湖の湖水祭ではお櫃に赤飯を入れ、御供船に載せ 逆さ杉のところで湖底に沈め捧げる。このお櫃が浮かび上がってくると龍神が受け入れなかったとされ災いが起きると言われる。

近年では大正12年(1923年)の湖水祭でお櫃が浮かんでおり、その数ヵ月後に起きた関東大地震(大震災)から、九頭龍神社の霊験が あらためて確かめられたのだった。

赤飯を捧げた天平宝字元年6月13日は、現在の新暦(グレゴリオ暦)に直すと、757年7月7日の日曜日になる。

(※)白羽が立つとは、神への供え物として人間の体(主に乙女)を捧げる人身御供に由来。神の生贄として差し出される少女の家の屋根に、目印として白羽の矢が立てられたという俗信から多くの中から犠牲者として選び出されるという意味になった。

平城京の九頭龍伝説 [編集]

発掘された平城京の二条大路木簡には、奈良の南山に住む九頭一尾の大蛇に疫病(天然痘)の原因となる鬼を食べて退治してもらい、都での流行阻止を祈願したとされる文が書かれている。

(原文は縦書き) 「南山之下有不流水其中有 一大蛇九頭一尾不食余物但 食唐鬼朝食 三千 暮食 八百 急々如律令」

の時代の医学書「千金翼方」にも、熱病治療の時に唱えられていた呪文「禁瘧鬼法」として「書桃枝一尺、欲發即用、噀病人面、誦咒文二七遍、擊著頭底。天姓張、地姓皇、星月字長、日字紫光。南山有地、地中有蟲、赤頭黄尾、不食五穀、只食瘧鬼、朝食三千、暮食八百、少一不足、下符請索、語你速去、即得無殃,汝若不去,縛送魁剛,急急如律令。」と記載され、「悪鬼を朝に三千、夕食に八百食べ給え」という行も含めてほとんど同じ祈祷文である。

戸隠の九頭龍伝承 [編集]

戸隠の九頭龍信仰の源は戸隠神社の九頭龍大神である。鎌倉中期に記された「阿裟縛抄諸寺略記」の中に、西暦800年代の中盤頃の話として、「学門」という名の修行者が法華経の功徳によって、九つの頭と龍の尾を持つ鬼をこの地で岩戸に閉じこめたという言い伝えが残されている。悪さをしたため岩戸の中に封じられた龍である面、山伏たちが、九頭龍権現の名で、雨乞いをして水神として人々を助けた面の両面がある調伏善龍化伝承。因みに歯痛の治療に霊験があり、好物のを供えると歯の痛みを取り除いてくれるとされている。

近江国三井寺(園城寺)の九頭龍伝承 ~三井寺の霊泉と九頭龍大神~ [編集]

三井寺金堂の近くには天智天皇天武天皇持統天皇の三帝が産湯に用いたという霊泉が沸いている。この霊泉は「御井(みい)」と呼ばれ、「御井の寺」から三井寺の通称となった。その霊水は、古来より閼伽水として金堂の弥勒菩薩に御供えされてきた。

この御井の霊泉には九頭一身の龍神が住んでおられる、と今に伝わる。その九頭龍神は、年に十日の間、深夜 丑の刻に姿を現わして、黄金の御器を用い水花を金堂の弥勒菩薩まで供えに来られるという。そのため、その期間は泉のそばを通らない仕来たりであった。近づいたり、覗いて見るなどの行為は、「罰あり、とがあり」と言われ禁じられてきた。

猪名川一帯~兵庫川西市~大阪能勢多田池田の九頭龍伝承~ [編集]

清和源氏の祖源満仲公(または多田満仲 912年? - 997年?)という武将が開基したと伝わる妙見宮、それが久々知妙見宮である。

天徳元年(957年源満仲が矢文を放ったところ、岩に当たった。その岩を矢文石と名付けて、その地に北辰星(妙見宮)を祀ったと伝わる。その後、天禄元年(970年)摂津の国守に任ぜられたとき、源満仲公が新しい館をどこに築こうか思い悩み、同国一の宮の住吉大社に参籠した。参籠して二十七日目、『北の空に向って矢を射よ。その矢の(落ちる)とどまる所を居城とすべし』との神託を受けて、満仲公は鏑矢を放った。家来を引き連れた満仲公は、空高く五月山を越え放たれた矢を追いながら鼓ヶ滝付近まで来た時、白髪の老人に出会い、矢の落ちた場所を知ることが出来た。(この場所は、「矢を問うたところ」として、『矢問(やとう)』という地名で残っている。)

満仲公が老人に教えられた場所に行ってみると、河水をたたえた湖(沼)があり、その湖の主の九つの頭をもった雌雄二頭の大蛇(九頭龍)の内の一頭の大蛇大龍の目に射た矢が刺さり、暴れまわっていた。一頭はこの地で死に血水跡はまるで紅の河のようになって流れた。もう一頭は死に物狂いに山を突き破り飛び出し、湖水は鼓を打つような音をたてて滝となって流れ出た。龍はしばらく鼓ヶ瀧の滝壷の中で生きていたが大水害の度に鶯の森、(川西市)天王宮と下流域に流されて行き、ついに昇天された。後に、その地には12以上も鳥居の立ち並ぶ白龍神社が建立され祀られることとなる。湖沼の水は干き、よく肥えた土地が残り、多くの田畑が出来ることとなった。そのため 後に『多田』という地名が付けられる。村人等は九頭龍の犠牲の御陰で田畑が拓かれた事を甚く感謝し、九頭龍大明神、九頭龍大権現、白龍大神と崇め御祀りした。満仲公は、この地に居城を築き、多田源氏を名乗った。

少なくとも1988年までは、上記の九頭龍が死んだ場所として『九頭死(くずし)』という地名が残っていた。現在は「寿久井の地蔵尊」という地名の付近。

兵庫県川西市東多田2の九頭神社は、九つの霊石を御祀りして首から上の病に効く神として信仰され頭痛歯痛眼の病等の平癒に効くと伝えられる。最近は こっそりと「頭の良くなるように」と祈る若者の御参りもあるという。

  • 猪名川一帯 能勢~多田~池田市五月山周辺にかけて「九頭龍大(明)神」その対の「白龍大(明)神」等として祀られている場所
    • 九頭竜権現社(木造祠風) 大阪府豊能郡能勢町山田(湯小屋神社の北東150mの山中 妙見宮の妙見菩薩信仰の元となる妙見山 (能勢)に祀られている隕石の落下地点「能勢町稲地」から北西1400m程の場所)
    • 九頭神社       大阪府豊能郡豊能町余野
    • 九頭神社       兵庫県川西市東多田2(住宅街の外れ)
    • 九頭竜神社      大阪府池田市建石町と上池田の境界付近(池田城の砦跡地か)
    • 白龍神社(小戸神社内) 兵庫県川西市小戸1-13-17(天王宮、中橋西と呼ばれる辺り)

大正時代頃まで「摂津国能勢郡西郷村大字宿野字九頭森」等 地名にそのまま九頭龍の名が残っていた。

旧 久々知妙見宮須佐男神社(兵庫県尼崎市久々知1-3-28)に 満仲が弓矢を放ったという伝承の残る岩(矢文石)が残る。(尼崎列車脱線事故現場から 北東へ距離 700m程のところ)

九州阿蘇の九頭龍伝承  ~ 阿蘇山頂 宝池の九頭龍神 ~  [編集]

九州・英彦山に伝え残されている書に「彦山流記[1]」(奥付にあたるところに「建保元年(1213年)癸酉七月八日九州肥前国 小城郡牛尾山神宮寺法印権大僧都谷口坊慶舜」)がある。この中でも、仏教的な九頭龍伝承が語られている。

 ~以下、同書よりの意訳~

大巌窟で千日の伏臥修行の後、諸法は皆 空である旨をその石室で観じた。かの釈尊が菩提樹で悟ったように。その修めをもって臥験という名となった。

臥験はやがて九州の肥後国阿蘇の峰に登り、山の嶺嶽をもって法華経にある七宝の(塔の相を顕す)場所となっており、高い峯が四(方に広がる波羅蜜への)門の扉となって開き、そびえていることを理解した。八功徳の水は池に清潔さをもって澄みわたり、自ら五色の波をたて広がっていた。そのさざなみは四波羅蜜解脱門を備えており、奏で出されていた。南山に落ちる夕日の光が湖池の浜を金色に染め上げ、銀色の砂が敷詰められる。樹木の間に間に花の色が重なり交わり、極楽浄土の如き荘厳さを呈していた。般若宝珠なる信心堅固な至誠を捧げ、凡夫の決して見ることは出来ないこの宝池の主に拝することを心から願い経を誦した。法華経の第三巻目に達する前に、まず鷹が現れた。しかし、「小鳥の王でこの宝池の主に相応しくない」と言って退けた。更に俗人・僧侶・竜が現れては、その一つ一つを池の主ではないと退けた。そして、十一面観音が現れ光明が赫々と輝くに至った。それでも、池の主ではないと退け、さらに経を唱え続けた。

臥験は半月にも及んで敢え無く見る物事が無かった。その時、修法に従事していた 池の中から声があって 臥験に告げ言う。 「宝池において、主の正体を汝が拝む事あたわず。罪障が重いゆえなり」と言う。 臥験は大いに激して言った。「我は是 三界を領有し治める知識や学問を身につけた聖なる持明者である!悪魔降伏を信じて疑わない。八大童子が随う十二神将よ加護し給え!第六天魔王を なお 繋ぎ縛れ!何者が余の状況を評して かように言うか!?」と。臥験は経論章疏の要文を誦し、秘密真言や神咒を唱え、邪も正も一如であると念を凝らし観じて真俗二諦の法理を修める間、山は動き地は騒ぎ 四方は悉く長い夜の闇の如くになった。

そして、ついに九頭八面の大龍が出現するに至った。その龍は阿蘇の山のように高く嶺のように長く、それぞれの顔面には三つの目が春の太陽のように出て、あるいは暁の星(金星)の如く照り輝いていた。龍の口から吐かれる大炎は同じく迦楼羅焔の如く照るのだった。その身は虚空をうめて満ち満ちる程の巨大さだった。

その気迫は大風の如く勢いをもっていた。龍に呑まれると思い、法力を込めて持っている金剛杵を大龍の顔にある三つの眼をめがけて打ち込んだ。すると、龍は姿を消し、四方はあまねく晴れ渡った。

臥験は、池の主に会う願いを達したと思い、山を下りにかかる。すると、蒼天 にわかに かき曇り、大雨となり、川は洪水と化した。臥験は川を渡れなくなったので、山中の他の道を探すことにした。ようやく一軒の小屋が見つかったところ、そこには一人の若い女性がいるのだった。臥験は、泊めてくれるよう頼むと、快く承諾された。

臥験が裸になって濡れた着物を乾かそうとしていると、その年若い女性は、裸の臥験に自分の着物を着せようとした。臥験は、修行の身にとって女性は不浄であるから、その着物は羽織れない旨を言い 彼女の好意を断った。すると、女性は怒って「仏様は慈悲平等の心を教えていて、浄、不浄などを言いません」と言い、臥験が断るのを無理に着せようとした。そうこうしている間に臥験に欲心が起こった。まだ知らない男女の交わりを試そうと女性を押さえつけた。女性は抵抗して、「まず口を吸って接吻して下さい」と懇願した。しかし、臥験は「自分は日夜、口で秘密真言を唱える身だから、それは出来ない」と言う。しかし、女性は「それでは目的が達せられないでしょう」と言うので、しかたなく口を吸った途端、舌を噛み切られた。臥験は気絶してその場に倒れた。女性は大竜となって天に昇って行った。臥験が意識をとりもどして辺りを見ると、女性も家も自分の舌までもなく、山中に独り取り残されていた。

臥験は犯した罪を悔い、不動明王に念じて「舌を元通りにならしめ給え」と一心に念じていると、一四~五歳くらいの童子が出て来て臥験の舌を撫でた。すると舌は元通りとなり、心身ともに安らかになった。

そのとき天空の高みより声があった。「我は、汝が修法を施した事に対して、汝が妙に思うとも種々の身に形を現した。(女性が汝の身体に良かれと思って衣をかけようとしたのと同様に)真実の正しい身体というものには、極楽世界では阿弥陀と言う衣を被っている。この娑婆世界では十一面観音という衣を被っている。再び(阿蘇に)登り 重ねて御嶽を拝すべし 宝の身体(躰)を」と仰るのだった。

臥験は、ただちに御岳に登る。また、天空より声がして言う。「汝の修法によって 楽々示された種々の身形を観ても、眼根・心根に障りがあるから本地を見抜くことが出来ないのだ」と。臥験は、その場に重ねて座し 印を結び凝らして ただ無性に懺悔の意を尽くした。

「霊峯の頂で十一面観自在尊が千の葉の蓮花に坐し 自ずから放たれる大光明に臥験が照らされたあの瞬間、かの光明は十方世界を遍く照らし、三十二相八十種好を具足奉る金色相(こんじきそう)と一つとなり音楽・芸術・美を司る畢婆迦羅の神の身体そのものとなっていた。先ず現れた鷹の身のことを言うと、是は霊山において会い法華経が説かれる時の同聞衆の身形である。次に示された俗な身形を示した者、是は健磐龍命(タケイワタツノミコト阿蘇大明神)なり。次に僧の身形を示した者、是は比叡山座主良源(912年 - 985年)、次に現れた龍身は、この宝池の主として契りの無い池の大龍なり。最後に現れた十一面観音が当山の峯に常に住まわれる本尊で、大慈大悲の大御心で衆生に利益を与えんとする実体なり。汝の眼に罪障があるから実体を見ぬくことが出来なかったのだ。」

臥験は心から歓喜踊躍し礼の意を表して、その場を去った。九頭の龍から若い女性、そして天空からの声として現れた此の大龍者こそ、法華経に説かれている同聞衆 娑伽羅龍王阿那婆達多羅龍王 第三王子である。是 すなわち十一面観音の化身である。

葛城二十八宿 犬鳴山の奇瑞譚 [編集]

役の小角が葛城山系の山々の峰に法華経二十八品をそれぞれ二十八箇所に埋めたという伝説がある。その法華経に登場する仏教の守護神・八大竜王が葛城山の山頂に祀られており、八大竜王の4番目に数えられる和修吉こと九頭龍大神が葛城山に連なり法華経第八品が埋宝されている犬鳴山内の九頭龍神社で 今も正式に祀られている。

宇多天皇の御世(887年 - 897年)の義犬伝説により名付けられた犬鳴山。その山に坐す七宝瀧寺。中興の祖・見滝上人が寛文10年(1670年)この犬鳴山普住の際、役の小角の勧請による 本尊 倶利伽羅大竜不動明王に奉告 勤行のため、本堂へ向かわれている時の事だった。天空に向かって昇りゆく黒竜と白竜、二柱の竜王の類いまれなる瑞祥を目撃した。上人は深く感動・感激され、この二竜を山の護法神として格別に神明大権現の御神号を呈し奉り祭祀された。爾来発達繁昌を念ずる参拝者の絶えることがなかったという。またいつの頃からか頭部を癒す神、中風除けの守護としても霊験ありと崇信さられるようになった。

このように葛城山犬鳴山には 数々の伝承で彩られている。

京都 八瀬 大原の九頭龍弁才天伝説 [編集]

1954年(昭和29年)11月24日、大西正治朗(1913 - 1988)という人へお告げがあり、京都・八瀬大原にて九頭竜大社が建立されることとなった。現地では、繞道(※)を通ることを思わせる日本では珍しい参拝の方法を推奨している。後の夢告では、日本へのテロ攻撃も警告されたことがあるという。

※古来インドでは「聖なるもの」(サンスクリット語で「チャイティヤ」)の周りを時計回りの方向でめぐる礼拝行為のことを「パリカルマ(サンスクリット語)」と言い、その道筋のことを日本語で「繞道(にょうどう)」という。

上記以外 [編集]

  • 山梨県北杜市における九頭竜伝承は洪水時に竜の体をもって洪水を防ぐという神である。
  • 東京都桧原村の九頭竜伝承では南朝側の守護神である九頭龍大神を武運のため氏神として檜原都民の森近辺に存在する九頭竜神社において九頭竜を祀っている。

仏教との関連 [編集]

仏教での九頭竜とはもともとヴァースキ(和修吉)である。ヴァースキはシェーシャ(Śeṣa)と同一視される。シェーシャとはインド神話に登場するナーガラージャで、カシュヤパ仙とカドゥルーの間に生まれた1000のナーガの1人である。須弥山を守るとされる。その姿は千の頭をもつ巨大な蛇とされ、千の頭の一つ一つに卍の印がついている他、イヤリング、王冠、花冠も身につける。

仏教伝播で中国に伝わった際に八大竜王の和修吉となり九頭一神の龍となった。後に神仏習合され九頭竜は仏教と神道を守る神となる。八大竜王は密教の信仰である。現世利益を強く求める密教において九頭竜は雨乞いをつかさどる神として信仰は完成する


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八大竜王

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八大竜王八大龍王(はちだいりゅうおう)は、天竜八部衆に所属する族の八王。法華経(序品)に登場し、仏法を守護する。 霊鷲山にて十六羅漢を始め、諸天、諸菩薩と共に、水中の主である八大竜王も幾千万億の眷属の竜達とともに釈迦の教えに耳を傾けた。釈迦は「妙法蓮華経」の第二十五 観世音菩薩普門品に遺されているように「観音菩薩の御働き」を説いた。その結果、「覚り」を超える「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい、原語Anuttara samyaksaMbodhi)、無上正等正覚(むじょうしょうとうしょうがく)」を得て、護法の神となられるに至った。

古代インドではナーガ(नाग, Nāga)という半身半蛇の形であったが、中国日本を経て今の竜の形になった。

昔から雨乞いの神様として祀られ、日本各地に八大竜王に関しての神社や祠がある。 九州 西臼杵郡高千穂町天岩戸神社から東南 約1km程の所、「(岩戸)永の内」に 八大竜王水神社が坐している。馬生木にも同名の御社が坐す。宮崎県日向市日向岬米の山 日向岬の最高所 海抜192mの「米の山展望所」の西側に八大竜王の石碑がある。

葛城山系(和泉山脈金剛山地)に役小角が28ヶ所築いたとされている、法華経二十八品の埋納地【葛城二十八宿】。その一つである和泉葛城山山頂付近には、古くから八大竜王神社が建立されている。【第八番経塚】(五百弟子受記品)である犬鳴山には、九頭龍大神(ヴァースキ竜王)が祀られている。 

奈良県吉野郡天川村 大峯山龍泉寺では、本尊が弥勒菩薩 八大龍王尊となっている。10月の第二日曜日に毎年、八大龍王大祭が執り行われている。

秩父今宮神社には、八大龍王宮がある。

一覧 [編集]

一般的に次の順に番号がふられている。

  1. 難陀(ナンダ、なんだ - आनंद Ānanda)訳:歓喜。難陀と跋難陀は兄弟竜王で娑伽羅(サーガラ:大海)竜王と戦ったことがあった。『不空羂索神変真言経』(T1092)第十六章「広博摩尼香王品」にて。
  2. 跋難陀(ウパナンダ、ばつなんだ - उपनन्द Upananda)訳:亜歓喜。難陀の弟。難陀竜王と共にマガダ国を保護して飢饉なからしめ、また釈迦如来の降生の時、雨を降らしてこれを灌ぎ、説法の会座に必ず参じ、釈迦仏入滅の後は永く仏法を守護した。
  3. 娑伽羅(サーガラ、しゃから - सागर sāgara)訳:大海。龍宮の王。大海竜王。「沙掲羅」、「娑羯羅」などとも漢語に音訳された。法華経・提婆達多品に登場する八歳の龍女はこの竜王の第三王女で「善女(如)龍王」と呼ばれた。空海が新しく名付けることとなった清瀧権現も唐からついて来たこの娑伽羅竜王の同じ娘の事である。
  4. 和修吉(ヴァースキ、わしゅきつ - वासुकि Vāsuki)「婆素鶏(ばすけい)」とも漢語に音訳された。サンスクリット語 वासुकि Vāsukiの意味は、「宝 (खजाना Khajānā)」と ほとんど同じである。よって、「宝有(ほうゆう)」、「宝称(ほうしょう)」とも別称された。陽の極まりである「九」、数が極めて大きく強力であるという意で「九」を冠し九頭とされることもあった。よって「九頭竜王(くずりゅうおう)」、「九頭龍大神」等 呼ばれることが日本では多く、九頭一身と言われ考えられるようになった。元の伝説では千あることから「多頭竜王(たとうりゅうおう)」と呼ばれることも稀にあった。もともとは、須弥山を守り細竜を取って食していたという。
  5. 徳叉迦タクシャカ、とくしゃか - Taksaka)訳:多舌、視毒。この龍が怒って凝視された時、その人は息絶えるといわれる。身延鏡と金光明経から七面天女は、タクシャカ竜王の娘とされている。
  6. 阿那婆達多(アナヴァタプタ、あなばだった - अनवतप्त Anavatapta)訳:清涼、無熱悩。阿耨達(あのくだつ)竜王ともいう。ヒマラヤの北にあるという神話上の池、阿耨達池(無熱悩池)に住し、四方に大河を出して人間の住む大陸 閻浮提(えんぶだい、贍部洲 せんぶしゅう)を潤すと謳われた。800里にも及ぶ池の岸辺は金・銀などの四宝よりなっていたという。竜王は菩薩の化身として尊崇せられた。
  7. 摩那斯(マナスヴィン、まなし -मनस्विन Manasvin)訳:大身、大力。阿修羅が海水をもって喜見城を侵したとき、身を踊らせて海水を押し戻したという。
  8. 優鉢羅(ウッパラカ、うはつら - Utpalaka)訳:青蓮華(Utpala)、黛色蓮華池。青蓮華竜王。青蓮華を生ずる池に住まうという。インドでは花弁や葉などの形状を比喩的に眼を現すことに用いるが、特に青睡蓮(nilotpala)は美しい眼に喩えられる。仏教では仏陀の眼は紺青色(nila)とされ、三十二相八十種好の一つ「眼色如紺青相」となっている。「青蓮華」は、漢訳仏典で「優鉢華(ウハツケ)」、「優鉢羅華」などと音写される。中国で「青蓮宇(qinglianyu)(セイレンウ)」は仏教寺院の別称。また、仏教で「ウッパラ」といえば、「ウッパラヴァンナー」の故事が著名である。

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八重垣神社

八重垣神社は松江市の中心より南方の山沿いにある御社である。「早く出雲の八重垣様に、縁の結びが願いたい」という出雲の古い民謡の一節からもわかるとおり、八重垣神社は出雲の縁結びの大神として知られている。八岐大蛇退治で名高い素盞嗚尊と、国の乙女の花と歌われた稲田姫命の御夫婦が主祭神である。その御祭神を始め六神像が描かれた壁画が元々御本殿にあり、古色蒼然雄渾な筆力は神社建築史上類例のない壁画と推賞され、国家より重要文化財の指定を受け、現在は安全な宝物収蔵庫で公開し専門家巡観者の絶賛の的となっている。 また境内には椿の木が多く、その中でも三本ほど夫婦椿と呼んでいる木は、地面から二本の木が出て地上で一本になっているので、一身同体、愛の象徴として神聖視されている。年により二葉の葉が現れることもあり、御神徳の表れと大切にされている。 御本殿後方の奥の院佐久佐女の森は、稲田姫命が八岐大蛇の難を避けられた時の中心地で、日々水を召し上がり姿を写された鏡の池がある。縁結び、心願成就占いの池として占い用紙に硬貨を乗せて浮かべ、縁の遅早を占う多くの方の姿が毎日見受けられる。 見どころは、連理玉椿、板絵著色神像、奥の院佐久佐女の森内の鏡の池での縁占いなど。

社寺の名称八重垣神社(やえがきじんじゃ)
祭神素盞嗚尊(すさのをのみこと)
神話八岐大蛇退治の主人公。稲田姫命と結婚され縁結びの道を開く。
稲田姫命(いなたひめのみこと)
八岐大蛇の難を避けるため当社地に御避難され、天つ神で
ある素盞嗚尊
と結婚され縁結びの道を開く。
創建・開創遠く太古 神話の時代

君が代ほか(覚書)

「君が代は ちよにやちよに さざれいしの 巌となりて こけのむすまで うごきなく 常磐(ときハ)かきはに かぎりもあらじ」
2番
「きみがよハ 千尋(ちひろ)の底の さざれいしの 鵜乃ゐる磯と あらハるるまで かぎりなき みよの栄(さかえ)を ほぎたてまつる」

2番
「君が代は 千ひろの底の さざれ石の うの居(ゐ)る磯と 現はるるまで」
3番
「君が代は 千代ともささじ 天(あめ)の戸や いづる月日の 限りなければ」

剣 立山 黒部  かずさのみや。(さざれ石)玉前神社

剣 たてやま こうべ(ろっこうさん?なにわのみや?)

大浦天主堂 厳島神社 多賀大社 気比神宮 近江八幡宮

いわれなき由縁

ホツマツタヱ


ホツマツタヱ』(ほつまつたゑ)は、ヲシテによって五七調長歌体で記され、全40アヤ(章)で構成された古文書である。その成立時期は不詳であるが、少なくとも江戸時代中期)にまで遡ることが可能である[1]歴史学日本語学等の学界においては、戦前から清原貞雄らにより後世の偽書であるとされ、近年も日本史学の分野では武光誠、日本語学の分野では飯間浩明らにより江戸時代神道家によって作成された偽書であるとされている。また、ヲシテ神代文字のひとつとみなす研究者からは古史古伝のひとつと同一視されている。しかし、漢字が渡来する以前に日本で通用していた文字と文献であって、後世の偽造とされる神代文字古史古伝とは全く異なるとの主張もある。文献全体の包括的な史料批判を試行する動きはあるが、まだなされていない。

ホツマツタヱ』には、複数の写本が現存している。いくつかの写本では「ホツマツタへ」「ホツマツタエ」とも、また漢訳されて「秀真伝」「秀真政伝紀」とも表記されている。『ホツマ』と略されて呼称されることもある。『ホツマツタヱ』と同様の文字による古文書である『ミカサフミ』(「三笠紀」)『フトマニ』(「太占」)も発見されている。この3書に使われている文字は同一で、文書の中では「ヲシテ」と呼ばれている。「ヲシテ」は、過去の神代文字研究、または同文献の研究経緯により「ホツマ文字」「秀真文字」「伊予文字」と呼ばれたり、「オシテ」、「オシデ」と表記される場合もある。

12世紀初頭に成立した『類聚名義抄』などにヲシテに関する記述が認められると理解して、ホツマツタヱは少なくとも平安時代以前に遡るとし、真書であると考える熱心な信奉者も少なからずいる。江戸時代には、和仁估安聡小笠原通当等が真書であると主張した。

近代的な文献学の手法に基づいた研究が始まったのは、ホツマツタヱが再発見された1966年以降である。諸写本の校正、『古事記』『日本書紀』と『ホツマツタヱ』の3書比較、『ホツマツタヱ』『ミカサフミ』『フトマニ』の総合的検証が進められつつある(参考図書を参照のこと)。

ホツマツタヱ』を真書であるとする研究者は、記紀よりも古い日本最古の叙事詩、歴史書であると主張している。『ホツマツタヱ』が扱っている歴史は、記紀神代や人皇12代景行天皇(オシロワケ)までである。

ホツマツタヱの文字と類似文献

『ホツマツタヱ』を表記している文字は、文中の記述によれば『ヲシテ』(ホツマ文字)と呼ばれていた。ヲシテホツマ文字)は1音1字の文字である。母音要素と子音要素の組み合わせで成り立っている。48文字の基本文字があり、変体文字を含めると197文字が確認されている。文字について詳しくは、『ヲシテ』を参照のこと。

同時代のヲシテホツマ文字)で書かれた文献には、伊勢神宮初代の神臣(クニナツ)オオカシマ命が記した『ミカサフミ』、アマテルカミ(記紀にいう、天照大神)が編纂して占いに用いたと伝えられている『フトマニ』などが発見されている。類似文献について詳しくは、『ヲシテ文献』を参照のこと。

神代文字捏造ブームと偽書疑惑

江戸時代に国学が隆盛し、わが国には漢字伝来以前に独自の文字を有していたとの説が広がった。その為、「神代文字(しんだいもじ・かみよもじ)」とよばれる多くの文字が創作された。ホツマツタヱを記述している文字「ヲシテ」は、その神代文字のひとつであるとするのが学会における定説である。神代文字のひとつによって記述されている文書ということ等から、ヲシテ文献も偽書であるとされている。

詳しくは、ヲシテ文献#ヲシテ文献の成立と伝承・再発見を参照のこと。

ホツマツタヱの再発見

完本として公開されている写本

  1. 和仁估安聡本(やすとし本)
    漢訳文付本
    写本自序;安永4年・1775
    1992年発見
    『和仁估安聡本ホツマツタヱ』(わにこやすとしほん ほつまつたえ)として印影版が市販された。
    現在につたわり公開されている写本すべての親本。21アヤがカタカナ表記。28-41(4行)カタカナ表記。
  2. 小笠原長弘本(ながひろ本)
    写本時代、明治33年頃/1900頃
    1967年発見
    『覆刻版ホツマツタへ』として市販された。
    抜け行の多い写本。特殊ヲシテ表記が少ない。古い濁音表記が少ない。数詞ヲシテ(数詞ハネ)の表記が少ない。13アヤで8行、16アヤで8行の抜け個所あり。
  3. 小笠原長武本(ながたけ本)
    写本時代、明治期;1868〜1921
    数詞ヲシテの表記が多い。13アヤで8行の抜け個所あり。
  4. 内閣文庫所蔵本(小笠原長武写本)
    国立公文書館、所蔵
    写本時代、明治期;1868〜1921
    国立公文書館で閲覧できる。
    小笠原長武本と同等。数詞ヲシテの表記が多い。13アヤで8行の抜け個所あり。

この古文書は、1966年(昭和41年)に自由国民社の編集長であった松本善之助が東京、神田の古書店で写本を偶然発見したことから世に知られることになった。松本はそれまで『現代用語の基礎知識』や『現代の経営(ピーター・ドラッガー)』など出版事業に深く携わっていた。『ホツマツタヱ』との出会い以来は、写本の発見とその校正、読解に心血を注ぎ込んで、『古事記』・『日本書紀』との三書対照を踏まえて、『ホツマツタヱ』こそが、記紀の原典であると確信するに至った。

ホツマツタヱの意味

『ホツマツタヱ』の記述によると、『ホツマ』は東国(おおよそ今の関東平野のエリア)を指した用語であったが、東国における優れた治世を讃称する用語へと変化した。『ホツマ』の意味は、『ホ』は秀でたこと、『ツ』は現代語の「の」、『マ』はマコトの意で、3つ繋ぐと「ひいでたまこと」「まことの中のまこと」という意味となる。『ツタヱ』は「伝え・言い伝え」であり、『ホツマツタヱ』は、「まことの中のまことの言い伝え」の意味である。「正式の伝記・正式の歴史書・正史」という意味であろう。江戸時代には漢訳されて「秀真伝」「秀真政伝紀」などと表記されたこともある。

ホツマツタヱの内容

 
あわうた
(小笠原長弘写本ハツアヤより)。全編がこのような
ヲシテによる長歌で記述される。ヲシテの右にあるのは、伝承中に付加されたフリガナ。

『ホツマツタヱ』は、アメツチの始まり(天地開闢)から、カミヨ(記紀にいう神代)、そして人皇初代のカンヤマトイハワレヒコ(神武天皇)を経て人皇12代のヲシロワケ(景行天皇)57年までを記述している。構成は、ほぼ記紀と同様である。が、漢字文への翻訳に際しておおよそ半分程度の漏れが生じている。

1アヤから28アヤまでが前編でクシミカタマの編集、29アヤから40アヤは後編でオオタタネコの編著による。

記紀との大きな違いは、カミヨ(神代)の出来事は、天上の出来事ではなく、日本列島の上に実在の人物が、実在の場所で行った出来事として記述していることである。また、『ホツマツタヱ』で固有の哲学を述べている箇所は、記紀には該当箇所がほとんどないという特徴がある。

『ホツマツタヱ』では、上記の歴史の他、ワカウタ(和歌)の成立、アワ歌という48音の基本音を表すウタ、皇室の成立と歴史、結婚の法、イミナの意味、ミソギの方法、正しい食事の法、マクラ言葉(枕詞)の意味、刑罰の法、国の乱れの原因、国の意味、統治理念、ヲシテという文字のなりたち、ミクサタカラ(三種の神器)の成立と意味、トのヲシテと呼ばれる当時の憲法、国号の変遷、乗馬の法、各地の馬の品種、トリヰ(鳥居)の意味、自然神の祭祀、大宇宙とヒトの関係、暦の法、ヤマトウチ(神武東遷)の背景、天皇即位の儀式の変遷、ツヅウタの意味、葬儀の法などが述べられている。

また、歴代の天皇のイミナ(実名)と陵墓、伊勢神宮他主要な神社の創建のいわれ、ヤマトコトバ(大和言葉)の語源なども述べられている。

真書であれば、日本の国の創建と古代日本の文明を明らかにする書物ということになる。

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古史古伝

古史古伝は、学界において

  • 写本自体が私有され非公開である、などの理由で史料批判がなされる予定がなく、史料として使えないものも多い
  • 超古代文明について言及されている
  • 漢字伝来以前に日本にあったと言われている神代文字で綴られている
  • 近代以降の用語が使用されている

等々の理由で古代からの伝来である可能性は極めて低く、古代史研究における歴史学的な価値は非常に低いと考えられている。しかし、古史古伝は種類が多く、それらの諸点についての度合いは各書ごとに様々である。

現在では、近代における日本人の国家観・民族観への受容等のあらわれとして、写本作成を行う者の思想に対する研究が始まったところである。

一部のヲシテ研究者は、「古史古伝」として一括され、その一部とされているヲシテ文献ヲシテで記述されているホツマツタヱミカサフミフトマニ等)については、偽書である「古史古伝」ではなく、真書であると主張している。(詳しくは、ホツマツタヱヲシテを参照のこと)

名称由来

第2次世界大戦前には「神代史」「太古史」など言われ、戦後(1970年代頃まで)には吾郷清彦が「超古代文書」と呼んでいた。また同じ頃、武田崇元(武内裕)は「偽書」「偽史」「偽典」などといっていたが、「偽書」「偽典」は用語として別に確立したものがあり紛らわしいので、やがて「偽史」という言い方に統一されていった。

「古史古伝」という言い方は、吾郷清彦が著書『古事記以前の書』(大陸書房、1972年)で最初に提唱したもので、この段階では「古典四書」「古伝三書」「古史三書」とされていたが、著書『日本超古代秘史資料』(新人物往来社、1976年)では、「古典四書」「古伝四書」「古史四書」「異録四書」に発展した。 初期の頃の吾郷清彦は「超古代文書」という言い方を好み、「古史古伝」とは言わなかった。あくまで分類上の用語として「古伝四書」とか「古史四書」といっていたにすぎない。1980年代以降、佐治芳彦がこれをくっつけて「古史古伝」と言い出したのが始まりである。

下記の分類は前述の『日本超古代秘史資料』を基本としているが、その後、他の文献写本が発見されるに従って吾郷清彦自身によって徐々に改訂が繰り返され増殖していった。その分として若干の補足を加えてある。

吾郷清彦による分類

古典四書

この「古典四書」(または古典三書)という分類は、異端としての超古代文書に対して正統な神典としての比較対象のための便宜的な分類であり、「古典四書」はいわゆる超古代文書(古史古伝)ではなく、通常の「神典」から代表的・基本的な四書を出したもので、実質は「神典」の言い替えにすぎない。(神典の範囲をどう定めるかは古来諸説があるが『万葉集』『古風土記』『新撰姓氏録』などを含むことが多い)。

しかし『先代旧事本紀』については若干の説明が必要である。『先代旧事本紀』は江戸時代以来、偽書であるとの評価が一般的であり、当然、吾郷清彦も最初からそれを認識していた。しかしまた同時に、通説と同様に、その価値を全面否定はせず、記紀に次ぐ重要な「神典」とみなされてきた事実には変わりない、と(記紀ほどではないが)評価もしていたのである。この本来の旧事紀(十巻本)とは別に異本(『先代旧事本紀大成経』(72巻本)・『白河本旧事紀』(30巻本)・『大成経鷦鷯伝』(31巻本))もあり、こちらは論者によっては古史古伝の一種とされることもありがちなのであるが、超古代文書(=古史古伝)は「偽書」の一種ではあっても、「偽書」のすべてが古史古伝かというとそれも疑問であり、吾郷清彦はその著作の中で『旧事紀』の異本を紹介しながらもこれらを古史古伝とはしていないのである。

同様に『天書』(「天書紀」ともいう)・『日本国総風土記』・『前々太平記』の三書を異端古代史書として加える説もあるが、このうち『天書』は古史古伝の類とはいえず、他の二書も超古代文書というほどの内容をもっているわけではない。これらは古典四書の周辺的な類書であり古史古伝に準ずる異端古代史書とはいえても、超古代文書だとか古史古伝そのものに入れるのは相当な無理がある。 (また『新撰姓氏録』を超古代史書として解釈する説もあるが、これは解釈が超古代史なのであって本文そのものが超古代史なわけではない)

古伝四書

「カタカムナ」を除いて「古伝三書」ともいう。

この「古伝四書」は全文が神代文字で書かれているという外見上の体裁による分類であって、内容に基づく分類ではない。

また、『フトマニ』という書がある。この『フトマニ』は普通名詞の太占(ふとまに)と紛らわしいので吾郷清彦は『カンヲシデモトウラツタヱ』(神璽基兆伝)と名付けた。また、カタカムナに関係する『神名比備軌』(かむなひびき)や『間之統示』(まのすべし)という漢字文献も「カタカムナ系の文献」として一括できるが、これらカタカムナを含むカタカムナ系の諸文献は「歴史書」ではない。「超古代文書=古史古伝」は、このように歴史書以外をも含む幅広い概念である。

なお、『フトマニ』『ホツマツタヱ』『ミカサフミ』の三書は世界観を同じくする同一体系内の一連の書であり「ホツマ系文書」ということができる。一部の研究者からは「ヲシテ文献」と一括してよばれ、「古史古伝」の一部ではなく、真書であると主張されている。(詳しくは、ホツマツタヱヲシテの項目を参照のこと) 

古史四書

  • 九鬼神伝精史』(いわゆる「九鬼文書』。『天津鞴韜秘文』(あまつたたらのひふみ)は九鬼文書群の一部である)
  • 竹内太古史』(いわゆる「竹内文献」。「天津教文書」「磯原文書」ともいう)
  • 富士高天原朝史』(いわゆる「富士谷文書」(ふじやもんじょ)。「宮下文書」「富士宮下古文献」ともいう)
  • 物部秘史』(いわゆる「物部文書」)

『物部秘史』を除いて「古史三書」ともいう。

「古史四書」は神代文字をも伝えてはいるものの、本文は漢字のみまたは漢字仮名まじり文で書かれたもの。やはり内容による分類ではない。上記の四つのタイトル(九鬼神伝精史・竹内太古史・富士高天原朝史・物部秘史)は、吾郷清彦が独自に名付けたものである。

異録四書

  • 和田家文書』(わだけもんじょ。一般には「東日流三郡誌」ともいわれるが、正確ではない。後述)
  • 但馬故事記』(たじまこじき。「但馬国司文書」とも。但馬故事記は本来は但馬国司文書の中の代表的な書物の名)
  • 忍日伝天孫記』(おしひのつたえてんそんき)
  • 神道原典』(しんとうげんてん)

『神道原典』を除いて「異録三書」ともいう。

このうち、『忍日伝天孫記』と『神道原典』は古文書・古文献ではなく、前者は自動書記、後者は霊界往来による霊感の書である。このように吾郷清彦の「古史古伝」(超古代文書)という概念は「古代から伝わった書物」という意味だけでなく、「自動書記などの霊感によって超古代の情報をもたらす現代の書」まで含む幅広い概念である。

和田家文書

吾郷清彦による分類の発展

東亜四書

吾郷は「新しき世界へ」誌(日本CI協会刊)に寄稿した際「東亜四書」という項目を追加している。

構想段階では『香山宝巻』『宝巻変文類』がなく『竹書紀年』『穆天子伝』だったが、この両書を古史古伝だというのは無理があり、後の著作では『竹書紀年』『穆天子伝』をはずし『香山宝巻』『宝巻変文類』を入れた形で発表されている。しかし『香山宝巻』『宝巻変文類』は世間的には有名ではなかったが専門家の世界ではもとから知られたものであり、超古代史文書に入れるのは異論もある。ほかに東アジアに関連するものとして『山海経』『封神演義』をあげる論者もいるが、『山海経』は古来有名な古典であり、一方『封神演義』は小説であり、いくら内容が面白いからといってもこの両書を古史古伝というのは無理がある。それよりも『契丹古伝』や『桓檀古記』とならぶべき超古代文書といえば『南淵書』があげられる。また『桓檀古記』は『癸園史話』や『檀奇古史』などの同系の書物とともに「檀君系文献群」として一括してよぶことができる。

欧米の古史古伝

ウラ・リンダの書』(『ウラ・リンダ年代記』ともいう)

『OAHSPE』『モルモン経』『アカーシャ年代記』は古代から伝来した書物ではなく神の啓示とか、霊感自動書記などになるものだが、それは古史古伝の定義上問題ないことは上述の通り。他に『ネクロノミコン』『トートの書』がある。この両書は架空の書物だが、実在と信じる人もいるのでその場合は超古代文書の一種となる。

その他

阿蘇幣立神社文書』(『高天原動乱の秘録』ともいう)

『美杜神字録』は神代文字で書かれており定義からいえば「古伝四書」の方に入れてもよさそうではあるが、吾郷はその件については特にふれていない。『美杜神字録』のように地方色豊かなものとしては他にも『甲斐古蹟考』があり、原田実はさらに『真清探當證』(ますみたんとうしょう)・『伊未自由来記』(いみじ・ゆらいき)・『肯搆泉達録』(かんかんせんだつろく)の三書をあげている。

「春日文書」は言霊(ことだま)関係の文献であり歴史書ではないが、古史古伝には歴史書以外も含みうるのは、上述のカタカムナの場合と同じである。

これらの他にも「大伴文書」「安倍文書」「斎部文書」「清原文書」「久米文書」などがあるともいわれるが、この五書は噂の域をでず詳細不明であり、実在しない可能性が高い。

一覧

本項ででてきた書物のタイトル一覧(古史古伝以外のものも含む)。五十音順。

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ナーガ

インドの細密画に描かれたナーガ
ラオスの公園の像。ナーガに守られたブッダ

ナーガ (नाग, Nāga) は、インド神話に起源を持つ、精霊あるいは蛇神のことである。頭頂に5匹の蛇を飾る人間で、下半身は蛇(インドコブラ)という姿をしている。

釈迦が悟りを開く時に守護したとされ、仏教竜王として取り入れられて以来、仏法の守護神となっている。特に法華経の会座に列した八大竜王は有名で、その多くがもとはインド神話でも有名なナーガの王(ナーガラージャ Nāga Raja)であった。天気を制御する力を持ち、怒ると旱魃に、なだめられるとを降らす。天候に関して責任感も持っているので、自身の感情を抑えたりもする。チベットでは、樹の枝にも棲むとされている吉兆である。中国においてはと同一視され、多くの描写が龍にも取り入れられた。

その他

  • ナーガは英語で蛇を意味するスネーク (snake) と、語源上の繋がりがあるとする説もある。
  • 日本書紀の神武即位前紀に登場する、饒速日命の臣下・長髄彦(ナガスネヒコ)の名義をナーガに求める俗説がある。

ヘルメス・トリスメギストス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
(ヘルメス思想 から転送)

ヘルメス・トリスメギストス : Hermes Trismegistus, 古希 : Ἑρμῆς Τρισμέγιστος)は、神秘思想錬金術 の文脈に登場する神人であり、伝説的な錬金術師である。

ギリシャ神話ヘルメス 神と、エジプト神話のトート 神がヘレニズム 時代に融合し、さらにそれらの威光を継ぐ人物としての錬金術師ヘルメスが同一視されてヘルメス・トリスメギストスと称されるようになった。それら3つのヘルメスを合わせた者という意味で「3倍偉大なヘルメス」「三重に偉大なヘルメス」と訳される。(三人の賢者(ヘルメス)の伝説(三重の知恵のヘルメス))

  1. 第1のヘルメス:ノアの洪水 以前にいた神。アダム の孫という。衣服、ピラミッド を作ったという。天文などを研究したという。
  2. 第2のヘルメス:ノアの洪水以後のバビロン にいた人。ピタゴラスの師という。医学、数学などに優れる。
  3. 第3のヘルメス:エジプトの人。医学者、哲学者。都市計画をしたという。

ヘルメス・トリスメギストスは、エメラルド板ヘルメス文書 の著者とされた。また中世の錬金術師 は、賢者の石 を手にした唯一の人物と考えていた。

「ヘルメス思想」とはヘルメス・トリスメギストスにあやかって世界の神秘を味わい尽くそうとする思想のことを指す。

「3倍」の理由

トリスメギストス(3倍偉大)という記述の起源は明らかではない。ブライアン・P・コーペンヘイヴァーによれば、この名前が最初にみられるのは、紀元前172年、エジプトメンフィス近くで開かれたトキ 崇拝の集まりであるという。[1] しかし、ガース・ファウデンは、この名前の起源はアテナゴラス(キリスト教徒の弁証家)およびビュブロスのフィロン であると述べている[2] 。その他の解釈としては、エスナ 神殿にあるトートの称号「偉大なる、偉大なる、偉大なるトート」が元になっているという説がある[3] 

ヘルメス・トリスメギストスがエジプトにいたとされる時期(これ以降の時期に地上に存在していたかは定かではない)は、モーセの時代よりはるか昔、エジプト王朝 の最初期であったとされる。権力者たちはヘルメス・トリギスメストスをアブラハムと同時代の人物と考えた。またユダヤの伝承の中には、アブラハムが、その神秘的な知識の一部をヘルメスから得たとするものさえある(en:Kybalion )。

ラクタンティウスアウグスティヌスジョルダーノ・ブルーノマルシリオ・フィチーノトンマーゾ・カンパネッラピコ・デラ・ミランドラ などの多くのキリスト教著述家は、ヘルメス・トリスメギストスを、キリスト教の出現を予見した賢明なる異教徒の預言者と考えた[4] 。これらの著述家は「古代神学」すなわち古代に神から人に与えられたすべての宗教に通じる唯一・真実の神学が存在するという考えを信じており、[5] [6] ザラスシュトラやプラトンなど、多くの預言者にこの考えを適用していた。古代神学の正しさを示すため、これらのキリスト教徒たちはヘルメスの教えを自らの意図に合わせて使用した。このため、キリスト教会の教父にとってのヘルメス・トリスメギストスはモーセの同時代人[7] として考えられたり、ヘルメスの名で呼ばれる3人の人間と考えられたり[8] 、偉大な聖職者・哲学者・王を兼ねていたという意味で「3倍偉大」と考えられたりした[8] [9] 

ヘルメス・トリスメギストスが「トリスメギストス」の名を持っている理由の説明としては、エメラルド・タブレット の「全世界の英知の三部門を知る」という記述を根拠にするものがある。この3つの分野の知識とはすなわち錬金術占星術神働術 (en:theurgy )である。

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天神地祇

天津神は高天原にいる、または高天原から天降った神の総称、それに対して国津神は地に現れた神々の総称とされている。ただし、高天原から天降ったスサノオの子孫である大国主などは国津神とされている。

日本神話においては、国譲りに表されるように、神勅に忠実なニニギを筆頭とする天津神に対する移管を受け入れる形でその関係性が描かれている。 ヤマト王権によって平定された地域の人々が信仰していた神が国津神に、皇族や有力な氏族が信仰していた神が天津神になったものと考えられる。特に国津神については、日本神話に取り入れられる際に変容し、元々の伝承があまり残っていないものも多い。日本書紀ではしきりにある文として伝承等を引用している点から、その記録文書は後世で失われてしまったようである。

「つ」は現代語の「の」のことで、天の神・国の神という意味である。「天つ神」「国つ神」と書くこともある。漢字二字で天津神を「天神」(てんじん)、国津神を「地祇」(ちぎ)とも言い、併せて「天神地祇」「神祇」と言う。

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妙見信仰・・の元 長浜神社

大阪。妙見さんと、北斗神剣(北極星・国常立命・金剛武人・仁王・うしとら金神・・・(スサノオとの関連)

「出雲国風土記」の冒頭を飾る「国引き神話」は、綱をかけ海のむこうから土地を引き寄せ縫い合わせた国土生成の話である。長浜神社は、国引きの綱の「薗の長濱」の地に鎮座し、国引きの神「八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)」を主祭神としてお祀りしている。海のむこうの土地に綱をかけて引き寄せ大地を造られたご事跡により、綱引きの祖=スポーツ上達・不動産守護の神としてのご神徳が知られる。国引き終了の時に神は杖をたてられ、その後も杭を打って歩かれる。これが島根半島に点在する要石(かなめいし)であり、社地の妙見山にも土地鎮めの要石と子授け安産の夫婦石(めおといし)が祀られている。さらに神は石見国へも悪者退治に出かけられる。また、境内にあった神庭桃(かにわもも)から栽培が始まったという当地の桃栽培は、かつて「妙見桃の石見行き」と謳われたほどの産物だった。現在の主要産物はぶどうに変わり、妙見山も桃源郷から桜の園へと変容した。

社寺の名称長浜神社(ながはまじんじゃ)  通称 妙見(みょうけん)さん 国引きの宮
御祭神八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)
    風土記に登場する国引きの神。国土生成して国号命名し、その足跡は
    石見、伯耆国に及ぶ。
布帝耳命(ふてみみのみこと)  古事記に登場する大国主命の祖母
淤美豆奴命(おみずぬのみこと) 父と同名を踏襲する国引きの神の子
御創建・開創和銅三年(710年)以前

国土生成の神であり、「出雲国」という国号の命名者である八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)を祀る当社は、社号にも「出雲」を冠し「出雲社(いずものやしろ)」「出雲神社(いずもじんじゃ)」などと称していた。 古文書に「和銅三年菊月八日二時ノ帝ヨリ出雲国神門郡照浄山南方水海西出雲御社ト勅諚成テ廣太照光妙見トナン給シ~云々~」とあり、創立は和銅三年(710)以前で、後に妙見信仰が浸透したことがわかる。 中世以降は「妙見社(みょうけんしゃ)」・「妙見大社(みょうけんたいしゃ)」などと呼ばれ、明治以降は「長浜神社」となり今に至る。 かつては肥後の八代妙見・山城の家苗妙見と並び日本三大妙見と称されるほど霊験あらたかで知られた。 また、豊臣秀吉の唐入り(朝鮮出兵)の際の百日祈願でも知られる。加藤清正(かとうきよまさ)や片桐且元(かたぎりかつもと)・福島正則といった名だたる武将の参拝があり、その折の「弓掛(ゆみかけ)の松」が境内にある。緒戦の連勝連勝に太閤いたく喜び、桐の神紋をはじめ恩賞を授かっている。この頃から「武道・スポーツ上達の守り神」のみならず「勝負に勝つ神」として広く信仰を集めるようになった。 江戸時代には、大梶七兵衛の開拓に先行して、社家の秦重成(はだしげなり)・喜兵衛(きべえ)の兄弟による私財をなげうっての海岸の砂防植栽と神門水海(かんどのみずうみ)干拓事業が、近世の国引きとして地域開発の歴史の一頁を彩る。 戦前の社格は県社で、現在は島根県特別神社に指定されている。

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布都御魂

布都御魂(ふつのみたま)は、記紀神話 に現れる霊剣。韴霊剣、布都御魂剣(ふつみたまのつるぎ)とも言う。佐士布都神(さじふつのかみ)、甕布都神(みかふつのかみ)とも言い、「ふつ」は物を断ち切る音を表す。

建御雷神 (たけみかずちのかみ)はこれを用い、葦原中国 (あしはらのなかつくに)を平定 した。神武東征 の折り、ナガスネヒコ 誅伐に失敗し、熊野山中で危機に陥った時、高倉下神武天皇 の下に持参した劔がふつみたまで、その剣の霊力は軍勢を毒気から覚醒させ、活力を得てのちの戦争に勝利し、大和 の征服に大いに役立ったとされる。荒ぶる神を退けるちからを持つ。

神武の治世にあっては、物部氏 の祖と言われる宇摩志麻治命 (うましまじのみこと)が宮中で祭ったが、崇神天皇 の代に至り、同じく物部氏の伊香色雄命 (いかがしこおのみこと)の手によって石上神宮 に移され、御神体 となる。同社の祭神である布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)は、布都御魂の霊とされる。

布都御魂はやがて拝殿 の裏手の禁足地に埋められるが、明治 7年(1874年 )に当時の大宮司 の菅政友によって発掘され、本殿 に奉安され、御神体 として祭られている。

菅政友によって発掘された物は、形状は内反り(通常の日本刀 とは逆に刃の方に湾曲)の片刃の鉄刀。柄頭に環頭が付いている。全長は記録によって微妙に異なるが、85cm位である。

一方、鹿島神宮 にも布都御魂剣または韴霊剣(ふつのみたまのつるぎ)と称する巨大な直刀が伝わっている。由来は不明であるが、奈良時代 末期から平安時代 初期の制作とされる。国宝 に指定されており、鹿島神宮の宝物館にて展示されている。

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日御碕神社 2 千木

下の本社(日沈の宮・日沉の宮、ひしずみのみや)村上天皇天暦2年勅命により祀り、上の本社(神の宮)安寧天皇13年勅命により祀られ、総称して日御碕大神宮とされた。出雲國神仏霊場20番。

「日沈の宮」の名前の由来は、創建の由緒が、伊勢神宮が「日の本の昼を守る」のに対し、日御碕神社は「日の本の夜を守れ」 との「勅命」を受けた神社、である事による。

出雲大社の「祖神(おやがみ)さま」として崇敬を集める

上ノ本社「神の宮」祭神は素盞嗚尊とその娘達である三女神。
下ノ本社「日沈宮」祭神は天照大神とその息子達である五神。
素盞嗚尊が天照大神を見下ろしている構図になっている。

「神の宮」の鎮座について、
素盞嗚尊が「吾が神魂はこの葉の止まる所に住まん」と、
柏の葉を投げ、占ったところ、当社背後の丘に止まったという。

「日沈宮」の鎮座について、
日沈宮はもと文(経)島に鎮座した。
天葺根命が文島にいた時、天照大神が降臨し、
「我天下の蒼生(国民)を恵まむ、汝速かに我を祀れ」
との神勅によって奉斎したのが始まりという。

先のスレッド画像を拡大していただくと、わかりやすいのですが、

この日御碕神社では、

スサノオが水平の千木。

アマテラスの方が垂直の千木です。

さて、これで、ひとつ、伊勢神宮の千木のわけがわかったような。

すこし、あとで、考察?(ふてぶてしいな・・・「ぶつぶつ・・・」)を書きます。

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日御碕神社 1

断りを入れようとおもったんだけど、連絡場所がみつからないので、いくつか、失敬してきた。千木水平、女神説をとれば、下の写真がアマテラスということになるが、上の写真左側のやねに三柏かと思える紋がみえる。もう少し調べなければいけないが、三柏はスサノオの神紋ときいたことがあるので、スサノオの場所から見える千木が垂直なのは、どういうことだろうか? 水平の千木を天津神として、考えるか?女神と考えるかなやんでいると・・・さらに混迷する神社出没。次にあげます。




下の本社(日沈の宮)【主祭神】天照大御神
村上天皇天歴二年勅命により現在の地に移し祀る(一千年以前)

上の本社(神の宮)神素戔嗚尊
安寧天皇十三年勅命により現在地に移し祀る(二千五百年以前)
古来両本社を総称して日御碕大神宮と称す

日沈の宮の遠源は、神代の昔素戔嗚尊の御子神天葦根命又(天冬衣命と申す宮司家の遠祖)現社地にほど近い経島に天照大御神の御神託を受け祀り給うと伝えられる。又「日出る所伊勢国五十鈴川の川上に伊勢大神宮えお鎮め祀り、日の本の昼を守り、出雲国日御碕の清江の浜に日沈み宮を建て、日御碕大神宮と称して日本の夜を譲らむ」天平七年乙亥の勅に輝く日の大神の御霊顯が仰がれる如く、古来日御碕は夕日を鎮める霊域とされ、また素戔嗚尊は出雲の国土開発の始めをされた大神と称えられ、日御碕の「隠ヶ丘」は素尊の神魂の鎮まった霊地と崇められた「神の宮」は素尊の神魂の鎮まる日本総本宮として「日沈宮」と共に出雲の国の大霊験所として皇室を始め普く天下の尊崇をうけ現在に至っている。
然してその御神徳は天照大御神の「和魂」素戔嗚尊んお「奇魂」の霊威を戴き「国家鎮護」「厄除開運」「交通航海の安全」「良縁・夫婦円満・安産」「家業繁昌」の守護神として御霊験あらたかである。

現在の社殿は、徳川三代将軍家光公の幕命による建立にして西日本では例のない総「権現造」である。両社殿とも内陣の壁画装飾は極彩色で華麗にして荘厳の至りである。
社殿の殆ど、及石造建造物は国家重要文化財である。


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洩矢神

洩矢神(もりやしん、もれやしん)は、長野県諏訪地方を中心に信仰を集めた土着神。諏訪信仰の一翼を担う神であり、史料としては『諏訪大明神絵詞』にその存在が確認できる。ミシャグジと同一視されることもある。

諏訪大明神絵詞』などの伝承によれば洩矢神は古来諏訪地方を統べる神であった。しかし建御名方神が諏訪に侵入し争いとなると、洩矢神は鉄輪を武具として迎え撃つが、建御名方神の持つの枝により鉄輪が朽ちてしまい敗北した。以後、洩矢神は諏訪地方の祭神の地位を建御名方神に譲り、その支配下に入ることとなったという。また、その名が残る洩矢神社(長野県岡谷市川岸区橋原)はこの戦いの際の洩矢神の本陣があった場所とされる。

中世近世においては建御名方神の末裔とされる諏訪氏諏訪大社上社の大祝を務めたのに対し、洩矢神の末裔とされる守矢氏は筆頭神官である神長を務めた。

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皇祖皇太神宮

その笏が手近にないとき、この組手をもって代える-というわけです。 

皇祖皇太神宮のいわれ

神宮は宇宙開闢の神皇 天地身一大神(あめつちまひとつのおおかみ) (元無極體主王御神(もとふみくらいみぬしおおかみ))から 天御光太陽貴王日大光日大神(あめみひかりおおひなかきおうひおおてるひおおかみ)(またの名メシヤ)までの天神七代、天日豊本葦牙気皇主身光大神天皇(あめひのもとあしかびきみのしみひかりおおかみてんのう)から二十六朝千百六十八代、そして神武朝の現代までの代代の天皇、皇后を合祀したお宮でありまして 皇祖皇太神宮(すみおやすみらおおたましいたまや)と申し上げます。

本来は 天神人祖一神宮(あまつかみくにつかみはじめたましいたまや)と称して 天超根中国の皇城山(あまこしねなかつくにおみじんやま)(元宮が富山市金屋字平奥五六四三番地(呉羽山近く)に建立され、毎年八月大祭が施行されます。)に遷し奉祭されてありましたが、上古第十代 高皇産靈身光天都日嗣天皇(たかみむすびみひかるあまつひつぎすめらみこと)の御代に神勅があって、初代天皇以来千二百九十三代の今上天皇までを合祀し奉る神宮を皇祖皇太神宮、万国の五色人祖祖(いろひとおやかみ)(外国の国王、王妃、民主尊(みっとそん)ら)を祀る神宮を 別祖大神宮(とこおやおおたましいたまや)と改名されたのであります。(内宮外宮のはじまり)

代々の天皇は必ず、皇祖皇太神宮の大前で、自ら祭主となって大祭礼を行いたまい、即位された後、天津高御座(あまつたかみくら)に御せられ、南面し、手には万国棟梁(とうりょう)天皇としてなくてはならぬ神剣 神日本魂剣(かみやまとたましいつるぎ)を執(も)ち、身には天照日神の稜威燦(あまてらすひのかみみいつさん)として十六方に光り輝くさまを現した日輪章(菊型御紋章)をつけたまい、世界万国から集まった尊者民主(みっとそん)の祝賀を受けられました。 

天皇が日本国だけの天皇となったのは神武天皇以後のことで、それまでの代代の天皇は一代に一度は必ず万国を巡幸(世界一周)されることを恒例とし天空浮船(あめそらうきふね)に乗って巡幸されながら、万国それぞれの国王、尊者、民主に謁(えつ)を賜り、任命されるなど光明赫灼とした、正に万国の棟梁、世界天皇でした。

神宮には上古第二十四代 天仁仁杵身光天皇(あめのににぎりみひかり)(五世つづく)の御代に懸族四社(護法守天空神、稲荷福主王神、赤池白竜神、五色商運神)をはじめ九十七狐王の魂も妃られました。

また、不合朝六十九代 神足別豊(かんたるわけとよすき) 天皇の御代にモーゼ、七十代 神心伝物部建(かんこころつとうものべたて)天皇の御代に釈迦、神倭朝初代 神武天皇の御代に老子、第三代安寧天皇の御代に孔子、第六代考安天皇の御代に孟子、第十一代垂仁天皇の御代にキリスト、第三十代欽明天皇の御代にモハメットとそれぞれ来日、参朝し、修業して帰りました。

このように皇祖皇太神宮は、特定の神だけを祀る神社(かみやしろ)ではなく、すべての神々を祀る神宮(たましいたまや)であり、ユダヤ教、道教、儒教、キリスト教、仏教、イスラム教すべてを包括する万教帰一の神宮であります。

神州日本に生きる民族としての誇りを堅持し、世界の五色人もまた皇孫であるとの秘史の教えにしたがい、祖宗を祀り、世界の平和と繁栄のためにつとめることが、神宮を奉斉する私たちの使命です。

宇宙開闢の神皇 天地身一大神(あめつちまひとつのおおかみ)(元無極體主王大御神(もとふみくらいみのしおおかみ))から天神七代 天日豊本葦牙気皇主身光大神天皇(あめひのもとあしかびきみのしみひかりおおかみてんのう)から現天皇まで二十七朝千二百九十三代にわたる皇祖皇宗の神々をお祀りする皇祖皇太神宮は、祭式 行事 礼法など一般の神道 神社と異なるところが多々あります。

そこで今回は、初めて参拝される方がまず疑問に思われる 「なぜこの神宮では四拝八拍をするのか」「なぜ組手のとき人指だけ立てるのだろうか」 ということからご説明します。

神前で拍手するということは、世界にその例がなく、日本神道のみに残されてきた古風ですが、これは人体のもっている陰陽の神気を勢い良く打ち合わせ、その瞬間に発せられる音魂(おとだま)をもって神招(からおき)する、又は神靈に語りかける、ということです。葛城山で一言主神は雄略天皇から御衣を渡されたときは拍手して受けられた、神もまた悦びの時は慶手を賜う-という記録もありますように、神様も天皇にたいして拍手されるというところに、私たちは深い意味を知るべきでしょう。

皇祖皇太神宮では、天津神にたいし四度拝八平手(伊勢神宮式 八開手という)します。これは四方結んで八方に開くという義であり、国津神にたいし二度拝四平手(出雲大社式)しますのは、天地を結んで四方に開くという義であります。(平手は百六十まで打ってよしという記録もあります)

また組手をしたとき、第二指だけを立てて剣の形に組みますのは笏(しゃく)にかえるということです。

笏はそもそも天皇が即位式をなさる(御親祭)とき先帝の左腕(肘から先)の長さの神剣をもって大嘗(おおなめ)の御祭(みまつり)をなされたところからきたものです。(現在は一位(いちい)の木でもって平板につくられ本来の意味が忘れられています。)

笏は祝詞(紹刀と書かれたこともある)奏上のとき弊にそえる-という記録もありますが、皇祖皇太神宮では、古式のまま破邪の神剣 をもって祭式をおこないます。

皇祖皇太神宮はわが国最古の神宮でありますので、他にない古式神事がそのまま残されています。とくに三年か五年に一度行われる鎮火祭(ひわたり)、毎年の大祭で奉納される探湯祭(くがたち)、毎月の月次祭や各種祭典で行われる鳴動祭(かまなり)はこの神宮の三大神事であります。

これらの神事は一般の伝承とは大いに異なるものでありますので今回はそのいわれを簡単にご紹介します。

まず鎮火祭は、一般には伊佐奈美命(いざなみのみこと)が加具土神(かぐつちのかみ)をお産みになり夜見国へ引篭られるときの教えによって後代宮城の四方で年二回行われる(ホシヅメマツリという)火難防除のお祭りとされていますが、これはヒワタリをしません。また火渡りも教派神道の一部や修験道阿蘇神社などで松薪でおこなわれますが、神宮では木炭そのものが使われます。そしてそのいわれにも仁仁岐尊に一度妊娠を疑われた木花咲夜姫が天津神の子であることを照明するために産屋に火をかけられた-というのではなく神宮秘史ではつぎのように伝えられています。

天仁仁杵天皇大神(あめににぎすめらみことおおかみ)の御代「天皇詔シテ皇后木花佐久夜姫命 産宮(うぼのみや)八尺四角の宮、全部カヤ造り、エンの下三尺二寸、全部ケシゴスミオツメその中真座定メ賜テ火中ニテ御安産二柱皇子産ム、皇后自身両手に二柱皇子を抱キテ火中宮より出(い)で達手(たつて)、天皇大神御前捧奉天皇喜ビ詔賜フ二柱皇族子火明命(ほあかりのみこと)後改火火出見命(ほほでみのみこと) 火須勢理命(ほすせりのみこと) 御名付給イ-(後略)

また深湯祭は、一般には応神天皇の御代弟の讒言(ざんげん)を受けた竹内宿禰が磯城川の浜で探湯して勝ったとか、天皇の御代多くのものが姓氏を詐争したのでその白黒をつけるため探湯させたとか、単に熱湯の中に手を入れ神裁(さばき)をうける神事のようにいわれていますが、神宮の探湯祭は熱湯を笹束でかぶり、舞いちらすものですし、鳴動祭も吉備津神社でおこなっているような鳴動の有無で吉凶を占するという単純なものでなく、神宮では男釜(おがま)、女釜(めがま)に必ず降神賜りそれぞれ公事と私事の諸願を祈念するものであります。

秘史では「角織天皇大神(つのぐいすめらみことおおかみ)自身祭主(中略)大神宮大前、御食造(みけつくり)御鳴動祭主、皇子角織草木根主命(つのぐいくさきねのしみこと) 阿曽女豊穀姫命(あそめとよこくひめのみこと) 豊穀繁姫命(とよこくしげひめのみこと) 探湯祭主皇子大海川姫命(おおうみかわひめのみこと) 鎮火祭主皇子野山倉頭男命(のやまくらかしらおのみこと)(中略)鎮火祭上下五色人万億大難禍除、禍敵全滅亡、諸病平癒、身体健康、長寿安産、安全子養祭ル、探湯祭諸々生霊死霊万害窓敵引マキクシザシテ抜イ禍難ヲ滅亡、家地神殿八方清メ上下和合安泰平安祭、御鳴動祭、諸々願成就ス、五穀成就、大長億吉事兆兆勝倍神力添和合立身無窮、家運長久神助天然神力添守祭(後略)

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天照大神

天照大神
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天照大御神から転送)
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天照大御神

天照大神(あまてらすおおみかみ)は、日本神話に登場する。皇室の祖神で、日本民族の総氏神[1]とされている。『延喜式』では自然神として神社などに祀られた場合の「天照」は「あまてる」と称されている。

天岩戸の神隠れで有名であり、記紀によれば太陽を神格化した神であり、皇室の祖神(皇祖神)の一柱とされる。信仰の対象、土地の祭神とされる場所は伊勢神宮が特に有名[2]

名称[編集]

古事記』においては天照大御神(あまてらすおおみかみ)、『日本書紀』においては天照大神(あまてらすおおかみ、あまてらすおおみかみ)と表記される。別名、大日孁貴神(おおひるめのむちのかみ)[3]神社によっては大日女尊(おおひるめのみこと)[4]大日霊(おおひるめ)[5]大日女(おおひめ)[6]とされている。

『古事記』においては「天照大御神」という神名で統一されているのに対し、『日本書紀』においては複数の神名が記載されている。伊勢神宮においては、通常は天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)、あるいは皇大御神(すめおおみかみ)と言い、神職が神前にて名を唱えるときは天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ)と言う[7]

系譜[編集]

女神[編集]

『日本書紀』ではスサノヲが姉と呼んでいること、アマテラスとスサノオの誓約において武装する前に御髪を解き角髪に結び直す、つまり平素には男性の髪型をしていなかったことに加え、機織り部屋で仕事をすることなど女性と読み取れる記述が多いこと、後述の別名に女性を表す言葉があることなどから、古来より女神とされている。また一般に大和絵や宗教、日本人が最初に神代の時代を知る小中学校の社会科などでも女神として表されるのが主流である。言語学的には別名「オホヒルメノムチ」の「オホ」は尊称、「ムチ」は「高貴な者」、「ヒルメ」は「日の女神」[8]を表す。『日本書紀上』岩波書店の注も参照のこと[9]

また、イザナギとイザナミの子のうち、三貴子の兄として(『古事記』ではイザナギとイザナミの最初の子として)「ヒルコ(日ル子)」という男子が生まれている(三年たっても足がたたなかったため、遺棄されてしまった)が、「ヒルコ(日ル子)」と「ヒルメ(日ル女)」の男女一対の言葉の対象性は、「ヒコ・ヒメ」、「ヲトコ・ヲトメ」、「イラツコ・イラツメ」など、古い日本語に伝統的に見られるものでもあり、名前からも女神ととらえることが順当である[10]。後述するように中世には仏と同一視されたり、男神とする説も広まった[11]が、『日本書紀上』日本古典文学大系は男神説を明確に否定している。

天照大神太陽神としての一面を持ってはいるが、神御衣を織らせ、神田のを作り、大嘗祭を行う神であるから、太陽神であるとともに、祭祀を行う古代の巫女を反映した神とする説もある[12]。ただし、日本語においては「メ」は「女」をさす音であり(ヒメ、ウズメ、ナキサワメなど)、女神の名で「メ」を「妻」「巫女」と解釈する例はないともいわれる[13]

また最高神アマテラスの造形には、女帝持統天皇(孫の軽皇子がのち文武天皇として即位)や、同じく女帝の元明天皇(孫の首皇子がのち聖武天皇として即位)の姿が反映されているとする説もある[14]安本美典など邪馬台国東遷説を主張する論者は、天照大神を邪馬台国の女王卑弥呼が神話化されたものと考える人が多い。

兵庫県西宮市の廣田神社は天照大神の荒御魂を祀る大社で、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかいつひめのみこと)という祭神名のまたの名が伝わる。これは天照大神を祀る正殿には伝わらない神名であるが、荒祭宮の荒御魂が女神であることの何よりの証左である。  

神話での記述[編集]

天皇系図 神代

『日本書紀』においては、

  • 第五段の本文では、伊弉諾尊・伊弉冉尊が自然の神を産んだ後に大日霎貴を産んでいる。
  • 第五段の一書の1では、伊弉諾尊が、左手で白銅鏡(ますみのかがみ)を持ったときに大日霎貴が生まれている。
  • 第五段の一書の6では、『古事記』のように禊にて伊弉諾尊が左の眼を洗った時天照大神が生まれている。

『古事記』においては、伊邪那岐命伊邪那美命の居る黄泉の国から生還し、黄泉の穢れを洗い流した際、左目を洗ったときに化生したとしている。このとき右目から生まれた月読命、鼻から生まれた建速須佐之男命と共に、三貴子と呼ばれる。このときイザナギは天照大御神に高天原を治めるように指示した(「神産み」を参照)。

海原を委任された須佐之男命は、イザナミのいる根の国に行きたいと言って泣き続けたためイザナギによって追放された。スサノヲは根の国へ行く前に姉の天照大御神に会おうと高天原に上ったが、天照大御神は弟が高天原を奪いに来たものと思い、武装して待ち受けた。

素戔嗚尊の潔白を証明するために誓約をし、天照大御神の物実から五柱の男神、素戔嗚尊の物実から三柱の女神が生まれ、スサノヲは勝利を宣言する[15](「アマテラスとスサノオの誓約」を参照)。

天照大神の物実から生まれ、天照大御神の子とされたのは、以下の五柱の神である。

これで気を良くしたスサノヲは高天原で乱暴を働き、その結果天照大御神は天岩戸に隠れてしまった。世の中は闇になり、様々な禍が発生した。思兼神天児屋根命など八百万の神々は天照大御神を岩戸から出す事に成功し、スサノヲは高天原から追放された(「天岩戸」を参照)。

葦原中国に子のアメノオシホミミを降臨させることにし、天つ神を派遣した。葦原中国が平定され、いよいよアメノオシホミミが降臨することになったが、その間に瓊々杵尊・邇邇芸命が生まれたので、孫に当たるニニギを降臨させた(「葦原中国平定」「天孫降臨」を参照)。

神仏混淆と天照大神男神説[編集]

中世の神仏混淆本地垂迹説が広まると、インドの仏が神の姿をとって日本に出現したとする考えが広く浸透した。はじめ天照大神には観音菩薩十一面観音菩薩)が当てられたが、やがて大日如来となり、両部神道が登場すると天照大神は宇宙神である大日如来と同一視されるようになる[16]

平安末期の武士の台頭や神仏混淆による男系社会が強まると、一部に天照大神を男神とする説が広まり、中世神話などに姿を残した[17][18]

平安時代、すでに大江匡房は『江家次第』で伊勢神宮に奉納する天照大神のご装束一式が男性用の衣装である事を言及しており、江戸時代の伊勢外宮の神官渡会延経は「之ヲ見レバ、天照大神ハ実ハ男神ノコト明ラカナリ」と記している。(『内宮男体考証』『国学弁疑』)。京都祇園祭の岩戸山の御神体は伊弉諾命・手力男命・天照大神であるが、いずれも男性のお姿である。天照大神の像は「眉目秀麗の美男子で白蜀江花菱綾織袴で浅沓を穿く。直径十二センチ程の円鏡を頸にかけ笏を持つ。」と岩戸山町では伝えられるとおりの伝統を守っている。江戸時代、円空は男神として天照大神の塑像を制作している。江戸時代に流行した鯰絵には天照大神が男神として描かれているものがある。京丹後市久美浜町布袋野(ほたいの)の三番叟(さんばそう)に登場する翁は天照大神を表すとされ、振袖を着てカツラを装着し、かんざしを挿して金色の烏帽子を被る姿である。

 

近代[編集]

1880年明治13年) - 1881年(明治14年)、東京の日比谷に設けた神道事務局神殿の祭神をめぐって神道界に激しい教理論争が起こった[19]。神道事務局は、事務局の神殿における祭神として造化三神(天之御中主神高御産巣日神神産巣日神)と天照大神の四柱を祀ることとしたが、これに対して「出雲派」は、「幽顕一如」(あの世とこの世との一体性)を掲げ、祭神を「幽界」(あの世)を支配する大国主大神を加えた五柱にすべきだと主張した[19]

しかし、神道事務局の中心を担っていた「伊勢派」は、天照大神は顕幽両界を支配する「天地大主宰」であり、他の神々はその臣下にすぎないと主張するなど、両派は真っ向から対立した[19]。果てには、「出雲派が神代より続く積年の宿怨を晴らさんとしている」「皇室に不逞な心を持っている千家尊福を誅殺すべし」など、様々な風説が飛び交った。やがてこの論争は明治天皇の勅裁により収拾(出雲派が敗北)し、天照大神の神格は最高位に位置づけられることになった[19]

なお、政府は神道に共通する教義体系の創造の不可能性と、近代国家が復古神道的な教説によって直接に民衆を統制することの不可能性を認識したと言われている[20]

芥川龍之介は自身の小説にて天照大神を登場させる際、「天照大神」と言う呼称では皇祖神をそのまま文中に登場させてしまう事になるため、太陽神、それも自然神という性格付けで別名の「大日貴」(おおひるめむち)を用いた。実際、芥川の小説には検閲によって訂正・加筆・削除を強いられた箇所が多数存在する[21]

日本全国の神社本庁傘下の神社で皇大神宮(天照皇大神宮)の神札(神宮大麻)を頒布している[22]

天岩戸神社西本宮

中国で活動していたイギリスの宣教師ジョセフ・エドキンス(Joseph Edkins, 中国名:艾约瑟, 1823 – 1905)は、「Amaterasu」(アマテラス)と「Mithras」(ミトラス)は、「A-M-A-T-E-R-A-S-U」と「M-I-T-O-R-A-S-U」という、同一の子音M・T・R・S)から成る名称であると言い、神道とミトラス教を関係付けようとした。[23]

天照大神を祀る神社[編集]

全国の天照大神伝承[編集]

天岩戸神話の天照大神(春斎年昌画、明治20年(1887年))

天照大神の伝承は各地に存在する。

  • 木曽山脈恵那山には天照大神誕生の際に、胞衣(えな)が埋設されたという伝承が残る[24]
  • 長野県戸隠山の戸隠神社には天岩戸の伝承が残る[12]
  • 三重県のめずらし峠は、天照大神と天児屋根命が出会われたという伝承が残っている[25]
  • 奈良県長谷寺の隣の山、與喜(よき)山には天照大神が降臨された伝承が伝わっている[26]
  • 島根県隠岐は天照大神が行幸の際、そこに生育していた大木を「おおき」と感動して呼ばれたことが隠岐の名の起源であるという伝承が残る[27]
  • 鳥取県因幡八上郡 (鳥取県)には、天照大神がこの地にしばらくの間行宮する際、白兎が現れて天照大神の裾を銜(くわ)えて、行宮にふさわしい地として、現在も八頭町鳥取市河原町の境にある伊勢ヶ平(いせがなる)にまで案内し、そこで姿を消したとされる[28]。八頭町の青龍寺の城光寺縁起と土師百井(はじももい)の慈住寺記録には、天照大神が国見の際、伊勢ヶ平付近にある御冠石(みこいわ)に冠を置かれたという伝承が残っている[28]。この伝承と関連して八頭町に3つの白兎神社が存在し、八頭町米岡にある神社は元は伊勢ヶ平にあった社を遷座したものと伝えられるが、天照大神の具体的な伝承に基づく全国的に見ても極めて珍しい神社である。
  • 同じく鳥取県八上の氷ノ山(ひょうのせん)の麓、若桜町舂米(つくよね)には天照大神が大群を従えての行幸伝承とともに、天照大神御製の和歌が伝わっている[29]2007年(平成19年)、若桜町舂米地区内で天照大神が腰掛けをされたさざれ石が発見された[30]
  • 氷ノ山の名は、天照大神が樹氷の美しさに感動され日枝(ひえ)の山と呼ばれたことが起源とされ、氷ノ越えの峠(ここにもかつて白兎を祀る因幡堂があった)を通って因幡をあとにしたとされる[31]
  • 現在は存在しないが、熊本県八代市には上古に天照大神の山陵が在ったと伝えられる[32]
  • 宮崎県高千穂町岩戸にあり天照大神を祭神とする天岩戸神社の周辺には、岩戸隠れ神話の中で天照大神が隠れこもったとされる天岩戸をはじめ、複数の神話史跡や関連の地名が残る。
  • 日本の太陽信仰(天照大御神信仰)はBC5300年の鬼界カルデラ大噴火に起因すると考える説も存在する。天照大神が隠れ、世界が真っ暗になった天岩戸神話を鬼界カルデラ大噴火の火山灰の雲による大災害と見る動きもある。

出典・注釈[編集]

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  1. ^鹿児島県神社庁
  2. ^ a b 『八百万の神々』
  3. ^ 『日本書紀上』p.86、日本古典文学大系、岩波書店
  4. ^ Akimitsu (2013年). “神戸市東灘区 西岡本からのお知らせ”. 神戸市東灘区西岡本. 2013年6月16日閲覧。
  5. ^ 石川県神社庁 (2008年). “神社を探す ― 大日霊神社/おおひるめじんじゃ”. 石川県神社庁. 2013年6月16日閲覧。
  6. ^ 岐阜県神社庁 (2011年). “大日女神社 (おおひめじんじゃ)”. 岐阜県神社庁. 2013年6月16日閲覧。
  7. ^ a b 『日本の神々の事典』
  8. ^ 『日本国語大辞典』
  9. ^ 『日本書紀上』日本古典文学大系、岩波書店 1993年9月6日新装版第1刷 1994年5月6日第3刷発行。 p.87注6は「日ノ妻」あるいは「日の巫女」の意であるという折口信夫の説を紹介する。また、注5では、「アマテラスが、太陽神を祀る巫女の、祭られる神に添加したものとする説があるが、アマテラスの属性の一部を説明できても、自然神としての太陽神を見失っているところがある」とする。
  10. ^ 溝口睦子『アマテラスの誕生』
  11. ^ 斎藤英喜『読み替えられた日本神話』
  12. ^ a b 『神道の本』
  13. ^ 溝口睦子『アマテラスの誕生』
  14. ^ 概説日本思想史 編集委員代表 佐藤弘夫(吉田一彦)
  15. ^ 「我が心清く明し。故れ、我が生める子は、手弱女を得つ。」『古事記』
  16. ^ 佐藤弘夫『アマテラスの変貌』
  17. ^ 上島享「中世王権の創出とその正統性」『日本中世社会の形成と王権』
  18. ^ 中世に編纂された『日諱貴本紀』には両性具有神、『中世日本紀』では男性神として描写される。
  19. ^ a b c d 『古神道の本 甦る太古神と秘教霊学の全貌』学研
  20. ^ 『日本史大事典』 平凡社 1993年
  21. ^ 芥川龍之介 『澄江堂雑記』
  22. ^1871年12月22日、政府は伊勢神宮の神宮大麻を地方官を通して全国700万戸に1体2銭で強制配布することに決め、翌年から実施した。1878年(明治11年)以後は受不受は自由となったが、依然として地方官が関与してトラブルを生ずることがあった(安丸良夫・宮地正人『宗教と国家-日本近代思想大系第5巻』岩波書店、1998年、p443,535,562)。
  23. ^ 内村鑑三「ペルシャ」『興国史談』
  24. ^ 『日本の山1000』 山と溪谷社〈山溪カラー名鑑〉、1992年8月、p.355。ISBN 4635090256
  25. ^ めずらし峠の観光施設・周辺情報‐観光三重” (日本語). 三重県観光連盟. 2011年12月24日閲覧。
  26. ^ 與喜天満神社公式サイト ご由緒” (日本語). 與喜天満神社. 2011年12月24日閲覧。
  27. ^ 成り立ち” (日本語). 西ノ島町観光協会. 2011年12月24日閲覧。
  28. ^ a b うさぎが導く縁結びバスツアー 因幡の旅特集ページ 鳥取いなば観光ネット 鳥取県東部の観光ポータルサイト” (日本語). 鳥取・因幡観光ネットワーク協議会. 2011年12月25日閲覧。
  29. ^ 大江幸久『もう一つの因幡の白兎神話 天照大神行幸と御製和歌の伝わる八上神秘の白兎と天照大神伝承』
  30. ^日本海新聞平成21年6月10日
  31. ^ 若桜町の位置/若桜町” (日本語). 若桜町. 2011年12月25日閲覧。
  32. ^ 森本一瑞『肥後国誌』

参考文献[編集]

  • 戸部民夫 『八百万の神々 日本の神霊たちのプロフィール』 新紀元社 1997年
  • 薗田稔、茂木栄 『日本の神々の事典 神道祭祀と八百万の神々』 学研 1997年
  • 少年社、後藤然、渡辺裕之、羽上田昌彦 『神道の本 八百万の神々がつどう秘教的祭祀の世界』 学研 1992年

関連項目[編集]


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アラハバキ


アラハバキ(荒覇吐、荒吐、荒脛巾)信仰は、東北地方一帯に見られる民俗信仰。その起源は不明な点が多く、「まつろわぬ民」であった日本東部の民・蝦夷(えみし、えびす、えぞ)がヤマト王権・朝廷により東北地方へと追いやられながらも守り続けた伝承とする説が唱えられている。歴史的経緯や信憑性については諸説ある。縄文神の一種という説もある。古史古伝偽史的な主張と結びつけられることも多い。

アラハバキを祀る神社は約150で、東北地方に多く見られるが、関東以南でも出雲地方などにみることができる。東三河地方にも五箇所存在する。ただしそれは主祭神としてではなく、門客神(もんきゃくじん)として祀られているケースが多い。門客神とは、神社の門に置かれた「客人神(まろうどがみ)」のことで、「客人神」は地主神がその土地を奪われて、後からやって来た日本神話に登場する神々と立場を逆転させられて、客神となったと考えられている。アラハバキが「客人神」として祀られているケースは、例えば埼玉県大宮にある「氷川神社」で見られる。この摂社は「門客人神社」と呼ばれるが、元々は「荒脛巾(あらはばき)神社」と呼ばれていたとのことである。

蛇神説

吉野裕子によると、「ハバキ」の「ハハ」は蛇の古語であるという。「ハハキ」とは「蛇木(ははき)」あるいは「竜木(ははき)」であり、直立する樹木は蛇に見立てられ、古来祭りの中枢にあったという。

伊勢神宮には「波波木(ははき)神」が祀られているが、その祀られる場所は内宮の東南、つまり「辰巳」の方角、その祭祀は6、9、12月の18日(これは土用にあたる)の「巳の刻」に行われるというのである。「辰」=「竜」、「巳」=「蛇」だから、蛇と深い関わりがあると容易に想像がつく。ちなみに、「波波木神」が後に「顕れる」という接頭語が付いて、「顕波波木神」になったという。

足腰の神説

長脛彦を祀るということから。

塞の神説

宮城県にある多賀城跡の東北にアラハバキ神社がある。多賀城とは、奈良・平安期の朝廷が東北地方に住んでいた蝦夷を制圧するために築いた拠点である。谷川健一によれば、これは朝廷が外敵から多賀城を守るためにアラハバキを祀ったとしている。朝廷にとっての外敵とは当然蝦夷である。つまりこれはアラハバキに「塞の神」としての性格があったためと述べている。

さらに谷川によると、朝廷の伝統的な蝦夷統治の政策は、「蝦夷をもって蝦夷を制す」であったそうで、もともと蝦夷の神であったアラハバキを多賀城を守るための塞の神として配し、蝦夷を撃退しようとしていたという。

製鉄の神説

先の、多賀城跡近くにあるアラハバキ神社には鋏が奉納され、さらに鋳鉄製の灯篭もあるという。多賀城の北方は砂金や砂鉄の産出地であるという。

先のアラハバキを客人神として祀る氷川神社であるが、出雲の流れを汲むという(出雲の斐川にあった杵築神社から移った)。出雲といえば日本の製鉄発祥の地である。氷川神社の祀官は鍛冶氏族である物部氏の流れを組むとのことである。氷川神社のある埼玉県は古代製鉄産業の中心地でもあるという。但し、音韻的に斐川は「シカワ」から転訛したものであり、氷川は「ピカワ」から転訛したものであることから、全く繋がりはないとの説もある。

この大宮を中心とする氷川神社群(三ツ星である氷川神社、中氷川神社、女氷川神社に調神社、宗像神社、越谷の久伊豆神社まで含めたもの)はオリオン座の形、つまりカムド(神門)の形に並んでおり、脇を流れる荒川を天の川とすれば、ちょうど天を映した形になっている点は注目に値する。さらにこの氷川神社群は秩父神社群(北斗七星(=アメノトリフネ、ウケフネ)の形に並んでいる)と比企郡ときがわ町の萩日吉神社において一点で交わり一対一で対応していることは、あるいは(その測量技術の精度の高さもあることから)古代朝鮮道教との強いつながりを窺わせる。氷川神社が延喜式に掲載されている古社であり、かつ、氷川神社の主祭神がスサノオになった(=元々主祭神であったアラハバキ神が客人神になった)のは江戸幕府の政治的意図によるものであることからすれば、出雲と氷川の繋がりの話は、大和朝廷による蝦夷(含、渡来人)支配の一過程であると捉えたほうがよさそうである。

近江雅和によると、アラハバキから変容したとされる門客人神の像は、片目で祀られていることが多いという。片目は製鉄神の特徴とされている。近江は、「アラ」は鉄の古語であるということと、山砂鉄による製鉄や、その他の鉱物採取を実態としていた修験道はアラハバキ信仰を取り入れ、「ハバキ」は山伏が神聖視する「脛巾」に通じ、アラハバキはやがて「お参りすると足が良くなる」という「足神」様に変容していったと述べている。

真弓常忠は先述の「塞の神」について、本来は「サヒ(鉄)の神」の意味だったと述べていて、「塞の神」と製鉄の神がここで結びついてくる。

四天王寺との関係説

聖徳太子が物部守屋との仏教受容をめぐる戦いを制し建てた、日本初の大寺である大阪市の四天王寺について、アラハバキ及び縄文系との関わりが指摘されている。

四天王寺の地の元来の地名は「荒墓邑」(アラバキ?)であり、場所は縄文系説が言われる物部氏の地に立てたと伝えられる。

現四天王寺の北側に磐船神社(饒速日命の降臨地)が元々あったとされ、物部氏は饒速日命を始祖とする一族であるから、この四天王寺の地は本来、物部発祥の聖地であったと考えてよさそうである。

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千木・鰹木

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 
屋根の上にあるのが鰹木、両端で交叉しているのが千木(多田神社本殿)
 
千木・鰹木

千木(ちぎ)・鰹木(かつおぎ)は、今日では神社建築にのみ見られる、建造物の屋根に設けられた部材である。

千木は屋根の両端で交叉させた木であり、鰹木は屋根の上に棟に直角になるように何本か平行して並べた木である。どちらも元々は上流階級の邸宅にも用いられていたが、今日では神社にのみ用いられ、神社建築の象徴のようになっている。

千木は古代、屋根を作るときに木材2本を交叉させて結びつけ、先端を切り揃えずにそのままにした名残りと見られる。千木・鰹木ともに元々は建物の補強のためのものであったと考えられている。鰹木は、形が鰹節に似ていることが名前の由来であると云われる。鰹木は「堅緒木」「堅魚木」「勝男木」「葛尾木」などとも書く。

出雲大社を始めとして出雲諸社は、祭神が男神の社は千木を外削ぎ(先端を地面に対して垂直に削る)に、女神の社は内削ぎ(水平に削る)にしており、他の神社でもこれに倣っているものが多い。また鰹木の数は、奇数は陽数・偶数は陰数とされ、それぞれ男神・女神の社に見られる。

ただし、伊勢神宮の場合、内宮の祭神天照坐皇大御神外宮の祭神豊受大御神とともに主祭神が女神であるのにもかかわらず、内宮では千木・鰹木が内削ぎ・10本、外宮は外削ぎ・9本である。同様に、別宮では、例えば、内宮別宮の月讀宮、外宮別宮の月夜見宮は主祭神はともに同じ祭神である月讀尊(外宮別宮は「月夜見尊」と表記している)と男神であるが、祭神の男女を問わず内宮別宮は内削ぎ・偶数の鰹木、外宮別宮は外削ぎ・奇数の鰹木であり、摂社・末社・所管社も同様である。この理由には諸説あり、外宮の祭神がもともと男神的性格を帯びたものではなかったとする議論もある。


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阿比留文字

対馬国 卜部阿比留(うらべあびる)氏に伝わったといい、平田篤胤 は日文四十七音といい、伴信友 は日本真字体といった。

国語学者山田孝雄 は、『所謂神代文字の論』において、阿比留文字はハングル を基本として日本語の音声にあわせ改良を加えられた文字であるとし、文字自体が偽作という位置づけであると述べている。江戸時代の日本の国学者達は漢字伝来以前に日本に文字があったはずだと考え、其の文字を発見しようとした。そのためこのような文字体系を創出し、古代の文字だと偽って発表したと推理する論がある[要出典 ][1]

阿比留文字は、漢字でいうと右側の旁(つくり)にあたる部分に母音が、左側の偏(へん)にあたる部分に子音を配置し[2] 、子音+母音のように日本のかな五十音 表に対応できる形をとっている。ハングルのほうは3つの字母を配置する複雑な構成になっており、阿比留文字の字母構成よりも進化をしていると見る向きもある[2] 。つまり契丹文字蒙古文字 などアジアの他の地域で独自に作られた文字のほとんどは、漢字アラム文字 など既製の文字を参考につくられていることや、対馬には嘉吉条約 など朝鮮とコネクションを結んだ宗氏 がいたように、朝鮮と日本の国交を対馬が仲介した可能性は否定できず、ハングルのほうが阿比留文字の模倣であると指摘する説もある[2] 。ただし、開音節と閉音節が存在する朝鮮語の音韻においてハングルのような文字が作られるのは自然であるが、開音節しか存在しない日本語の音韻体系において阿比留文字のような文字が作られるのは不自然である。 但し、ハングルの方が複雑であるため、阿比留文字がハングルの基であるという説もある。

★ハングルとの比較★

阿比留文字とハングルとはほぼ同じものであり、深い関連性は否定できない。

朝鮮語でeo(『あ』と『お』の中間音)を表す字母が日本語の『え』の音を表すのに使用されていたり(本来朝鮮語でeはさらに一本右に縦線を引くがeoが日本語にないため画数の少ないeoを使用したとも考えられる)、『ら』行を表す子音字母が朝鮮語でdを表す字母を左右反転させた形になって(あるいは朝鮮語でrを表す字母の上半分の形ともいえる)、『な』行を表す子音字母は朝鮮語の其れに一本縦線を附して使われている。朝鮮語では『や』行自体を表す子音字母はなく、『や』『ゆ』『よ』を表す音は母音字母とされるが、阿比留文字では『や』行を表す子音字母が新設されている。

朝鮮語でdを表す字母は『い』の前では『ぢ』、『う』の前では『づ』の子音を表すよう綴られている。これはこの当時の日本語でdzやdzhがdの異音でしかなかったからである[要出典 ]。またハングルと違い、母音字母は必ず子音字母の右に置かれる。

*現在では神社などの箔付けとして用いられるのみで、一般的な使用は皆無である。また、阿比留文字と思われる字体による銘文が刻まれた石碑が九州の神社や安曇野市 の道祖神として見つかってはいるが、その年代等はっきりとはしていない*

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梶の木(神撰の葉

樹高はあまり高くならず、10mほど。葉は大きく、浅く三裂するか、楕円形で毛が一面に生える。左右どちらかしか裂けない葉も存在し、同じ株でも葉の変異は多い。雌雄異株。

古代から神に捧げる神木として尊ばれていた為、神社 の境内などに多く生えられ、主として神事に用い供え物 の敷物に使われた。

古い時代においてはヒメコウゾ との区別が余り認識されておらず、現在のコウゾ はヒメコウゾとカジノキの雑種といわれている。また、江戸時代日本 を訪れたフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト もこの両者を混同してヨーロッパ に報告したために今日のヒメコウゾの学名が「Broussonetia kazinoki」となってしまっている。

なお、カジノキは神道では神聖な樹木のひとつであり、諏訪神社 などの神紋 や日本の家紋 である梶紋 の紋様としても描かれている。

石上神宮

古代の山辺郡石上郷に属する布留山の西北麓に鎮座する。非常に歴史の古い神社で、『古事記』・『日本書紀』に既に、石上神宮・石上振神宮との記述がある。古代軍事氏族である物部氏が祭祀し、ヤマト政権の武器庫としての役割も果たしてきたと考えられている。古くは斎宮が居たという。その中で、本当に斎宮であったかどうか議論が多いが、布都姫という名が知られている。また、神宮号を記録上では伊勢神宮と同じく一番古く称しており、伊勢神宮の古名とされる「磯宮(いそのみや)」と「いそのかみ」とに何らかの関係があるのかが興味深い。

社伝によれば、布都御魂剣は武甕槌・経津主二神による葦原中国平定の際に使われた剣で、神武東征で熊野において神武天皇が危機に陥った時に、高倉下(夢に天照大神高木神建御雷神が現れ手に入れた)を通して天皇の元に渡った。その後物部氏の祖宇摩志麻治命により宮中で祀られていたが、崇神天皇7年、勅命により物部氏の伊香色雄命が現在地に遷し、「石上大神」として祀ったのが当社の創建である。

石上神宮の東方約1.5kmの布留川上流の山中にある落差23mの桃尾の滝への上り道の途中、滝から南方200mの所にある祠。

石上神宮の元宮との伝説がある。

明治期に廃絶し、義淵を開祖とする桃尾山 蓮華王院 龍福寺の旧境内に鎮座。中世には真言密教修験道の道場として知られていた。行基空海も訪れたと言われている。特に空海については、東寺にも石上神社があることから関係が注目される。桃尾の滝には白龍大神の碑や不動明王の石像等がある。龍神祝詞には十種神宝について述べられている箇所があることからと石上神宮の関係は興味深い。また、桃尾を、饒速日尊が降臨した地とされる「とび:鳥見?」と読む異説もある。

布都御魂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

布都御魂(ふつのみたま)は、記紀神話に現れる霊剣。韴霊剣布都御魂剣(ふつみたまのつるぎ)とも言う。佐士布都神(さじふつのかみ)、甕布都神(みかふつのかみ)とも言い、「ふつ」は物を断ち切る音を表す。

建御雷神(たけみかずちのかみ)はこれを用い、葦原中国(あしはらのなかつくに)を平定した。神武東征の折り、ナガスネヒコ誅伐に失敗し、熊野山中で危機に陥った時、高倉下神武天皇の下に持参した劔がふつみたまで、その剣の霊力は軍勢を毒気から覚醒させ、活力を得てのちの戦争に勝利し、大和の征服に大いに役立ったとされる。荒ぶる神を退けるちからを持つ。

神武の治世にあっては、物部氏の祖と言われる宇摩志麻治命(うましまじのみこと)が宮中で祭ったが、崇神天皇の代に至り、同じく物部氏の伊香色雄命(いかがしこおのみこと)の手によって石上神宮に移され、御神体となる。同社の祭神である布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)は、布都御魂の霊とされる。

布都御魂はやがて拝殿の裏手の禁足地に埋められるが、明治7年(1874年)に当時の大宮司の菅政友によって発掘され、本殿に奉安され、御神体として祭られている。

菅政友によって発掘された物は、形状は内反り(通常の日本刀とは逆に刃の方に湾曲)の片刃の鉄刀。柄頭に環頭が付いている。全長は記録によって微妙に異なるが、85cm位である。

一方、鹿島神宮にも布都御魂剣または韴霊剣(ふつのみたまのつるぎ)と称する巨大な直刀が伝わっている。由来は不明であるが、奈良時代末期から平安時代初期の制作とされる。国宝に指定されており、鹿島神宮の宝物館にて展示されている。

十種神宝十種神宝

(とくさのかんだから、じっしゅしんぽう)とは、物部氏祖神である饒速日命が伝えたとされる十種の神宝である。

先代旧事本紀』の「天孫本紀」の記載によるもので、饒速日命が天神御祖(あまつかみみおや)から授けられたとする。『先代旧事本紀』には「天璽瑞宝十種(あまつしるし みずたから とくさ)」と書かれている。

分類すれば、2種、1種、4種、比礼(女性が、首に掛けて、結ばずに、左右から同じ長さで前に垂らすスカーフ様のもの)3種となる。これを三種の神器に対応させて、鏡は八咫鏡、剣と比礼は草薙剣、玉は八尺瓊勾玉であるとする説もある。

十種神宝の内容は以下の通りである。

  • 沖津鏡(おきつかがみ)
  • 辺津鏡(へつかがみ)
  • 八握剣(やつかのつるぎ)
  • 生玉(いくたま)
  • 死返玉(まかるかへしのたま)
  • 足玉(たるたま)
  • 道返玉(ちかへしのたま)
  • 蛇比礼(おろちのひれ)…大国主の神話に出てくる比礼との関係が注目される。
  • 蜂比礼(はちのひれ)…大国主の神話に出てくる比礼との関係が注目される。
  • 品物之比礼(くさぐさのもののひれ)

布瑠の言 [編集]

布瑠の言(ふるのこと)とは、「ひふみ祓詞」・「ひふみ神言」ともいい、死者蘇生の言霊といわれる。

『先代旧事本紀』の記述によれば、「一二三四五六七八九十、布留部 由良由良止 布留部(ひと ふた み よ いつ む なな や ここの たり、ふるべ ゆらゆらと ふるべ)」と唱える「ひふみの祓詞」や十種神宝の名前を唱えながらこれらの品々を振り動かせば、死人さえ生き返るほどの呪力を発揮するという。

  • 「ふるべ」は瑞宝を振り動かすこと。
  • 「ゆらゆら」は玉の鳴り響く音を表す。

饒速日命の子の宇摩志麻治命が十種神宝を使って神武天皇と皇后の心身安鎮を行ったのが、宮中における鎮魂祭の起源であると『先代旧事本紀』には記載されている。

十種神宝の行方

石上神宮の祭神である布留御魂神は十種神宝のことであるとする説もある。石上神宮に伝わる鎮魂法では「ひふみの祓詞」や十種神宝の名前を唱える。いずれにしても、十種神宝は現存していない。

本物か不明であるが、大阪市平野区喜連6丁目にある楯原神社内の神寶十種之宮に、偶然、町の古道具屋で発見されたという十種神宝が祀られている。石上神宮側から返還要請があったにもかかわらず、返していないという。

江戸時代、山崎闇斎は、垂加神道においては神秘的な意義の有るものとして、さまざまな口伝的著述を残した。

籠神社には、息津鏡・辺津鏡という2面の鏡が伝世している。十種神宝の沖津鏡・辺津鏡との関係は不明で、籠神社も特に見解は出していない。

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タケミカヅチ

タケミカヅチ(タケミカヅチオ)は、日本神話 に登場する

古事記 』では建御雷之男神・建御雷神、『日本書紀 』では、武甕槌、武甕雷男神などと表記される。単に建雷命と書かれることもある。別名 建布都神(タケフツ)、豊布都神(トヨフツ)。また、鹿島神宮茨城県 鹿嶋市 )に祀られていることから鹿島神(かしまのかみ)とも呼ばれる。

名前の「ミカヅチ」は のことであり、雷神は剣の神でもある。また、別名のフツ神は本来は別の神で、『日本書紀』では葦原中国平定でタケミカヅチとともに降ったのはフツヌシ であると記されている。フツヌシは香取神宮 で祀られている神である。

元々は鹿島の土着神 で、海上交通の神として信仰されていた。ヤマト王権 の東国進出の際に鹿島が重要な地になってきたこと、さらに、祭祀を司る中臣氏 が鹿島を含む常総地方の出で、古くから鹿島神ことタケミカヅチを信奉していたことから、タケミカヅチがヤマト王権にとって重要な神とされることになった。平城京に春日大社奈良県 奈良市 )が作られると、中臣氏は鹿島神を勧請し、一族の氏神とした。

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スサノオ

スサノオスサノヲ、スサノオノミコト)は、日本神話に登場するである。『日本書紀』では素戔男尊素戔嗚尊等、『古事記』では建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと、たてはやすさのおのみこと)、須佐乃袁尊、『出雲国風土記』では神須佐能袁命(かむすさのおのみこと)、須佐能乎命などと表記する。神仏習合により、牛頭天王を本地とし、その垂迹とされることもあった。三貴子の末子に当たる。その与えられた役割は、太陽を神格化した天照大神、月を神格化した月夜見尊とは少々異なっているため、議論の的となっている。

 
スサノオの系図(『古事記』による)。青は男神、赤は女神

『古事記』によれば、神産みにおいてイザナギ黄泉の国から帰還し、日向橘小門阿波岐原(ひむかのたちばなのをどのあはきはら)でを行った際、鼻を濯いだ時に産まれたとする。『日本書紀』ではイザナギとイザナミの間に産まれたとしている。

統治領域は文献によって異なり、三貴神のうち天照大神は高天原であるが、月夜見尊は滄海原(あおのうなばら)または夜を、スサノオには夜の食国(よるのおすくに)または海原を治めるように言われたとあり、それぞれ異なる。『古事記』によれば、スサノオはそれを断り、母神イザナミのいる黄泉国に行きたいと願い、イザナギの怒りを買って追放されてしまう。そこでスサノオは根の国へ向う前に姉の天照大神に別れの挨拶をしようと高天原へ上るが、天照大神はスサノオが高天原に攻め入って来たのではと考えて武装してスサノオに応対し、スサノオは疑いを解くために誓約を行う。誓約によって潔白であることが証明されたとしてスサノオは高天原に滞在するが、そこで粗暴な行為をしたので、天照大神は天の岩屋に隠れてしまった。そのため、スサノオは高天原を追放されて葦原中国へ降った。

葦原中国にある出雲の鳥髪山(現在の船通山)へ降ったスサノオは、その地を荒らしていた八岐大蛇(八俣遠呂智)を退治し、八岐大蛇の尾から出てきた天叢雲剣を天照大神に献上した[1]。スサノオは、八岐大蛇に食われることになっていたクシナダヒメを櫛に変え、八岐大蛇を退治した後、元に戻したクシナダヒメを妻として、出雲の須賀(すが)の地へ行きそこに留まった。そこで 八雲立つ出雲八重垣妻籠に八重垣作るその八重垣を と詠んだ。(「夜久毛多都伊豆毛夜幣賀岐都麻碁微爾夜幣賀岐都久流曾能夜幣賀岐袁」--『古事記』、「夜句茂多菟伊弩毛夜覇餓岐菟磨語昧爾夜覇餓枳都倶盧贈廼夜覇餓岐廻」--『日本書紀』)これは初の和歌とされる。また、ここから「八雲」は出雲を象徴する言葉ともなった。その地で大国主命などを産ませ(『日本書紀』では大已貴神(おおあなむちのかみ)。『古事記』では大国主命はスサノオの6代後の子孫としている)、その後、根の国へ向かったと言う。

『日本書紀』における八岐大蛇の記述がある一書第4では、天から追放されたスサノオは、新羅曽尸茂梨(そしもり)[2]に降り、この地吾居ること欲さず「乃興言曰 此地吾不欲居」と言い息子の五十猛神(イソタケル)と共に土船で東に渡り出雲国斐伊川上の鳥上の峰へ到った(「遂以埴土作舟 乘之東渡 到出雲國簸川上所在 鳥上之峯」)後八岐大蛇を退治した。そのとき五十猛神が天から持ち帰った木々の種を、韓(から、朝鮮)の地には植えず、大八洲(おおやしま、本州のこと)に植えたので、大八州は山の地になったと言う。

また続く一書第5では、木がないと子が困るだろうと言い、体毛を抜いて木に変え、種類ごとに用途を定め、息子の五十猛命、娘の大屋津姫命、枛津姫命 に命じて全国に植えさせたという。

大国主の神話において根の国のスサノオの元にやってきたオオナムヂ(大国主)は、スサノオの娘であるスセリビメに一目惚れするが、スサノオはオオナムヂに様々な試練を与える。オオナムヂはそれを克服し、スサノオはオオナムヂがスセリビメを妻とすることを認め、オオナムヂに大国主という名を贈った。

 
スサノオ

スサノオの性格は多面的である。母の国へ行きたいと言って泣き叫ぶ子供のような一面があるかと思えば、高天原では凶暴な一面を見せる。出雲へ降りると一転して貴種流離譚英雄的な性格となる。ヤマタノオロチ退治の英雄譚は優秀な産鉄民を平定した象徴と見る説も根強く、天叢雲剣の取得はその象徴であるとの解釈も多い。しかし、日本初の和歌を詠んだり、木の用途を定めたりなど文化英雄的な側面もある。これは、多数の神が習合してスサノオという神格が創造されたためとする説もあるが、スサノオが成長するにつれて見せる側面であるとする説もある。

神名の「スサ」は、荒れすさぶの意として嵐の神、暴風雨の神とする説や(高天原でのスサノオの行いは暴風雨の被害を示すとする)、「進む」と同根で勢いのままに事を行うの意とする説、出雲の須佐郷(現在の島根県出雲市佐田町須佐)に因むとする説(スサノオは須佐郷の族長を神格化したものとする)、州砂(=砂鉄)の王という説から、意宇郡(おうのこおり)の首長とする説などがある。

『記紀』神話においては出雲の神の祖神として書かれているスサノオであるが、『出雲国風土記』ではスサノオはあまり登場せず、意宇郡安来郷や飯石郡(いいしのこおり)須佐郷などの地名制定や御子神たちの説話が書かれており、ヤマタノオロチ退治の説話は記載されていない[3]。そのため元々は別の地方の神ではないかとする説もあり、その地として、以下のような説がある。

  • 『日本書紀』の一書でヤマタノオロチ退治が行われたとする備中国とする説
  • 大国主がスサノオのいる根の国へ行く前に「木の国」へ行っていること、子のイソタケルが祀られているとしていることなどから紀伊国熊野)とする説
  • 『日本書紀』一書第4のまず新羅の曽尸茂梨に天降ってから出雲の鳥上峯に来たとの記述から、新羅の神とする説

しかし、基本的には『記紀』、風土記をそれぞれ眺めると出雲との結びつきが強い神といえる。出雲国(現;島根県)東部の奥出雲町にはスサノオが降臨したといわれる鳥髪峰(現;船通山)、それに隣接する安来市はスサノオが地名をつけたという風土記の記述もあり、これらの地域が古代よりたたら製鉄が盛んであったこともあいまって、オロチ退治は製鉄集団を統治したとの見方も強い。また比較神話学的にみると、怪物を倒して鉄や剣を手に入れる神話は国家樹立の比喩であるとする見方もある。スサノオをアマテラスの弟という重要な神とされている理由についても諸説ある。

後に、仏教における祇園精舎の守護神である牛頭天王習合した。これは、どちらも災疫をもたらす神だからである。

主祭神としている神社

旧官国幣社および別表神社

島根県松江市にある熊野大社では祭神の「伊邪那伎日真名子 加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命(いざなぎのひまなこ かぶろぎくまのおおかみ くしみけぬのみこと)」をスサノオの別名としている。

和歌山県田辺市にある熊野本宮大社の祭神である家都美御子大神はスサノオのことともされる。

八坂神社と廣峯神社はともに祇園社の総本社を名乗っている。

全国に分布する神社

祇園信仰津島信仰氷川信仰などに基づくものが多い。これらの神社は、祇園社や天王社を名乗ったものが明治の神仏分離の際に現在の名前になったものが多い。

スサノオをモチーフにした作品

  • 音楽
    • 瑞恵 (Mizue) - 出雲神話より「スサノオ」(出雲地方の神楽とオーケストラのコラボレーション)

注釈

  1. ^ ヒッタイトイルルヤンカシュ古代ギリシアテューポーンは類似した神話である。
  2. ^ ソシモリは「ソウル」のことで、朝鮮語で「都」の意とする説がある。他にも以下に挙げたほか多数の説がある。
    *「ソ(牛)シ(の)モリ(頭)」の意で、韓国の牛頭山のこと。これがスサノオが牛頭天王と習合した理由の一つであるとする。この説により
    江原神社が建てられた。古代朝鮮半島には日本の衛星国があったとも言われている。
    • 「ソシ(高い柱)モリ(頂上)」の意
      ※ソウルの語源については諸説ある。また、
      古代朝鮮語は充分に復元されていないことに注意。
  3. ^ 意宇郡母里郷の条には「所造天下大神、大穴持命、越八口平賜而」とあり、この部分を大国主命のヤマタノオロチ退治と解釈する説もある。

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サンスクリット


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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サンスクリット
संस्कृत saṃskṛta
話される国アジア
地域インド南アジア東南アジアの諸国
話者数6106人 (1981 census). 第二言語話者:19万4433人 (1961 census)
話者数の順位100位以下
言語系統*インド・ヨーロッパ語族
*
サテム語派
*
インド・イラン語派
  *
インド・アーリア語
   *サンスクリット
公的地位
公用語インド
統制機関
言語コード
ISO 639-1sa
ISO 639-2san
ISO 639-3-
SILSKT
Devimahatmya

サンスクリット(Sanskrit, : संस्कृत saṃskṛta)は古代中世に、インド亜大陸東南アジアにおいて公用語として用いられていた言語。現在のインドでは、憲法で認知された22の公用語の一つ。古典言語であるため、母語、日常語としての話者はほとんどいないが、宗教的な面から見ると、ヒンドゥー教仏教シーク教ジャイナ教の礼拝用言語であり、その権威は現在も大きい。

日本では、一般には言語であることを明示してサンスクリット語と呼ばれる。また、古くは梵語(ぼんご。ブラフマンの言葉)とも呼ばれた。なお、日本における仏教関連の辞典や書物では頭文字をとって skt などと略称される。歴史 [編集]

インド・ヨーロッパ語族(印欧語族)・インド・イラン(アーリア)語派に属し、狭義には紀元前5世紀から紀元前4世紀パーニニがその文法を規定し、その学統によって整備された古典サンスクリット(古典梵語)のことを指す。

広義には、リグ=ヴェーダ(最古部は紀元前1500年頃)に用いられていた言葉にまで溯り、後の時代の、仏典などが記された仏教混交サンスクリットをも含む。

そのように古典時代から広く使われて多くの文献を残しているため、サンスクリットは、ヨーロッパで古典学術用語として栄えたラテン語ギリシア語とともに「三大古典印欧語」と称されることもある。同じインド・イラン(アーリア)語派に属する古典語であるアヴェスター語とは非常に類似している。

釈迦の時代など日常の生活においてインド各地の地方口語(プラークリットと呼ばれる。パーリ語など)が一般に用いられるようになって以降も、サンスクリットは逆に公用語として普及し、宗教(例:ヒンドゥー教・仏教)・学術・文学等の分野で幅広く長い期間に亘って用いられた。

サンスクリットはプラークリットと共に近代インド亜大陸の諸言語にも大きな影響を与えた言語であり、この二つの古典語はヒンドゥスターニー語などの北インドの現代語の祖語であるのみならず、ドラヴィダ語族に属する南インド諸語に対しても借用語などを通じて多大な影響を与えた。さらには東南アジアの多くの言語や、東アジアの言語にも影響を与えた。

但し近代インドの諸言語では、特に北部インドのインド語派の言語を中心に高級語彙の供給元の言語としてサンスクリットだけでなくインドのイスラーム化と同時に導入されたアラビア語ペルシア語も広範囲で機能している。そのため純正なサンスクリット系語彙がインド語派に属する系統的に近いヒンドゥスターニー語などでは失われ、却って系統的に遠い南インドのドラヴィダ諸語の中に保存されているというねじれた事態も少なくない。

John 3 16 Sanskrit translation grantham script.gif

サンスクリットを公用語としたことがわかっている王朝

13世紀以降のイスラム王朝支配の時代(アラビア語ペルシア語の時代)からヒンドゥスターニー語(→ウルドゥー語ヒンディー語)の時代、大英帝国支配による英語の時代を経てその地位は相当に低下するが、実は今でも知識階級において習得する人も多く、学問や宗教の場で現代まで生き続けている。

発音と文法 [編集]

サンスクリットの表記には時代・地域によって多様な文字が使用された。例えば日本では伝統的に悉曇文字(シッダマートリカー文字の一種。いわゆる「梵字」)が使われてきたし、南インドではグランタ文字による筆記が、その使用者は少なくなったものの現在も伝えられている。

ここでは現在最も一般的なデーヴァナーガリー文字を用いることとする。

母音
अ 無 aआ ा aaइ ि iई ी iiउ ु uऊ ू uuऋ ृ Rॠ ॄ RR
ऌ ॢ Lॡ ॣ LLए े eऐ ै aiओ ो oऔ ौ au無 ं -M無 ः -H

  • 表内の左側が母音字(子音が伴わない)、右側が母音記号(子音に付属、M・Hは子音もしくは母音に付属)とする。

子音
無声・無気無声・帯気有声・無気有声・帯気鼻音
軟口蓋音क kaख khaग gaघ ghaङ Ga
硬口蓋音च caछ chaज jaझ jhaञ Ja
反舌音ट Taठ Thaड Daढ Dhaण Na
歯音त taथ thaद daध dhaन na
舌音प paफ phaब baभ bhaम ma
半母音य yaर raल laव va
歯擦音श zaष Saस sa
気音ह ha

文法 [編集]

名詞男性、女性、中性に分かれ、単数、両数(双数、dual)、複数の区別とに応じて曲用する。格は主格呼格(よびかけ)、対格具格(…によって)、為格(…の為に)、奪格(…から)、属格(…の、に属する)、処格(…で、において)の八つある。つまり、一つの名詞は24通りの曲用を考えうる。

曲用は規則的なものに限っても性・語幹の末尾によって多くの場合に分かれ、複雑である。

動詞活用は、動詞の種類によって伝統的に10種に分けられている。注記すべきこととして、能動態受動態の他に、反射態という、行為者自身のために行われることを表すが存在する。これはギリシア語中動態に相当する。また、アオリスト相も存在する。

著名な文学・哲学・宗教文献

梵語 - 仏教での伝播、日本での一般認識

仏教では最初、ヴェーダ文献の聖性を否定し、より民衆に近い水準の言葉で文献が書かれたため、サンスクリットが使われることはなかったが、大体紀元の前後を境にして徐々にサンスクリットが取り入れられ、仏教の各国への伝播とともに、サンスクリットも東アジアの多くの国々へ伝えられた。

日本は中国経由で、仏教、仏典とともにサンスクリットにまつわる知識や単語などを取り入れてきた。その時期は非常に古く、すくなくとも真言宗の開祖空海まではさかのぼれる。

実際に、仏教用語の多くはサンスクリット由来であり、例えば(""、"盂蘭盆"、"卒塔婆"、"南無阿弥陀仏"など無数にある)、"檀那(旦那)"など日常語化しているものもある。

また、経典のうち陀羅尼(だらに、ダーラニー)、真言マントラ)は漢訳されず、サンスクリットを音写した漢字で表記され、サンスクリット音のまま直接読誦される。陀羅尼は現代日本のいくつかの文学作品にも登場する(泉鏡花「高野聖」など)。

卒塔婆や護符などに描かれる梵字は、サンスクリットに由来する文字である。(ただし、一般的なデーヴァナーガリーとは多少異なる悉曇(しったん、シッダーム)文字に由来している。)

日本語五十音図の配列は、日本語のほうが子音の種類がずっと少ないという点を除けば、サンスクリットの伝統的な音韻表の配列にそっくり倣って作られたものである。

印欧語族としてのサンスクリット

サンスクリットはインド・ヨーロッパ語族(印欧語族)に属する言語である。ギリシア語ラテン語ペルシャ語や、英語を含む現代ヨーロッパの多くの言語と同じ起源をもち、語彙や文法の面でさまざまな共通点をもつ。

1786年、イギリスの東洋学者ウイリアム・ジョーンズが、そうした共通性や“同源”の可能性について指摘した事から、言語の系統関係について研究する学問「比較言語学」が始まった、と言われる。 初期の印欧比較言語学は、とくにギリシア語、ラテン語、サンスクリットの三者を綿密に比較することから最初のステップを踏み出したが、それ以来、サンスクリットのもつ膨大な量の文献資料は非常に大きな役割を果たしてきた。

映画音楽とサンスクリット

母音の響きが良いという理由で映画音楽でコーラスを投入する際に使用されるケースが有る。


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ヲシテ文献

ヲシテ文献は、ヲシテで記述された五七調長歌体の古文書である。ヲシテ文献のことが「ヲシテ」と表現されることもある。文字あるいは言語としての「ヲシテ」は、ヲシテを参照のこと。

現存する文書としては、前編を大物主のクシミカタマ命が後編を大神神社初代神主のオオタタネコ命が記したとされる『ホツマツタヱ』、前編をアマノコヤネ命が後編を伊勢神宮初代の神臣(クニナツ)オオカシマ命が記したとされる『ミカサフミ』、アマテルカミ(記紀にいう天照大神)が編纂して占いに用いたと伝えられている『フトマニ』などが発見されている。

これらの成立時期は不詳であるが、少なくとも江戸時代中期)にまで遡ることが可能である。歴史学日本語学等の学界においては、戦前から清原貞雄らにより後世の偽書であるとされ、近年も日本史学の分野では武光誠、日本語学の分野では飯間浩明らにより江戸時代神道家によって作成された偽書であるとされている。また、ヲシテ神代文字のひとつとみなす研究者からは古史古伝のひとつと同一視されている。しかし、漢字が渡来する以前に日本で通用していた文字と文献であって、後世の偽造とされる神代文字古史古伝とは全く異なるとの主張もある。文献全体の包括的な史料批判を試行する動きはあるが、まだなされていない。

ヲシテ文献はいずれも、江戸時代中期にはすでに存在していた。例えば、江戸時代に奈良の西大寺の末寺の僧侶溥泉(ふせん)によって書かれた『朝日神紀』『春日山紀』、京都の天道宮の神主小笠原通当による『神代巻秀真政伝』などに、ヲシテで記された『ホツマツタヱ』『ミカサフミ』が引用されている。また、『和字考』『神字日文伝』などにヲシテの文字が記録されている[1][2]。しかしながら、それ以前に継続して利用されてきた事を直接示す証拠は発見されていない。

12世紀初頭に成立した『類聚名義抄』などにヲシテに関する記述が認められると理解して、ヲシテ文献は少なくとも平安時代以前に遡るとし、真書であると考える熱心な信奉者も少なからずいる。江戸時代には、和仁估安聡小笠原通当等が真書であると主張した。

近代的な文献学の手法に基づいた研究が始まったのは、ホツマツタヱが再発見された1966年以降である。諸写本の校合、『古事記』『日本書紀』と『ホツマツタヱ』の3書比較、『ホツマツタヱ』『ミカサフミ』『フトマニ』の総合的検証が進められつつある(参考図書を参照のこと)。

ヲシテ文献を真書であるとする研究者は、記紀よりも古い日本最古の叙事詩、歴史書であると主張している。ヲシテ文献が扱っている歴史は、記紀神代と人皇12代景行天皇(ヲシロワケ)までである。

ヲシテ文献は次の文書からなる古文書群である。

原書

成立当初に存在したと考えられる文書。文書内の記述によると、複数回に分けて編集され、最終的に完成したのは、人皇12代ヲシロワケ(景行天皇)の57年である。ヤマトタケ(記紀にいう日本武尊)が崩じたのに伴い、国政の混乱が予想された。ヤマトタケの遺言に基づき、ヲシロワケの勅令により次の3つの文書が編纂されたとされる。同一の世界観をもち、同一の文字ヲシテによって記述されている。成立当初は、布に染め付けられていたと記述されているが、原本は失われている。現存するのは、和装の和紙に墨書されたその写本とされるものだけである。

未発見。発見されたフトマニはこの一部分だと考えられる。
フトマニの最古の写本(野々村立蔵本)は明治期。但しフトマニの一部がホツマツタヱミカサフミに含まれている。また、ホツマツタヱ23アヤに、エッセンスが説かれている。
  • ホツマツタヱ(漢訳表記されて、秀真政伝紀・秀真伝・政伝記等)
全40アヤ。全アヤ発見ずみ。五七調の長歌体になる歴史書
最古の写本は、和仁估安聡写本 安永4年(1775年)以前
  • ミカサフミ(漢訳表記されて、神載山書記・三笠山紀・神嶺山伝記等)
全64アヤ。9アヤ分のみ発見。五七調の長歌体になる哲学書か
最古の写本は溥泉(ふせん)伝本で、『神嶺山伝記歳中行事紋(ミカサフミ・トシウチニナスコトノアヤ)』 宝暦15年(1764年)以前

引用文書 字形伝来文書

原書の一部が引用されている文書。

ヲシテの字形のみ引用されている文書。

神代文字捏造ブームと偽書疑惑

江戸時代に国学が隆盛し、わが国には漢字伝来以前に独自の文字を有していたとの説が広がった。その為、「神代文字(しんだいもじ・かみよもじ)」とよばれる多くの文字が創作された。

ヲシテ文献を記述している文字「ヲシテ」は、その神代文字のひとつであるとするのが学会における定説である。古筆研究者の小松茂美によると、捏造された文字であるとする根拠は次の4つである。

  1. 鎌倉時代までの古文献では、漢字の伝来以前に、わが国に文字がなかったと記されている[4]
  2. 上代特殊仮名遣におけるかな文字の区別が見られないということ。すなわち、母音の差異に基づく甲・乙両種の音の区別が消えるのは、10世紀の半ばであると考えられる。仮に神代文字が存在していたものとすれば、これら甲・乙両種の音を表す文字が当然なければならない。
  3. 神代文字は47文字または50文字で成り立つと言われているが、その数の基礎は「いろは歌」と「五十音図」に求められる。ところが「いろは歌」は9世紀はじめにつくられ、「五十音図」もその最古の例は11世紀はじめであり、年代が合わない。
  4. 字形を提示しての神代文字は、すべて江戸時代以降に成る。それも、有力なものは表音文字が音節文字で字母表としてのみ掲示され、ことばを表記した痕跡はない。

神代文字のひとつによって記述されている文書ということ等から、ヲシテ文献も偽書であるとされている。

ヲシテ文献の成立と伝承・再発見

ヲシテ文献の成立

文書内の記述によると、「原書」としたものにも先行文献(「ミソギノフミ」など)があったことが記されている。これらを基に「原書」は編纂された。アマテルカミ(記紀にいう天照大神)の崩御、アマノコヤネの逝去、そして、神代12代のウガヤフキアワセズの崩御がほぼ同時期に起こり、ヤマトウチ(記紀にいう神武東遷)が予定されたため、後世の根本資料とするために編纂され、宮中に奉納された。これが「原書」の前半部である。その後、文書内の暦で約800年後、ヤマトタケ(記紀にいう日本武尊)が崩じたのに伴い、国政の混乱が予想され、ヤマトタケの遺言に基づき、人皇12代ヲシロワケ(景行天皇)の勅令により、ヲシロワケの57年に「原書」の後半部が編纂され、宮中に奉納された。その際、前半部の校正も行われたとされる。

文書の伝承

その後、文書がどのように伝承されたのかは分っていない。ある時期までは、宮中にて「正史」として把握され管理されたと想像される。しかし、漢字や漢文の流入により、いつしか忘れ去られ、物部氏の滅亡に代表される古い豪族の衰亡、藤原氏の仏教への傾倒などによって、管理もおろそかになっていったものと思われる。生洲問答によれば、道鏡の時代にはまだヲシテ文献の原書が全巻そろっていたという。吉備真備は、天香山本記(カグノフミ)・神載山書記(ミカサフミ)・秀真政伝紀(ホツマツタヱ)を所蔵していた。しかし、道鏡により文書の改ざんが指示され、文書を守る為に大加茂臣赤坂彦が自刃し、子孫は和仁估氏を名乗り文書を隠し持って近江へ蟄居し、その後秘伝の書としたという。また、桓武天皇最澄に秀真政伝紀(ホツマツタヱ)を託し、比叡山の石室に納めたともいう。しかしながら、これらを裏付ける資料は見つかっていない。

近世における伝承

写本が近世まで秘匿された理由の推測

一般に、『日本書紀』編纂者の意図は、中国()に対する外交政策を有利にするために、日本にも皇帝に匹敵する天皇がおり、正史を漢字で記すだけの文明があると証明する必要があると考えて、漢字で記された歴史書を作ったという見方が定着している。

中国の皇帝は、天帝思想であり、天から使命を得て帝位についている。ヲシテ文献の研究者である池田満[1]、ヲシテ文献の中で当時カミヨ(上代/神代)と呼ばれた歴史について、記紀の編纂にあたり、地上でのできごとではなく天上でのできごとであることにし、日本の天皇も皇帝と同じく天帝であると潤色したのではないか、と推定している。ヲシテ文献のひとつ「ホツマツタヱ」のカミヨ(上代/神代)の記述の内、アマカミ(古代の天皇の名称)の記述以外、臣下であるトミ・オミ(臣)の記述は全く記紀に訳出されていないからである。朝廷は、当時の国字であったヲシテを捨て、漢字を国字に、漢文を公文書の公用語として採用した。そして記紀が成立し、日本書紀が正史とされ、漢字・漢文により表現する時代が長くなると、ヲシテを振り返るものもなくなり、いつしか秘伝の書とされるに至ったのではないかと推測されている。

★脚注

  1. ^ a b 池田満『ホツマツタヱを読み解く』(展望社、2001年)ISBN 9784885460838
  2. ^池田満監修、青木純雄平岡憲人著『よみがえる日本語』明治書院(国語文法の解明に拠る)ISBN 9784625634079
  3. ^ 『和仁估安聡本 ホツマツタヱ 秀真政傳記』(和仁估安聰=写) 新人物往来社 1993
  4. ^斎部広成の『古語拾遺』(808年)において「蓋聞 上古之世 未有文字 貴賤老少 口口相傳 前言往行 存而不忘」と記されており、漢字渡来以前の日本には文字が存在しなかったことが述べられている。

江戸時代中期から、検証可能な形で文書の伝承が確認されている。ひとつは、奈良の律宗の寺院で西大寺の末寺である寂照寺の住職であった尼僧溥泉の下である。溥泉は、先師よりホツマツタヱミカサフミの写本を見せられ、朝日神紀春日山紀・神明帰仏編を記し、その中でそれらを引用した。この内、春日山紀安永8年(1779年)に出版された。溥泉の蔵書は、現在龍谷大学の図書館に所蔵されている。しかしながら、ヲシテ文献の写本はミカサフミの1アヤ分のみしか発見されていない。

もうひとつは、和仁估氏の末裔であると称する近江の和仁估安聡のところである。和仁估安聡は、祖父より写本を相伝し、ヲシテ文献について研究を重ねた。そして、写本の校正と漢訳を試みた。その際、比叡山の石室に納められた写本をも参照したという。また、写本を伏見宮家にも奉納したという。和仁估安聡によるホツマツタヱミカサフミの写本(いずれも漢訳付)は発見ずみである。ただし、伏見宮家にあるという写本、あるいは比叡山の写本は発見されていない。

確認されている和仁估安聡によるホツマツタヱの写本2種の内、漢訳のない写本は天保年間に京都の天道宮の神主を務めていた小笠原通当に貸し出された。小笠原通当は、溥泉春日山紀を読んで読解の方法を知り、神代巻秀真政伝をまとめて天保14年(1843年)に刊行した。その後、この写本は、子孫の小笠原長弘に継承され、小笠原長弘によって返還されたがその後原本は失われた。小笠原長弘によって写された写本および、その甥の小笠原長武によって写された写本が現存している。

小笠原長弘は、明治7年、正木昇之助と共にホツマツタヱの一部を抜粋し、宮中に奉呈しようと試みた。この写本は、現在「奉呈本」とよばれている。その後、小笠原長武によって完写本が内閣文庫に収められた。小笠原長武は、ホツマツタヱ古事記日本書紀の同一内容の箇所を比較して研究することを試みている。

これらの動きはあったが、ヲシテ文献は世間に知られることもなく埋もれていた。

写本再発見の経緯

写本の再発見は、「現代用語の基礎知識」の初代編集長をしていた松本善之助が「本当の日本とは何なのだろうか?」との疑問に取り付かれたことから始まった。昭和41年8月に東京・神田の古本屋でみつけたのが、後に「奉呈本」(現在、池田満所蔵)とよばれる写本だった。

「奉呈本」には3アヤしか収められていなかったため、松本は全巻の捜索に取り組み、四国の宇和島の旧家小笠原家で、ホツマツタヱ全巻の写本を2つ発見(内1写本は「覆刻版ホツマツタヘ」として印影版が出版)、さらに、国立公文書館の内閣文庫にも全巻の写本が収蔵されているのを発見した。平成4年には、滋賀県高島市安曇川町の日吉神社からホツマツタヱ全巻の親写本が発見された。この写本は、『和仁估安聡本ホツマツタヱ』として印影版が出版された。これらの再発見の後、近代的な研究がはじめられるに至っている。


ヲシテ

ヲシテ(をして)は、ホツマツタヱミカサフミフトマニで用いられているやまとことばを記す日本の文字。またはその文献。なお、文献についてはヲシテ文献を参照のこと。

ヲシテは、いずれも江戸時代中期には存在したことが確認されている『ホツマツタヱ』『ミカサフミ』『フトマニ』を記述している文字である。この3文献は「ヲシテ文献」と呼ばれている。文献のことを『ヲシテ』と呼ぶこともあるが、詳しくはヲシテ文献を参照のこと。ヲシテ文献に使われている文字は同一で、文書の中では「ヲシテ」と呼ばれている。「ヲシテ」は、近世以降の経緯から「ホツマ文字」「秀真文字」「伊予文字」、「オシテ」「ヲシデ」と表記される場合もある。縄文時代から日本列島で用いられていたと一部のヲシテ文献研究者に考えられている。

日本語学や歴史学の学会では、江戸時代に創作された神代文字のひとつであるとされている[1][2]。それに対して、ヲシテ文献研究者からは「その論拠は上代特殊仮名遣による8母音説であり、根拠として成り立たない」という意見が出されている。

なお、縄文土器など、江戸時代の宝暦年間以前の遺物からヲシテの文字や文を記したものは確認されていない[2][3]考古学上の比定地特定の参考資料としてヲシテ文献を活用した場合、画期的な発見がなされるとヲシテ肯定者からは期待されている[3]

また、の文様[4]神社護符・神、研究者である小笠原家の戒名などに使われ、古来の日本の意匠としても馴染み深い意匠として使用されているという主張もある。

神代文字疑惑と8母音説

上代の日本語には8つの母音があったとされる[要出典]。ヲシテは5母音であることから、他の神代文字と同様に漢字伝来以前の存在を否定されている[要出典]。詳しくは神代文字を参照。

ヲシテ肯定者は、8母音説そのものを否定する。その根拠として、『日本書紀』『古事記』などの漢字文献類とヲシテ文献の比較・対比を挙げる。この比較により、ヲシテ文献の記紀に対する先行性が確認できると主張し、これをもって、漢字文献類よりも古代にさかのぼる文献が発見されたことを意味し、漢字文献類を基にした8母音説は空論であると主張する[5]

ヲシテの構成

小笠原長武写本によるホツマ文字の標準字形

「ヲシテ」とは、「教える(をしへる)」の語幹「をし (WO SHI)」に手段や為し行く意味の「て (TE)」が合わさった言葉である[6]。後世の時代での「押しで」(押し手)の意味ではない。ヲシテ時代[7]における「教える」の言葉は「をし」とワ行になっている。ヲシテ時代[7]での「押す」の言葉は「おす」とア行の「お」である[8][9]

ヲシテ基本48文字

子音をあらわす部分(相図象[8])と、母音をあらわす部分(態図象[8])とを組み合わせた構成である。基本は母音5(アイウエオ)×子音10(アカハナマタラサヤワ)の48文字である(ワ行は「ワ」「ン」「ヲ」3音韻の特殊行)。

ヲシテは、表音文字であると同時に表意文字である[8][3]。相図象は、それぞれの子音に対応した意味をイメージで表している。態図象は、母音に対応した意味をイメージで表している。母音・子音の組み合わせは、相図象の意味と態図象の意味の組み合わせになる。また、複数の文字が連続すると、それぞれの音が連続するだけでなく、相図象・態図象も連続して、より複雑な意味を表現することができる[8]

かな文字は、母音・子音に文字を分解できない。また、表意文字ではない。ハングルは、母音・子音に分解できるが、ハングルの文字のパーツのイメージを組み合わせて意味が合成されるわけではなく、表意文字ではない。漢字は、表音文字であって表意文字であるが、文字の全てのパーツが音を表すわけではなく、また、母音と子音のパーツに分けることもできない[8]

また、かな文字もハングルも漢字も、縦書きでも横書きでも語彙も文も成立するが、ヲシテでは縦書きでなければ語彙も文も成立しない。ヲシテのイメージは縦に合成・作用するように作られており、縦に繋がる複数の文字のイメージで語彙や文を表すからである[8]

ヲシテ文献から、ヲシテ時代[7]の哲学が読み取れる。すなわち、5母音は、ウツホ、カセ、ホ、ミツ、ハニに分類され、それぞれ下図の意味を持つとされる。

意味に関してはヲシテ文献にその記述があり、解釈は研究者によって見解が異なる[8][3]。以下は池田満による解釈[10]

名称ウツホカセミツハニ
意匠
解説気体、大空のように目に見えないもの、始まっていないこと温度の低いエネルギー、風のように太陽の熱で空気が動くこと、始まったこと熱いエネルギー、炎のようにエネルギーが生み出されていること、動いていること液体、水のように様々に変化すること、影響を及ぼすこと、変化したこと固体、大地のように安定した状態になったこと、成熟したこと

現代語翻訳する時の注意点として特に注意すべき事で、ヲシテ研究の第一人者・池田満が提唱している概念としての解説によると、「ハニ」は固体を意味しているため、漢字の「埴」(どろどろの状態の泥)に当てはめて翻訳する事は、大きな誤訳になるという。また、「ウツホ」は気体を意味しており、現代語彙の「空」とは概念が大きく異なっている。この他の母音の意味についても、現代語彙の「風」「火」「水」とは大きな相違が認められる、としている[8]

この他に、ヲシテ、すなわち文字の形を文献内で説明するという、珍しい特徴をヲシテ文献は有している[11][12]

変体ヲシテ

モトアケ(小笠原長武写本)。
成立当初のものと思われるヲシテの異体字がある。下部の漢字は伝承中に加えられた解説。

ヲシテには基本形以外に特殊な表現に用いられる字形のバリエーションがあり、変体ヲシテ(特殊ヲシテ文字)と呼ばれる。濁音に関するもの、数詞に関するもの、複数の相または態の図像を組み合わせたもの、渦型のものなどである。それぞれ形に対応した意味を表している。

変体ヲシテはヲシテ時代[7]から存在し、また漢字時代[13]になってから付加されてきたものもある。例えば、外二点の濁点での濁音表記は、漢字時代[13]になってからの付加物である。

モトアケ(フトマニ図)[3]によると、幾つかの文字で異体字が確認される。

フォント

字体をコンピュータで使用できるフォントとして整理されたものがいくつかある。しかしながら、Unicode上にコード領域は確保されていない。

池田満が30年以上の歳月をかけて、諸写本のヲシテ文字形とヲシテ哲学を元に、縄文時代の文字形へ遡及したもの。パソコンで使用できるようにOpenTypeフォントにまとめられ、無料で頒布されている。商業利用には「日本ヲシテ研究所」の許可が必要。
小笠原長弘写本をもとにフォント化したもの。無料で頒布されている。
小笠原通当著の「神代巻秀真伝」をもとにフォント化したもの。TRON上にコード領域が確保されている。フォントは無料で頒布されている。利用には超漢字の購入が必要。
文献を元にオリジナルデザインされたフォント。フリーで配布されている。

参考リンク

脚注

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  1. ^山田孝雄『所謂神代文字の論』藝林 第4巻(1958)
  2. ^ a b ホツマツタヱ#神代文字捏造ブームと偽書疑惑
  3. ^ a b c d e 鳥居礼ホツマツタエ入門(株式会社 東興書院)初版 1989年(平成元年)3月3日 ISBN 4924808040
  4. ^吾郷清彦『日本建国史 全訳ホツマツタヱ 』國書刊行会(株)新國民社 伊勢一宮椿大神社東京事務所 初版・昭和55年2月11日 1980/02
  5. ^ 池田満『ホツマツタヱを読み解く』(展望社、2001年)ISBN 9784885460838
  6. ^ *シテを参照。
  7. ^ a b c d 漢字導入以前(ヲシテ研究者が主張する時代区分)
  8. ^ a b c d e f g h i 池田満監修、青木純雄平岡憲人著『よみがえる日本語』明治書院(国語文法の解明に拠る)ISBN 9784625634079
  9. ^松本善之助監修、池田満編著『定本ホツマツタヱ』展望社(『日本書紀』『古事記』との原文対比比較の研究結果)ISBN 9784885460869
  10. ^ 意匠の是非についてはノートで議論中
  11. ^ 鳥居礼 完訳秀真伝 八幡書店 ISBN 4893502336 上巻118ページ
  12. ^ほつまつたゑ解読ガイド 17アヤ・かんかかみやたのなのあやタノオシテ ミヒカリマルノ ウチニヰル
  13. ^ a b *漢字導入以後(ヲシテ研究者・池田満が提唱する時代区分)

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モヘンジョ・ダロとカッパドキア

モヘンジョ・ダロ…恐らく一度は耳にした事があると思われる、インダス文明の中心地。今日ではパキスタンのシンド地方にあたる。この遺跡は存在そのものがオーパーツといっても過言ではないほど完璧すぎる都市計画の上に成り立っているのだ。

モヘンジョ・ダロの遺跡は7層からなっており古い時代から順に積み上げられているのだが、上の層は下の完全なコピーである。つまりこの都市はインダス平原に出現した時点で完璧な都市計画に沿って建設されているのだ。これは常識では理解しがたい事で、発掘にあたった考古学者のジョン・マーシャルは「まるでさらに数千年も前の誰も知らない社会から伝えられたもののようだ」といった。彼は原始社会からこの都市を作れる文明を築くには数千年かかる、といっているのである。

実際その都市の作りは古代のものとは到底思えない。都市は綿密な計画によって碁盤の目状に建設されており、ダストシュート、水洗便所に下水道やマンホールまで完備している。…フランスのベルサイユ宮殿につい最近までトイレがなかったことから考えてもその先駆性はみてとれる。その技術も驚嘆に値する、当時他の文明で使われていた原始的な日干しレンガとは違い、モヘンジョ・ダロの都市の住宅材には高い技術の窯焼きレンガを石膏モルタルで固定した後アスファルトで覆い、さらにレンガを重ねて耐水構造にするという高度な技術を使用していた。

先史学者の間で「世界で最も謎に満ちた古代都市」と呼ばれるこの都市の大きな謎の一つが一体どの民族がこの文明を築いたのか、ということである。西欧と同根のインド・ヨーロッパ語族に属するアーリア人ではない。今もなお謎に包まれているのだ。

このモヘンジョ・ダロは600年間の繁栄を謳歌した後に突然に滅び去っているのだが…それについて二、三の興味深い出土品を紹介したい。これまでこのモヘンジョ・ダロで発掘されている46体の遺体がいずれも突発的な“何か”に襲われ、突然死したような状態のままで埋まっていたというのだ。遺体の状態から病死ではなく、外傷がある遺体がわずか二体である事から戦争とも考えられない。それにこの遺体から強い放射能が検出されているという。

http://www.saturn.dti.ne.jp/~kamei/mmrr/o-parts/kappadokia.htm

…周囲5キロのモヘンジョ・ダロ遺跡の中に現地人が「ガラスになった町」と呼ばれる区画がある。ここから採取した石のサンプルを分析したところ「1400~1500℃以上の高熱」で過熱され、「非常に短時間」の作用で急速冷却された事がわかった。この加熱原因は火山活動ではない事が既に専門家によって証明されている。

「ガラスになった町」で発見された、左上の画像はレンガが急激な高熱によって泡状になったもので、下の画像はねじれてガラス状になった壷の破片である。

…核爆発によって砂などがとけ、その爆風で上空高くまで舞い上げられ、再び落下中に急激に冷やされる事でガラス状になることはよく知られている。


トルコ、アナトリア高原中部にあるカッパドキア地方の遺跡。荒れ果てた台地に広がるこの地域には無数の洞窟居住区が広がりさらにその地下深くには8層にわたる巨大な地下都市が発見された。地下150メートルに達する通気孔、井戸、炊事場、汚水処理の溝などを持つこのような都市は現在わかっているものだけでも30箇所におよび、計10万人収容可能だという。

このような外界から隔離された町を作る必要が一体どこにあったんだろうか?

モヘンジョ・ダロと同じくこのカッパドキアにも高熱によって破壊された、と思われる証拠が存在する。アナトリア高原の一角、カッパドキアの古代遺跡「チャタル・ヒューク」は、略奪や虐殺があった形跡がないにもかかわらず壁などに高熱破壊の形跡を残したまま突如として都市が捨てられているのである。

その突然消失した年代もぴたりモヘンジョ・ダロと一致している

はるか昔の同じ時代に近くの都市が同じに高熱破壊の跡を残して消失している…それは一体何を意味しているんだろうか?

カタカムナ文明


縄文時代 以前、旧石器時代 末期に存在したとされる。極めて高度な科学 技術や独自の哲学 体系を持っていたことがカタカムナ文献 から推測されるが、現在においてこの文明の存在を示す建造物や遺物は、これ以外には見つかっていない。

日本で初めてカタカムナ文明の存在を唱えたのは楢崎皐月 (ならさき・こうげつ)である。皐月の述懐によれば、皐月は兵庫県 六甲山 系の金鳥山 中での調査中に父が「カタカムナ神社宮司 」であったと名乗る平十字(ひらとうじ)という猟師と出会い、その神社の御神体 である巻物を見せてもらったという。

そこに書かれていたのは丸と直線で作られた幾何学的な文字であった。

これが貴重な文献であると直感した皐月は、平十字に書写を願い出た。

平十字は快諾し、皐月は研究用に持っていた大学ノート にその文字を全て写し取ったという。その文章量は一日で写し終わるようなものではなく、それから20日間、皐月のところへ巻物を手に平十字が毎日通ったという。

皐月はそれまで度々実家に葉書 を送って安否を知らせていたが、このときは一ヶ月間葉書をよこさなかったと皐月の娘は述懐している。

後に皐月は五年をかけてこの文書(通称「カタカムナ文献」)の解読に成功。その内容が自然科学 的な実用書であった事を突き止めた。

この文字はそれが祀られていたとされる場所の名から「カタカムナ文字」と呼ばれ、その文字を使用していた文明として「カタカムナ文明」が提唱されたのである。

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カタカムナ文字

カタカムナ文字とは、架空の文明「カタカムナ文明 」において使用されていたとされる文字。正しくは「化美津文字」(かみつもじ)という。

カタカムナ文献 はこの文字で記述されている。

別名八鏡文字(はっきょうもじ)。

★特徴★

  • いわゆる神代文字 であるが、他の神代文字に草書体 のような曲線形が多いのに対し、カタカムナ文字は幾何学的な円と直線からのみ成り立っている。
  • 一般的な神代文字が右から左へ縦書きされるのに対し、カタカムナ文字は左から右へ渦巻状に記され、中央から読み進める。このため複雑な文章は書けず、カタカムナ文献は全て簡潔な歌で表されている。
  • 濁点や半濁点、小さいァやッなどの文字は存在しない。
  • なお、渦巻きの中央にはそれぞれ「ヤタノカカミ」「フトマニ」「ミクマリ」と呼ばれる図章が記されている。
  • 二文字あるいは三文字が重なり合って一文字の新しい字形を作る。

★リンク★

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エメラルド・タブレット

エメラルド・タブレット( : Emerald Tablet, Emerald Table, : Tabula Smaragdina)は、錬金術 の基本思想(あるいは奥義)が記された板のこと。エメラルド板、エメラルド碑文とも。

伝説によると、この碑文はヘルメス 自身がエメラルド の板に刻んだもので、ギザの大ピラミッド の内部にあったヘルメス・トリスメギストス の墓から、アブラハム の妻サラ あるいはテュアナのアポロニオス によって発見されたものであるという。あるいは、洞窟の中でエメラルドの板に彫りこまれたのをアレクサンダー大王 が発見したともいう。

12世紀にアラビア語 からラテン語 に翻訳されて中世ヨーロッパにもたらされた。最初期のラテン語訳には、セビリャのフアンによって翻訳された偽アリストテレスの『秘中の秘』(1140年頃)に含まれるものや、サンタリャのウゴによるものがある。17世紀のイエズス会士 アタナシウス・キルヒャー による訳が広く知られている。パラケルスス は、シュポンハイムの僧院長ヨハネス・トリテミウス が父ヴィルヘルムに贈ったエメラルド・タブレット(診療室に貼ってあった)を見て育ったという。1828年にエジプトテーベ の墳墓から発見されたライデン・パピルスには、ギリシャ語のエメラルド・タブレットが含まれていた[1]

これに記されたうちで最も有名な言葉は、錬金術の基本原理である「下のものは上のもののごとく、上のものは下のもののごとし」であろう。これは大宇宙と小宇宙の相似ないし照応について述べたものである。

アメリカ合衆国ミュリエル・ドリール が1939年、1948年に編集出版した著作[2] によると、1925年にメキシコユカタン半島ピラミッド ので12枚のエメラルド色のタブレットを発見して写しとり、翻訳後にタブレットをピラミッドにもどしたという。これはオリジナルのエメラルド・タブレットであり、著者はアトランティス 人トート(紀元前5万年から紀元前3万6000年の約1万6000年間古代エジプト を支配し大ピラミッド を作ったという)で、彼が5万歳のとき(ヘルメス・トリスメギストスの2回目の転生 であるという)著したという。タブレットIに『われ、アトランティス人トートは、諸神秘の精通者、諸記録の看守者、力ある王、正魔術師にして代々代々生き続けるものなるが、今やアメンティーのホールに去り行かんとするにあたり、後世の手引きとせんため、偉大なるアトランティスの強大なる智恵の記録を書きとどめんとす』と記載されているとされ、このエメラルド・タブレットはアトランティスの巨大なる智慧 の記録であるとされている。なお、通常のエメラルド・タブレットはヘルメス・トリスメギストス3回目の転生時のもので、劣るものだという。

この説を疑問視する声は多い。日本の作家、上坂晨はその著作[3] の中で、エジプト旅行中にアラビア人から購入したエメラルド・タブレット・パピルスについて述べている。これは写真撮影の後にユダヤ系アメリカ人に翻訳を依頼したところ、抄訳のみ帰ってきたという。

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アレウト族

アレウト族 (Aleut自身の名称:Unangax) は、アラスカカムチャツカ の間にあるアリューシャン列島先住民族 である。 アリュートとも呼ばれる。

狩猟武器 の作成、ボート の組み立て、織物 はアレウトの伝統的工芸の一つである。 19世紀 の職人は木製のハンティング帽 で知られ、その帽子はカラフルなデザインを特色とし、アシカ震毛羽毛象牙 などが付けられる。 アレウトの女性はアザラシ の腸から、パーカー を作り、また何人かはライ麦ビーチグラス を編んで籠を作り上げる。

アレウトの祖先は氷河期 に北東アジアから渡ってきたとされる。 17世紀 までに主にアザラシラッコ 漁で約25,000人が暮らし、大いに栄えた。 しかしロシア人 の進出により海洋資源が枯渇し、また、彼らの持ち込んだ疾病によってその数は十分の一以下に激減し、1910年 の調査ではアレウトの数は1,491人であった。 彼らは島々の洞窟内に数多くのミイラを残している。ミイラとされた人がどのような人かはわかっていないがごく一部の人のみがミイラとされていることから特別な人だけがミイラとされたと考えられる。

アリューシャン列島(アリューシャンれっとう、英語 : Aleutian Islands; 「アレウト の島々」の意)は、北太平洋 に弧状に連なり、アメリカアラスカ半島 からロシアカムチャツカ半島 にかけて約1930kmに渡って延びる列島 。大部分がアラスカ州 に属しているが、西端のコマンドルスキー諸島 はロシアに属し、環太平洋造山帯 の一部を構成する。

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元出雲?(三穂津姫(ぬながわ姫?)関連)

御祭神
出雲大神宮は京都府亀岡市の北東部に位置し、大国主命オオクニヌシノミコト)と后神である三穂津姫命ミホツヒメノミコト)を奉斎し(明治の制による)、特にこの二柱を合わせて出雲大神、出雲大神宮(日本書紀)、出雲神社などと称へ奉ります。

古事記や日本書紀に見られるように、大国主命は因幡の素兎で知られる慈愛に満ちた神様で、当宮末社に祀られる少那毘古名命スクナヒコナノミコト)と共に国土経営に尽力なされました。
その後、皇孫に国譲りの後、幽世(カクリヨ)を統治すべく、現在の島根県にある出雲大社に鎮座される事となります。

『丹波国風土記』によれば、「奈良朝のはじめ元明天皇和銅年中、大国主命御一柱のみを島根の杵築の地に遷す。すなわち今の出雲大社これなり。」と記します。
よって当宮に古来より元出雲の信仰があります。
当宮は大国主命とその后神、三穂津姫命御二柱の御神格を併せて主祭神と称え祀り、丹波國に御鎮座なされています。(他に天津彦根命・天夷鳥命を祀るという説もあります)。

殊に三穂津姫命は天祖高皇産霊神の娘神で、大国主命国譲りの砌、天祖の命により后神となられました。
天地結びの神、即ち縁結びの由緒は叉ここに発するもので、俗称元出雲の所以であります。

日本建国は国譲りの神事に拠るところですが、丹波国は恰も出雲大和両勢力の接点にあり、此処に国譲りの所由に依り祀られたのが当宮です。

古来大平和の御神意に拠り、国と国人総ての結びの大神を祀るとして上下の尊崇極めて篤く、崇神天皇再興の後、社伝によれば元明天皇和銅二(709)年に初めて社殿を造営。

現社殿は鎌倉末期の建立にして(旧国宝・現重要文化財)それ以前は御神体山の御陰山を奉斎し、古来より今尚禁足の地であります。
又御陰山は元々国常立尊のお鎮まりになられる聖地と伝えられています。

祭神

現在は大国主命三穂津姫尊(みほつひめのみこと)を主祭神とし、天津彦根命天夷鳥命を配祀するとしている。大国主命は別名 三穂津彦大神・御蔭大神としている。三穂津姫尊は高産霊尊の子で、大国主の国譲りの際に大国主の后となったと伝えている。

当社の祭神については、天津彦根命・天夷鳥命・三穂津姫命の三柱とする説や、元々は三穂津姫尊一柱のみであるという説もある。

大国主命については、出雲国の出雲大社(杵築大社)から勧請したとされるが、逆に出雲大社の方が当社より勧請を受けたとする説もあり、「元出雲」との通称がある。当社の由緒書きには、『丹波国風土記』に「元明天皇和銅年中、大国主命御一柱のみを島根の杵築の地に遷す」との記述がある[3]

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滋賀で縄文草創期の最古級土偶 3例目、女性かたどる

doguu  共同通信)

 滋賀県東近江市永源寺相谷町の「相谷熊原遺跡」で、女性をかたどったとみられる約1万3千年前(縄文時代草創期)の国内最古級の土偶が見つかり、県文化財保護協会が29日、発表した。縄文草創期としては、三重県松阪市の粥見井尻遺跡で出土した2点に次ぎ3例目。同協会は「出現期の土偶の在り方を探る上で貴重な史料」としている。竪穴建物跡も5棟見つかった。土偶は建物跡から出てきた。

*いや~~。丸移しでもうしわけないのですが、ちょいと、感激です。

滋賀県ってとこも、きになるし、材質はなんだろう?

粘土質にもみえるんだけど、

それより、首に当たる部分の穴ですね。

笛?あるいは、下まで穴があいてるのか?

紐のようなものを入れて、つるした?

顔部分をすげかえ出来るようにしてあるとも考えられるし・・。

すわりが良い様だから、たとえば、線香たてのようなもの?

花をいけたとか、正木、榊のようなものを

清めにいれた?

で、亡くなった方の墳墓からであるなら、

妻のかわり?というか、妻まで黄泉の国につれていかないように、

一種、結界とかのために、榊とか?こういうものでもいれたか?

などなど、考えてみるだけですが・・・クリップしておきます。

出雲大社復元模型

ファイル:Izumooyashiro11.JPG

太古の復元模型

ファイル:Izumooyashiro13.JPG

現本殿模型

ファイル:Izumooyashiro08.JPG

ハプスブルク家滅亡の原因

ついに解明されたハプスブルク家滅亡の原因

を、歴齧参考文献として、とってきた。

画像は削除したが、

このことから、いろいろ書きたいこともあるのだけど、

ちょっと、まだ、まとまってないので、保存させてもらっている。

いずれ、また。

テクノロジーの進化によって解明されたツタンカーメン王の血筋

 今年2月、古代エジプト史の大きな謎の1つが明らかになり、世間を騒がせました。エジプト考古最高評議会のザヒ・ハワス博士の研究チームが、ツタンカーメン王の死因とその父親が解明されたと発表したのです。

 その報告によると、ツタンカーメン王のミイラをDNA鑑定して詳しく調べた結果、死因は骨折に起因するマラリア感染であり、またツタンカーメンは第18王朝のファラオ・アクエンアテン王とその姉妹の間の息子であることがわかりました。さらにツタンカーメンは元々病弱でさまざまな疾患を抱えており、それは近親婚により、免疫システムが遺伝的に弱っていたためだと判明。またツタンカーメンと共に発見された彼の子供2人のミイラにも、遺伝的疾患があったことが明らかになっています。

 ツタンカーメン王が兄妹婚の子供だったということは世界に衝撃を与えましたが、古代エジプト王朝において、王族が兄妹など近親者と結婚することは決して珍しいことではありませんでした。また古代エジプト王朝だけでなく、中世からヨーロッパ全体を支配した貴族ハプスブルク家、近現代の金融財閥ロスチャイルド家まで、上流階級の家系は近親者との結婚が多いとされています。

 王族、貴族、財閥という上流階級の人々は、なぜ近親婚を選ぶのでしょうか。また科学的証明ができない時代ならいざ知らず、近現代においても近親婚のリスクを見込んでまで、近親者を結婚相手として選ぶ場合があるのはなぜなのでしょうか。“支配者階級”の血筋の謎に迫ります。

古代エジプトのファラオは実の娘と結婚することもできた

 古代エジプト時代の王家では、兄と妹など近親者と結婚するのが当たり前とされ、逆にそれが奨励されていました。特に第18王朝(紀元前1570年~紀元前1293年頃)はそれが顕著で、兄妹間はもちろんのこと、父と娘、祖父と孫娘の結婚などもありました。

 ツタンカーメン王の正妃アンケセナーメンも、アクエンアテン王とその正妃ネフェルティティの間の娘です。またアンケセナーメンは一時期、父親であるアクエンアテン王の妃だったこともあります。つまり、前述した研究で明らかになったようにツタンカーメン王は兄妹婚で生まれ、さらに自身も父親の元妃である実の姉と結婚するという、現代では考えられない家系図となっているのです。

 なぜ古代エジプト時代のファラオたちには近親婚が普通だったのか。

 これは、ファラオは神の末裔で神格化された存在であり、一般庶民と血を交えることはあり得なかったからだと考えられています。そのため親族である王家の者か、他国の王族しか結婚相手になり得なかったのです。アンケセナーメンはツタンカーメン王の死後、ヒッタイトに再婚相手となる王子を送って欲しいと書簡を書いたことがわかっています。ヒッタイトの王子は結局エジプトに来ることはなく、アンケセナーメンは祖父ほど年齢が離れた宰相アイと再婚することになるのですが。

 度々繰り返された近親婚の結果、第18王朝アマルナ時代(アクエンアテン王の統治時代)の王家の人々には、遺伝病と見られるさまざまな身体的疾患が現れています。

 アマルナ時代の王族は、壁画で奇妙に長く伸びた頭蓋骨、男性でも女性的な丸みを帯びた独特の身体的特徴で描かれることで有名ですが、これは遺伝病のためとされています。古代エジプトの人々にどの程度遺伝病の知識があったのかは不明ですが、明らかに王族の人々は近親婚に起因する免疫不全などにより、身体を蝕まれていたのです。

スペイン・ハプスブルク家の断絶に見る、近親婚の結末

 近親婚で滅んだ一族として有名なのは、スペインのハプスブルク家もその1つです。スペインはハプスブルク王朝(1516~1700)の下で、世界の一大帝国として大きな繁栄を遂げました。しかし、王家では叔父と姪、いとこ同士など血縁者間での結婚が一般的で、この近親交配が、繁栄を極めた王朝の滅亡の大きな原因だったとされます。

 昨年4月にスペインのサンチアゴ・デ・コンポステラ大学が発表した研究論文「The Role of Inbreeding in the Extinction of a European Royal Dynasty」によると、スペイン・ハプスブルク家の最後の王、カルロス2世(1661~1700)の死因は遺伝性疾患という、長年唱えられてきた仮説が裏付けられました。

 カルロス2世は、身体的障害・知的障害があったことで知られ、1700年に39歳で没しました。生涯で2度結婚していますが、カルロス2世は性的にも不能だったとされ、子供を成すことができず、王位を継承させることができませんでした。カルロス2世の死去によって、フランスのブルボン家へ王位継承権がわたり、フェリペ5世が即位しています。これまでカルロス2世の死は近親婚による遺伝的疾患のためと仮説が立てられてきたものの、その遺伝的証拠が明示されたことはありませんでした。

 同研究では、スペイン・ハプスブルク家を16世代前まで遡り、3千人以上の人々の近親交配係数(近親者との交配レベルがわかる係数)を計算して、調査しました。その結果、スペイン・ハプスブルク家の近親交配係数は、王朝の創設者であるフェリペ1世の時代には0.025だったものが、最後のカルロス2世の頃には0.254まで飛躍的に増加していることが判明。同王朝での近親婚に加え、それ以前の複数の先祖の近親婚が重なった結果、交配係数が通常ではあり得ない増加を示し、これがカルロス2世の遺伝性疾患を招いたことを裏付けました。

 またカルロス2世以外でも、スペインのハプスブルク家では幼児の死亡率が異常に高く、10歳以上まで生き残ることができる子供が少なかったこともわかりました。研究によると、1527年から1661年までの間にハプスブルク家には34人の子供がいたものの、そのうち10人(29.4%)は1歳までに死亡、17人(50.0%)は10歳までに死亡しています。これは当時の一般的な乳幼児死亡率より明らかに高い数字です。

婚姻で領土を広げるハプスブルク家の政策

 前回の記事で取り上げたスペイン・ハプスブルク家の滅亡(古代エジプトからロスチャイルド家まで、“王家の血筋”の法則とは?【1】)は、近親婚の影響が最もわかりやすく、強く出た例です。スペインのハプスブルク家は11組の結婚のうち、実に9組が3等身以内の結婚でした。

 しかしスペインだけではなく、オーストラリア・ハプスブルク家(ハプスブルク=ロートリンゲン家)も多くの近親婚を繰り返しています。また「戦争は他家に任せておけ。幸いなオーストリアよ、汝は結婚せよ」という言葉の通り、ハプスブルク家全体は他国との婚姻政策によって領土を広げてきた歴史があり、同じく政略的に近親者との結婚を奨励してきたという背景があります。

 これほど婚姻政策が有名な一族でなくとも、中世のヨーロッパ貴族・王族にとって、近親婚はごく当たり前の習慣でした。王族、貴族が近親婚を選ぶ理由としては、次ページのような要因が考えられます。

王族・貴族が近親婚を選ぶ理由

【1】神格化した王の権威を守るため
 古代エジプトのように、王は神の子孫であると考える王朝の場合です。神格化された存在であるファラオが一般庶民と血を交えることはあり得ないことであり、その権威を守るために、結婚相手は自国の王族か他国の王族に限られました。また古代エジプト王家では実の娘や姉妹と結婚することは普通のことだったため、文化的抵抗感がなかったということもあります。

【2】財産の拡散を防ぐため
 上流階級においては、これが近親婚を選ぶ最大の理由です。爵位や土地などの財産は結婚によって相続されていくため、一族の外に財産を流失させないために、いとこ同士などの近親婚が好まれました。ハプスブルク家など多くのヨーロッパ貴族や王族はもちろん、20世紀前までの金融財閥ロスチャイルド家など、近現代においてもこの理由で同族間から結婚相手を選ぶ名門一族は多いです。

【3】一族の血の純潔を守るため
 名家において財産の拡散を防ぐという理由と同じくらい重視されるのが、「一族の純潔を守る」という理由です。上流階級の人々は基本的に同じ階級の人しか結婚対象としませんが、上流階級の人数自体が少ない訳ですから、当然対象者は限られてきてしまいます。一族の結束を強めることは、一族の財産を守り維持していくことにも直結するため、財産の流出を防ぐという意味でも、この動機は重要だと言えます。


 現代では近親婚は禁じられている国が多いですが、一部の国では現在でも上記の理由から近親婚を選ぶ一族も存在します。また近親婚ではなくても、日本でも元華族の家系、旧財閥の家系など、いわゆる名家では、現代でも同ランクの人と婚姻関係にある例が多いことは事実です。

 上流階級・富裕層にとって、同ランクの人と結婚することは、互いの一族の地位と財産を守り、受け継いでいくための重要な手段。それは古代エジプト時代や中世ヨーロッパから変わらない、上流階級の権力維持のための知恵であり、血の繋がりこそが、彼らの富の基盤となってきたのです。

『君が代』に関する異説

この節に挙げた諸説は現在までのところ学術的に賛同を得られていない。

『君が代』九州王朝起源説

九州王朝説 を唱えた古田武彦 は『魏志倭人伝 』において、倭国 内の国の一つ・伊都国 があったと推定される糸島半島 や近隣の博多湾 一帯のフィールド調査から次のような事実を発見している

君が代<だい>は 千代に八千代に さざれいしの いわおとなりてこけのむすまで
あれはや あれこそは 我君のみふねかや うつろうがせ身骸<みがい>に命<いのち> 千歳<せんざい>という
花こそ 咲いたる 沖の御津<おんづ>の汐早にはえたらむ釣尾<つるお>にくわざらむ 鯛は沖のむれんだいほや

志賀の浜 長きを見れば 幾世経らなむ 香椎路に向いたるあの吹上の浜 千代に八千代まで
今宵夜半につき給う 御船こそ たが御船ありけるよ あれはや あれこそは 阿曇の君のめし給う 御船になりけるよ
いるかよ いるか 汐早のいるか 磯良<いそら>が崎に 鯛釣るおきな

山誉め祭, 神楽歌

上記の事から、『君が代』の誕生地は、糸島・博多湾岸であり『君が代』に歌われる「君」とは天皇家ではなく山誉め祭神楽歌にある「安曇の君」(阿曇磯良 ?)もしくは別名「筑紫の君 」(九州王朝 の君主)と推定。

  • 古今和歌集 の君が代については本来「君が代は」ではなく特定の君主に対して詩を詠んだ「我が君は」の形が原型と考えられるが、古今和歌集醍醐天皇 の勅命によって編まれた『勅撰和歌集 』であり天皇家から見ると「安曇の君」は朝敵にあたるため後に有名な『平家物語 』(巻七、“忠度都落ち”)の場合のように“朝敵”となった平忠度の名を伏せて“読人しらず”として勅撰集(『千載和歌集 』)に収録した「故郷花(ふるさとのはな)」のように紀貫之 は敢えてこれを隠し、「題知らず」「読人知らず」の形で掲載した。
  • 糸島博多湾 一帯 は古くは海岸線が深く内陸に入り込んでおり、元来『君が代』とは「千代」→「八千代(=千代の複数形=千代一帯)」→「細石神社」→「井原、岩羅」と古くは海岸近くの各所・村々を訪ねて糸島半島の「桜谷神社」に祀られている「苔牟須売神」へ「我が君」の長寿の祈願をする際の道中双六のような、当時の長寿祈願の遍路(四国遍路のような)の道筋のようなものを詠った民間信仰に根づいた詩ではないかと考えられる。

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[韓国人の遺伝子の特徴について]

http://blog.livedoor.jp/nakasugi_h/

[韓国人の遺伝子の特徴について]
米人類学者Cavalii-Sforzaの遺伝子勾配データによれば、 朝鮮人は世界でも類を見ないほど均一なDNA塩基配列の持ち主であり、 これは過去において大きな Genetic Drift(少数の人間が近親相姦を重ねて今の人口動態を形成)か 、あるいは近親相姦を日常的に繰り返す文化の持ち主だった事を表します。
(文献:The Great Human Diasporas: The History of Diversity and Evolution. 1995..
Luigi Luca Cavalii-Sforza and Francesco Cavalli-Sforza. Addison Wesley Publ. ISBN 0-201-44231-0)

韓国では、昔から若くて綺麗な娘達は中国に献上されていたので、女性が足りず近親相姦が繰り返されてきた。 遺伝子レベルで見ても「父と娘」「母と息子」が結ばれないと出来ない遺伝子が大多数見つかっている。 韓国人が食糞したり、国民の70パーセントに精神障害(火病)が見られるのもわかります。

[umiushiakai←ドイツで人類のゲノム解析する大学教授の話 ]
朝鮮民族は近親相姦の物と思われるゲノム上の痕跡(修正不能)が多すぎて、他の民族では考えられない異常な近親相姦を、 民族として繰り返してたと思われるあまりにショッキングで常軌を逸した内容なので、そのゲノムの発表は出来ない。
また、朝鮮人男性の40%に発症すると言われる統合失調症も、それが原因である可能性が大きい。異常な民族と言わざるを得ない。

【 旧日本陸軍の朝鮮兵に対する注意書き】    
一、いつ、いかなる時でも唐辛子粉を食事に際し好きなだけ使わすこと。
一、絶対に頭、体を叩いてはいけない。怨みを持って復讐する気質があり、脱走の原因となる。
一、清潔な食事運搬用バケツと雑巾バケツの区別をよく教えること。
一、危険な状況下では銃を投げ捨てて哀号!と泣き出す習癖があるから、日本兵二名で 一名の朝鮮兵を入れて行動せよ。

【米軍による韓国兵の扱いマニュアル 】
1.韓国人には強気で押せ。抵抗する場合は大声で命令しろ。     
2.命令を聞かない場合は身体で解らせろ。
3.同じことをくり返す場合、犬のように何回でも同じ様に叱れ。こちらが上と言うことを身体で解らせろ。
4.理由は聞くな。どうせ大したことは言っていない。
5.身体で解らせた場合、根に持つ場合があるので、後で身辺には気をつけて行動しろ。 但し、徹底的に解らせる迄、手を抜いてはいけない。
6.相手を3才児と思い、信用したり頼りにはするな。重要な仕事は任せるな。

【 旧ソ連共産党による朝鮮の扱い方 】
1、頭痛の種になるだけだから関わるな     
2、手段を選ばぬキチガイ揃いだから関わるな
3、関わるとこっちが痛い目に遭うから関わるな   
4、関わってきたらウォッカ飲んで忘れようぜ

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