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さて・・感慨・・/おおげさ?

そうだなあ・・・。
今、又アマロで先行きのストーリ練り直し中で
停滞しているんだけど・・・。

一時期・・・
本当書く気になれないという時期があって、
知ってらっしゃる方はまあ、いいとして。。
知らない方・・・。
リンク参照の白蛇抄やSOⅡシリーズ、他短編や書き下ろし・・・。

自分で言うのもなんだけど、
出来具合は棚上げして
カナリの数量とかなりの文字数を費やした
作品群がある。

特に白蛇抄。SOⅡシリーズ他数編に置いては
1年位の間に・・かきあげていて、
集中的には半年位・・で、8割がたを書いていた。
ざっと計算しても、200万文字以上。

原稿用紙換算5000枚近くを半年位で書き込んでしまうという・・・
つまり、一月800枚。
1日平均にすると繰り上げすぎるかもしれないが30枚。
当然。毎日書いていたわけじゃないから
多い日には100~150枚なんて快挙/と、いってよかろう?

その上、相方AKIRAへ下書きの作品群を書き送り/これが、例えば「空に架かる橋」や「小枝」や「小夜」「新之助シリーズ」「白砂に落つ」「永沢祐稀作品」などなど他、今書いているもののプロトであるが

これらを足せば1日の平均文字数は50枚になってもおかしくない文筆作業であった。

よくも、そこまで、文字が出てくると思うほど
文章が湧き出て/あくまでも、出来はとわない(笑)/憂生の一本打ち打法/カナリ早い/でも、文字打ち込みが間に合わず、とにかく、変換や更正は後回しと間違った時(例えばこんな風に)のまま、打ち込んで、一息つくまでに
20ページは書き込み・・・振り返って読んだらサッパリ、判らない変換が掛かっていて
大笑いしたりしたもんだけど・・・・。

そんな状況の時にはとにかく
書くのが楽しくて
沸いてくるものをドンドン、文字に移し変え
たまに構想を練り直して・・・。

悪童丸の構想は新風舎からも伏線の張り方が
見事だといわれたものであるけど、
なんにせよ、白蛇抄・・それら、全てが
大きな伏線構造で、今になってみれば、
我ながら、さして、深く考えもせず
こういう構造がよく出来上がってきたと思う。

それくらい・・・
のりにのっていたともいえようが
まひるちゃんに言ったように
熱そのものの状況の自分だったと思う。

それが・・・。
そうだなあ・・・・。
空に架かる橋を描き終えるくらい前から
自分の中から湧き上がるものが
どんどん、減ってゆくのが判り
100文字書くのもやっと・・・。

こんな状況がつづき・・・。

やがて・・・。

「熱のこもらない状態は読み手の反応を意識しだす」の言葉どおり
旧作品、書き上げた作品の発表場所
読み手の拡大をはかり始める憂生が居た。

されど・・・。

やはり・・・

書くことからは離れられず
出口を求める迷子の如く
暗中模索の中
アダルト執筆にも取り組んだ。

結果、
膨大な
集客

その集客と裏腹に沈んでゆく気持ち。

面白半分・・煽り本意を求めるかのような
読者層・・・にみえて・・・。

それもこれも、
自分の気持ちがなえているせいでしかないのだが、

打ちひしがれる反面、
ヒットが伸びない・・・とおもしろくない。

いったい、自分が何のために書いているのか・・・。

本末転倒の憐れの末・・・・

条件の見合うブログに作品を保管して
ユックリ、ワードにかこうとしながら・・・。

結句、
ミイラ取り・・。
ヒット状況が良すぎて・・・さらに
集客にいそしみ・・・。

まあ、それが、やっと、
シーサーに出会え、憂生の中がおちついてきた。

正直な思いを言えばブログ人が一番いい。
だが、ブログ人はカテゴリーの順番羅列が
こちらの思うように行かず、今の所、
シーサーを1にしている。

シーサーにであってから、/正確には、見直してから/
やっと、お登勢に本腰が入り
なんとか、
書くのが楽しい憂生をぽつぽつ取り戻せてきている。

TPOとはいうが、
環境を整えることも大事。

と、思いなおしている憂生である

暦、歴々と・・・

銀狼の続きをうちこもうと思いつつ、ぼんやり、考えていた。

澄明・・干支はなにになるのか?

ってね。

すぐうかんできたのは、

「みぃの年に役」って、セリフだった。

と、いうことは、計算すると・・戌年?

干支占いというか・・・、戌のイメージというか・・・。

これは、妙に符号する部分がある。

いや、こじつけかもしれないが・・・。

まず、犬のイメージ。(人間に)尽くす。救助犬やサポート犬、盲導犬ほか、

一生懸命、人を助けようとする。

そして、裏切らないというか、犬は三日飼ったら一生恩を忘れないといわれるように、

仁義に篤い

もちろん、良い面だけしかとりたててないが、このあたりのイメージが

澄明ににつかわしく思える。

もちろん、何年生まれだから、と、いう設定は無い。

みぃの年に19の役。これだけがヒントで、しかない。

年齢自体は、かのととの関係がわかったときに、

かのとの年齢から、澄明の年がわかる。

こうなってくると、政勝の年齢や不知火の年齢もどこかにかいてあったし、

一穂の年齢もあったな。

干支うらないぐらいはできそうだな。

そういえば、干支でおもいだしたけど、12支の他にもっと、わけるのが、

5かん(漢字失念)ようは、甲乙丙壬辛だったかな?

これを12支とくみあわせて、甲の子年から始まる60種類の・・号?がある。

甲子園球場の甲子はその号の年につくられたせいもあり、

いの一番の幸先良しの号なので、そう名づけられたときく。

そして、この60種類の号が一巡りすると、還暦。

暦が還り、最初の甲子に成る。

だから、60も祝いを還暦というそうだけど・・・。

それよりも、ゴオウの寅という言葉を聴く。

よく耳にするのが、丙午(ひのえうま)であるけど、これも、60の号のうちのひとつ。

ところが、五黄の寅?

みずのえ(壬)みずのと(癸)

きのえ (甲)きのと(乙)

かのえ(庚)かのと(辛)

ひのえ(丙)ひのと(丁)

つちのえ(戊)つちのと(己)

まあ、もうちょっと、調べてみないと判らないゴオウの寅なんだけど、5かんとよんだものも、

上にかいたように、くわしくは、10個あるようで、

え・・というのは、兄

と・・というのは、弟

と、いう意味あいで、同属ということになるのだろう。

60の号に使用されているのは、兄のほうと成るのだろう。

壬申の乱というのも、みずのえさるの年の乱とうことになる。

また、これらは5つの資質・・風水だろうな。

みずのえ(壬)みずのと(癸)・・・水?

きのえ (甲)きのと(乙)・・・気・風

かのえ(庚)かのと(辛)・・・??

ひのえ(丙)ひのと(丁)・・・火?

つちのえ(戊)つちのと(己)・・土?

まあ、それがまた旧暦になると、日にちもそれでわけてる。

で、旧暦ってのが、凄いと思うんだけど、

旧暦ってのは、何千年もの統計を土台にして月を基準に考えている。

たとえば、ある年の旧暦をみると、7月が2回ある・・。

西洋暦ではありえないことだけど・・。

ところが、実際、其の年の夏は5月当初から暑く、9月末まで夏日和が続いた。

西暦でみると、納得できない状態が旧暦でみると、すでに書かれている。

その年によって、冬が一月長かったりする。

一月が28日だから、どこかで、帳尻をあわせなきゃならなくなると、

地球の1年が365日とも知らない人がよくもかんがえついて、かつ

季節は確かに旧暦の通りになっている。

太陰暦・・太陽暦の違いでしかないが、月がかたるものは、

もっと、深い気がする。

やはり、引力との関係もあるんだろうけど、

植物をかんがえても、夜中の月の光っていうのも、いろいろな作用があるようで、

植物も月の周期により、一月を知っているのかもしれない。

なにかの実験でサボテンに電極をさして、信号を読み取るという実験を試みた人が居たと思うけど、月の光との関係もわかるだろうか?

そういえば、月の差配をうける花も多いよね?

月下美人とか、月見草とか・・・。/ちゃう?


武者震い?あるいは、ウォークライ

連載を4本・・まあ、主流は2本ですが、抱え、自分でも、感心します。
構想まで、含めると、その数はまだまだ、増えるのですが、自分の中でよく、ごっちゃに成らないものだと思うのですが・・・。
実はごっちゃに成っています。
もちろん、ストーリーや設定は大丈夫なのですが、書く気持ちの問題です。
はやる・・というのですかね。
流行のはやるじゃなくて、
逸る・・。
あわてて、続きをかこうとしすぎるというのか、どれから書こうかという、気持ちの混雑にやられるのです。
悪いことに、どうも、深夜にならないと、書く気に成らない。
当然、いくつも、書けない。
おまけにセキュリテイの設定で深夜になると、ボードが重くなり、打ち込みにくい。
頭の中であれこれ、設定をかんがえているのですが実際、文字を打ち込みだすと
違うものが出てくる。
画面に向かうという事で、一種、集中力があがるのでしょうね。
ここはのがしちゃいけないってな部分が(自分の中では)ぴしぴしわいてくるので、構想はやはり構想。
やっぱり、実際に書き込むに限ると思わされます。
まあ、そんなんで、今日も新之助かこうか、銀狼かこうか、白い朝に、気を持たせたままだから、自分でも気になって、教授、その事、どういう風に話すのかなって(他人事みたいにいいますが/笑)
そして、心裏追従のむつかしさみたいなものを考えてしまって、筆力及ばないだろうとしり込みしてしまう部分があるのも事実です。
あ、余談ですが、心理追従、あえて、心裏追従です。打ち込み間違いではありません。

またしても、無題。

心に残る者よ。古の扉を開き、我の悔恨を背負う者よ。

誰が為に夢は朽ちゆくか。

遥かなる時の流れは一夜の夢の如く儚く過ぎ行き、今、正に真究の砂上の我を飲み込まんとす。

君なくば、我あらず。遠き時にむかいて、吾の泪渇かず。

乙女よ。そのかいなを今も、吾は欲す。

うてなに落ち行く汐の水は今も凄烈に君を想う、その証し。

乙女よ。そのかいなで吾を今一度、抱いてくれまいか。


本来、詩は苦手です。言葉を研ぎ澄まさなければならないので、一歩間違えたら陳腐なものになるし。

懲りすぎると何の事かサッパリ判らなくなります。

いつだったか、投稿詩壇に「この髪の丁度このあたり。貴方に出会った頃」とか言う内容の元は俵万智のものだったと思う物が選考、掲載されていました。

昔、他の詩壇においても有名な詩人の作品に同じ事があった時、憂生はこの選者が詩人でありながら、宮沢賢治の有名な詩をそのまま投稿している事に気がつかず選考、掲載している事に随分腹をたてたものです。

ところが今回俵万智のこの作品を選考している選者に対して腹が立たないのです。

それどころか、昔の出来事についても、人の作品を投稿した本人は「この人の選者としての目がどこまでのものか」を試したのではないかと思えてきたのです。

あるいは逆に俵万智の実力がどれくらいのものか、同じ文壇に立つものにどれだけ師事されているか。

是を諮ってみたのかもしれないと思った時、何の予備知識もない状態で見てもやっぱり『良し』となるものは良しなんだなとも思えました。あるいは選者も是を知っていて、わざと知らん顔でいい物を見抜けるとばかりに掲載して見せたのか?

何だか、一筋縄ではいかない駆け引きがいっぱいあるようなきがしてきました。


へ~~~い。すびばしぇ~~~ん!!

実は昨日、物書きへの100の質問、第3弾・・
その質問に70問めくらいまで、
回答を書き入れていたんだ。

ところが・・・。

縦書き・横書きの小説についての質問がはいってきた。

それも、物書きへの質問というより
読み手への質問という位置にたっていて、
横書きへの、云々である。

これは・・・・。

いくつか、感慨が沸く。

人の物/小説をほとんど・・最近は全然よまない憂生である。

そんな憂生であるから、なおさら
読みにくくないか、どうか、という質問よりも
書きにくくないかとたずねて欲しい所では在る。

縦書きだった憂生が横書きに変わるネットの構造にあたふたし、縦書きの癖で::を・・・・の代わりにつかっていたので、
ネットにあげた、作品はすべて、・・・・が:::にかわるという・・・
えらいこっちゃの状態になり、
これを修正した/まだ、いくらか、のこっているが・・・。
膨大な量だった。

ソレほどまでにして横書きでよんでもらおうと
ネット世界の常識にあわせているわけだけど・・・。

中には縦書きじゃないから読みにくいと
ネットにきておいて、
おっしゃる人がいる。

縦書きのソフトもあるには在る。
だが、
現状この横書き環境になれたネット住人の多くにとっては
むしろ、縦書きのほうが読みにくくなってきているのでは、と、考える。

では、個人的に縦書きで読みたい人間はどうなる?
と、いう事になる。

これについて、
憂生の作品にたいしての
何人かの実践?がある。

ワードにコピーして
設定を縦書きにすればいい。

読みたいという思いを量るなら、
あえて、そうだという。

だから、縦書きがよいか
横書きがよいかなどを
詮議するなど、ナンセンス!!

物書きならば
縦書きにかえてまで、
読みたいと思ってもらえるものをかかねばなるまい?

この部分にスポットを当てずに
表面上の読みやすさを云々してみたところで、
核心とは、遠ざかるばかりである。

と、いうことで、
ワードへのコピーやダウンロードについて・・・。
個人で楽しむのであれば、作者に了解を得ずに
自分のワードにロードしても
著作権侵害にはならない。

言い換えれば、読みたくて
ロードするわけだから、
物書きの本望であろう・・・。

憂生も実際、何人からか、
コピーする。
ロムに落とす。
と、許可を求められたが、
之は、一切、憂生には必要が無い。

個人的に使用するのであれば、
いつでも、どうぞ。

そして、プリントアウトしてまで読んでくれた人達。

自分で好みの形体にして・・・。
縦書きやら文字数やら文字形式やら、行数やら・・。
こういうものを嗜好にあわせて
読みやすくしてまで読む努力?をしてくれている人を知っている憂生にとって、

縦書きがよいか、横書きがよいか、どうか?

そんな質問は
鼻くそ~~~~~~だ~~~い!!

***と、まあ、こういうような回答が出てくるような100の質問につきあってられない。
と、かなりの所までこたえていたのであるが、
破棄してしまった*****

無駄な時間を費やしてるなら
続きを書け?

久しぶりに、hakujyaを覗いてみた。
長編も多いというのに、トップページの設定を50話にしている。
開かない。
それをじっと待って読んでくれる人が居るのか、はたまた、検索でヒットした部分だけにジャンプしてくれるのかは定かではない。
トップには、クリック数と訪問者数を分けて表示している。
その差がとうとう、1万をこえたようだ。
一人の人があちこちのページに飛んでくれているとか、一日のうちに再訪問というとこだろうか?
書きかけのアマロが相変わらずトップにある。
少しづつ、書いたものを下に付け足してはいるが更新が滞ってる上、これも、かなりの長編になっている、下のほんの一部の続きを探すのもなかなか、面倒な作業だろう。

憂生自体を言えば、連載ものは好きじゃない。
(書くほうでなく、読むほうとして)
オムニバスならいざ知らず、中途半端にとぎれる読み方が好きじゃない。
それでも、連載にはまらなかったかといえば、そうでもない。
いや、連載でありながらはまったものは
逆にひどくはまったものといえる。
過去・・・。
連載ではまったものは、やっぱ、
「最終兵器・彼女」だったわけで・・・。
この話の番外編が「空に架かる橋」を連載させたトリガーそのものだったわけだけど・・・。
まじにはまったものの影響力というか、
余波というものはもの凄いと思う。
本来、人のものからの影響を受けないために、ほとんど本は読まない。
その人間をひきつけたもの、その共振作用はすさまじいエネルギーがあったと思う。
今、本という活字はほとんど疎遠であるが、漫画はぽつぽつ読む。
最近・・ちょっと、なにかをえぐられた気がしているのが「蟲師」
なにをえぐられたか、今は追従したくないので、ほったらかしにしている。
またぞろ、連載中がストックされるだけにも思えるから。
いずれにしろ・・・まだ、憂生の中で醗酵してないというか、
つかみきれる形をなしてないというか・・・。
まさに「蟲」のように、憂生の中でうごめいていて、憂生はまだ蟲師の勘がつかめていない。


創作談義のつもり・・・

憂生の作品の書き方に

多大なる影響をあたえたのは、

第一に司馬遼太郎だとおもう。


とっくの昔に死んでしまった人たちの行動の裏に

どんな考えやどんな思いがあったか。

それが本当かどうかもわかりはしないわけだけど

ああ、そういう思いなのか。

ああ、そういう考えだったんだ。

と、思えてしまう。


それをまねてるというか、

そういう風にかきたいとおもうようになった。


もちろん、そんな文才はない。


だから、説明するのにくどくどしい心理描写とか、

別の視点からみた心理とか・・。


愛してると告げたほうの告げずに置けなかった心理をかけば、

当然、告げられたほうの心理も書く。

みたいな、別視点。


次にでてくるのが、形が変わった場合はどうなるか。

で、対比させる。


嫌いと告げたほうの告げずに置けなかった心理をかけば、

当然、告げられたほうの心理も書く。

みたいな、別視点。


立ち居地を変換させてとらえる。


たとえば、宮本武蔵をかいたら、

佐々木小次郎を書く。


まあ、そんな風にどんどんひろがっていってしまうもんで

SO2二次創作も発表している(20作)以外にも10編くらいはかいた。


そして、次に影響をうけたのが、山本周五郎だとおもう。


これは作風というか・・・。


憂生の作品の登場人物は、基本、登場人物は「大事なことにきがついていく」

周五郎のテーマと根底といっていいか。

真摯にいきる人間像とそれをみつめる周五郎のいわゆる人情。


憂生の登場人物への人情?は、

たとえ、間違った方向にあゆんでいっても気が付く。気付かせる。

気が付いた事実が自分をうちのめしたとしても

気がつける方が幸せだと思う。気がつけてこそというべきか。

そういう人情のかけかたというところか。


おおかたが、こういうパターンだと思う。



次に影響をうけたのが、倉橋留美子と大江健三郎と杉本苑子。

文体とスタイルにあこがれた。

そして、文字の韻とか、テンポとか。

よんでいて、心地よいのは、耳が読むからだとおもう。


おもしろいもので、これは、司馬遼太郎がそうだったと思うが

音読すると、非常に心地よい。

好みもあるとおもうが、司馬作品はかつかつときれあがったテンポがあって、

こむつかしい内容を頭にいれてくれる作用があった。


アマチュアでも非常に文章が上手な人がいるが、その作品を

音読すると、いまひとつ、頭にはいってこない。

文章自体はうまいのに、リズムがなく

ちぎれ、ちぎれの雲をつかむような・・。


これで、憂生はこのリズム感と文字の音を少しはきにするようになった。

ぬながわ姫から、少し抜粋


*一声うめいてにぎはやひは両手で顔をおおった。

約束を護ったとわかるとは、おおなもちがその目でみれるという意である。

その目でみれるということは、まなかにうめられているのはおおなもちの目が在る所。

すなわち、首である。*

うまくできてるかわからないけど、

るの韻がくりかえされていく。

これがテンポにつながり、たぶん、音律がよいとおもう。


いや、手前味噌か・・・/笑


ところが、説明がうまくできないと文章がくずれ、

テンポもリズムもなくなってしまう。


くどくどしく、なるだけで・・。


しょぼん・・・。



そして、表現。


これは大江だな。

彼の初期作品の独特のムード。

文章で、ムードが構築されるものなのだとしった。


杉本苑子の描写力。


司馬遼太郎がときおり、みせる、ウィットのある表現。

包帯だらけの男は、唇くらいしか元の肌をみせていない。

こんな状態だったとおもう。これを海鼠のようだ。みたいに表現するのだが、

いいえて妙。


ぐちゃぐちゃ、説明してもしきれないようなことごとを端的にきりとってしまう。


情景もうかんできて、笑えてしまうからなお頭にはいってくる。


こういうのをなんとかしたいとおもった。


蟷螂から抜粋


政勝は東の空を見あげた。

山の端に白く冴えた寒天の押し菓子のような月が見える。

それを見ると、政勝は多少ほっとした。

闇にまぎれても方向は月を頼りにできる。


寒天の押し菓子・・・をしらんと話にならんが。

ちょっと、司馬さんを倣ってみた。


あ、いいね。この表現。みたいなのも、読ませていく伝手になる。

なんとか、ものにしたく、あちこちで、試行はしてる。

成功してるかどうかはわからんが、

工夫したつもりの本人には、これいいのではないかと思えるときもある。


しかし、初期の作品だとか、最近書いた作品とか。

じゃあ、最近かいたほうが格段腕があがってるかというとそうじゃない。


単純に、のってかいてるほうが良いきがする。

持論であるが

うまくかけないときは小学生の作文でいい。(うまい子もいるけどね~~)

とにかく、書いて完成させることがさき。

上手に書くなんてのは、後からでも推敲できるわけだし(と、いいつつ推敲しない人だけど/うそつき憂生か===)

まず、完成させる。あるいは先にすすむ。

ところがのってかいてるときほど、小学生の作文でおぎなうことはなく

かんがえもしないのに、ぽんぽん、文章がとびだしてくる。

逆に考え考えかいてるほうが、うまくかけないことがおおくなり

勢いがない文章がさらにブレーキをかける。

よく一字一句にこだわってか、書いてる途中でも類義語辞典とかひく人いるけど

器用な人だとおもう。

憂生がそんなことしたら、何書こうとしてたかわすれてしまうし

書く勢いがそげてしまう。

タブン、文章もスムースにながれてない。

自分の持ってる語彙が少ないのはネックかもしれないが

瞬時に韻律やリズムにあうものを選択する。

それが、いったん、文章からはなれて辞典などしらべていたら、

韻律やリズムからも離れ、単語の意味や表現にとらわれてしまい

韻律やリズムにあわない単語を置いてしまわないのかとおもう。

多くの人は音読でもしない限り

耳で読むということを意識しないだろうけど。

でも、タイプでいうと、

文章を目で読む人と

耳でも読む人とがいるみたいだ。


むつかし、あるね/笑

ぬながわ姫をかきあげてしまおうと思っているのだが、

なにせい、毎度のことなんだろうが、
文章を読みながら少しかんがえてもらうという
書き方をしている。

計算したわけでもないし
計算したとしても
計算通りにはいくまいて。

だが、かんがえてもらうということで、
物語の中に入ってもらえるのではないのだろうかと思う。

たとえば、冒頭から
「ここでの名前があればよいでしょう」
と、いうことは?
と、疑問をもってもらえ、
すばやく、考え、答えをだし、
下にその通りの回答をみつける。

うん、やっぱそうか・・・。
ってなもんで、

あまりに瞬間的に思いがうごき
気が付かないだろうけど、
スローモーションで考えると
上にかいたような思いの経路があると思う。

いや、あることにしておいてほしい。

で、ここのところで、すこし心配になった。
歴史物であるだけに、非常にとっつきにくい。

なおかつ、考えてもらうという書き方を随所でしてる。

そのぶん、わかりにくいんじゃないだろうか?
書き手が懇切丁寧に説明してないんだから・・・。

で、ちょうど、いいところにきたのが、10代後半の従兄弟。

20代前半に近い10代後半。

ちょっとよんでくれって・・・・。

よんでもらったんだが・・・。

内容については、読み取ってくれる以上によみとってくれたといっていいだろう。

その内容に本気?でショックをうけていたから。

だが・・・・・・。

問題勃発。

と、いっていいかな。

そのショックは物語りを受け止めすぎたところから発生していたといっていい。

「アマテラスってこんな人なんだ。がっくりしてしまった・・・」
と、いうものである。

そう、こいつは、ゲームとかからのイメージでアマテラス像を
つくりあげていたわけだ。

歴史の中で最大のなぞといっていいかもしれない。

なぜ、アマテラス(大和朝廷側)が出雲大社を建立したか。
もちろん、アマテラスが建立させたというのも怪しいのだけど。

このあたりにポイントをおいているのだが、
人物像にとらわれると謎がとけなくなるわけで
謎をとくための人物設定にしている。

そこがネックになってしまったわけだな。

ましてや、アマテラスという神格化された人物を
設定といえど、悪者にみえるような書き方をしているのだから、
不敬罪に相当するかもしれない。

天皇家にかかわってくるわけだし。

だが、憂生は天皇は日本人の心のよりどころだと思っている。

そういう気持ちがあるのと、歴史の謎を憂生なりに解明しようとするのとは別問題だと思う。

また、政権を掌握するという視点でかんがえていけば、
アマテラスは別に悪者ではない。
甘い考えに流されたりするようでは、むしろ、
統治者とはいいがたく、アマテラスは秀でた人間だったと思う。
そこをまだ巧くかきとめられないというか、
従兄弟の中では、かみわけられないことなのだろう。

この情にながされるか、政治(国)を選ぶかというところで
西郷隆盛と大久保利通という存在がある。

おさななじみといっていいかと思う二人が真反対に対立していく裏に
情に厚すぎる西郷と国を思う大久保とがいる。

情にながされ国をほろぼしかねない西郷の感情論。
感情にながされては、国が滅ぶと判断した大久保。

情を切るしかなかった大久保の思いは
ああ・・でてこん・・
小雀いずくんぞ大鳥の思いをしらんや。
みたいな言葉。
燕雀いずくんぞ・・????
本当の大事の前で小事にかまけることはできない。
小雀(小事に携わる側)は大事を思う大鳥の気持ちなどはかりしることはできない。

そういう言葉で語るしかない。

だが、世の中はどちらかというと、
西郷隆盛を敬愛する。

こういう民衆?の中にうえこまれた観念をつきくずすのは、容易ではないと思う。と、いうか、反発を生じさせるだろう。

おそらく、それなりに歴史に興味がある人がどういう掘り下げ方をするか
興味半分でよんでくれてると思うのだけど、
従兄弟みたいに、自分のイメージ像にヒビがはいったととられれかねない側面があるのも事実だと思う。

過去、ありえたかもしれない沖田と土方を書いたときにも
新撰組とイメージがちがうとクレームをくれた人もいた。

まったく、拡張素子がないというか、
拡張阻止があるというか。

独自の想定というのは、想定の枠組みからして
はいる隙間がないこともあるのだと思う。

連載の力

テーマに2スレッドにわけて「小枝」をいれた。

どういう加減か、行がきれて、いささか、読みにくかったが、

久しぶりに読み直したせいもある。

読みふけってしまった。

そういえば、

この「小枝」は「空に架かる橋」とおなじくらいに、反響があった作品だった。

小枝の女心。めしいである女の心。と、出会いから別れまでの交わりのそのせつなの心。

自分でかいていて?

自分でかいてるからこそ?


引き込まれてしまった。


いまさらながら、連載の力を思い知る。


「小枝・・どうなっちゃうの?」

その思いがあってこそ、小枝が女子として開花していく場面でも、いっしょによろこんでしまう。

悲しみと皮一枚のところで、小枝が「喜ぶ」からこそ、そこにせつなさがうずたかく詰まれる。


最後の場面で、「小枝、どうなっちゃうの」?

まさかを思う読み手の不安が一挙にひっくり返される。


それも、これも、すこしづつ、時間をおいて、発表した、時間経過がいっそう、そういうものを深くしていく。

連載をはじめたのは、「空に架かる橋」がはじめてで、すでに、白蛇抄やSO2ほか、いくつかをしあげていたものを

発表し終えていた。

スランプに近い状態になっていたときに、ブログが流行しだした。

妙なHPというのが、最初の印象だったが、ここで、連載を始めた。それが、「空に架かる橋」だった。

続きがきになる。と、一日何度も訪問してくれた人。コメントをたくさん残してくれた人々。そんな人たちに支えられて作品が終わった。


それをかわきりに、以後の作品がほとんど連載になった。

今、それを一挙によむと、ある意味、連載時よりは、感動がうすいのではないだろうか。

連載は不思議な誘引力をもつ。

昨今、次から、次にわきだしてこなくなった憂生は、連載に頼るしかなくなっている。


今も本拠地にて連載を続けている。

それをリアルタイムでここにももってきたいと、過去作品、過去日記を急ピッチで上げている。

幸い此処のブログは(調べてきました/あはは)記事数無制限だったので、

いっそう、安心して・・・。


それでも、これでも、あまり急ピッチであげちゃいけないと、おさえてる憂生なのであります。


アメーバーにて・・(今はアメーバーに作品はありません)

・・・・が多いので・・・

今、踊り娘を調べてみたら
25420文字と出ました。
が、
しか~~~~~~し!!

憂生・・・。

「・・・・・」
おおいんですな。

さるブログトップで
妙なベストを掲げていて
例えば、
投稿数の多いブログ。
訪問者の多いブログ
記事数の多いブログ。
最長記事。
なんてのが、ありまして・・・。

これらは、それなりに納得するとも、
ありきたりな、ベストともいえるのですが・・・。

ふと、下方をみると、
おい!!

憂生の名前があるじゃんか!!

なになに?

文中に「!」が使われているその回数。
ご丁寧に回数が書いてあった。

!は1位をとりそこねたが、
?は堂々の1位であった。

おい!

そんなに、「?」「!」書いてるか?

って、
確認しに行くまでも無い。

現在此処の記事に置いてさえ
?と!の集合体?

つまり、語彙不足。

あるいは・・・。

絵文字にすべきところ?

だけどさ・・・。

それって、沽券に関わるじゃん。

物かいてて、
絵文字で表現する?

やじゃん!!

え?

?も!も
同意?

ふはは。

だがの。

?と!には、
深い歴史があり、
逸話がある。

誰だったっけは失念した。

ある作家が本を出版した。
地方に住む彼には、本の売り上げ状況が
つかめない。
で、編集者/友人でもあったように、記憶/
に、
「?」
と、だけ書いた手紙を送ったのである。

すると、返事が
「!」

予想外の売れ行き。
大ベストセラーだったのである。

と、まあ、どうじゃ!!

こんな話がある「?」と「!」なのだぞ。

かの文豪/かああ?/も使用した「?」
由緒ってものがある。

あん?

たいそうないいわけをするのは、
それなりのものがかけるようになってからにしろ?

あはは。

すびばせん!!


お~、またも長い(足が長いって、事じゃないっす!!)

永沢作品、挙げてる途中なんだけど、


ー本気になれるか、どうかー

この科白好きだね~~って、自分に感想のべて・・。


考えてみりゃ、同じ科白をボーマンも言ってるんだよね。


さがしたら、他でも言わせてるかもしれない。

で、いつだったか、

憂生の書く女性は「強い」って、言われたことが有る。

その日記もどこかにあるんだけど、ま、今はおいといて・・・。


逆境に負けないで、自分の愛を守り抜く。自分を通していく。


確かに、そうなんだけど、

必ずといってよいほど、

救世主?的人間が出てくる。


形はいろいろだけど、

ブローのアラン。

お登勢の大西屋に晋太。

白砂・・ではまあ、川端。

空に・・では、リック?かな

小枝も文治といえよう。

小夜も敬史くん。

いつか見た夢・・の貴子女史。

踊り子はカタリナ?


などなど・・あげたら、切りが無いんだけど

ところどころで、出てくるこういう存在が、いろんな転機を与えていく。


その中でも、よく、似たタイプがある。


貴子女史とチサト(SO2)と今回の仁美。


まあ、ボーマンもそうなんだけど、ちょっと、女性に絞る。


ずけずけと、主人公が気がついてない部分を示唆する。

でも、その本音は

「主人公の中にある真実?本気?を自覚してほしい」

みたいな所に由来してる。


どこか、先をみこして、心配する。


と、言う点では3人とも同じタイプで

なんとなく姉御肌。


優しいってのは、人のことを憂う気持ちだって、

日記に書いたことが有る。相変わらず委細は省くけど。


ちょうど、そういう感じなんだよな。


そのままじゃいけないよ。

あんた、それじゃ、もったいないよ。


そのためには時に厳しいことも言う。


だが、


そんな救世主の示唆をきっちり、掴み取るのが

主人公なんだ。


憂生は、そこが、強いと思うんだ。


こけたら立ちなはれ、ってくらいの物じゃないんだよな。


こけたことをばねにする強さが有る。


いつだったか、心理テストみたいなのがあって、

道の真ん中に石がありました。

前を歩いてる人が石に躓きました。

次は貴方が通ります。どうしますか?


いろんな回答があるわけで、

石をよける。またいでいく。自分も躓くかも。本を読みながら歩いていて、

こけてもまた、知らん顔して立ち上がって本を読みながら歩く。

気がつかないまますっとよける。


ところが、中には、その石をちゃんとどかしてから、

他の人が転ばないようにしておく。

なんて、答えもあって、

そこから、先の答えをした人の石のどかし方は、どうだろう?って、

今度は周りが判断していくんだけど、

ちゃんと、石を掘り出したら安心して穴ぼこふさいで、

石はそのまま・・・。

とか、

穴をもっと深く掘って石をきちんと埋めて地面を平らにする。


石をどかして、横に捨てに行こうとして穴ぼこに足を取られる。

石を自分の足に落とす。

道の横になげて、他の人にあててしまう。


まあ、まだ、他にも有るだろうけど、

そのたとえがなんか、ひどく、合ってるんだな。


ああ、あいつ、本当、ぴっちし、配慮する。

とか、

いいところに気がつくんだけど、なんか、抜けてる。

とか

本当優しいんだけど、ぽろっと、いらぬことを言うところ有る。

とか・・。

もちろん、はじめの答えもおおまかなところは見えるんだけど・・。


で、なにが言いたいかというと、

物語という道の中で、主人公が石に躓いたとき

その石をどうするか、って、

主人公に何を見せていくかってこと。

その時々によって違うんだけど、

石をそのままにしちゃいけないってことをみせていくんだ。


そういう示唆?をあたえる人間がでてくるから、

憂生の物語の根本が優しさだって、言われるのかもしれない、

なんて、そんなことを考えていた。


****物を書く。*****

・ある人へのメールのコピー ・・から

物を書く。
ある日、それが滞りだした一つの要因。
50歳近い女性だった。
(自分は創作において、
人の役に立ってゆければいいと思う)

この言葉に自分の作品を考え出した。

其の女性の創作は
イラストとか、そういうものだし、
下手すれば二次創作。
役にたつという意味合いがわからない。
感性を楽しませることですら
役にたつという部類に当てはめる事ができるなら、
憂生の作品のほうがよほど、人の役にたつだろう。

ただ、この時点で、憂生の書く気持がなえた。

其のときに出した結論。

自分の作品が人の役にたつ。
なんて、おこがましい。
驕りでしかない。
本来、人の役にたつとは、
たとえば、毎朝早く起きて
家族の世話をするとか。

自分に与えられた分にそって、
自分が支えられる人間を支えてゆく事が
(役にたつ)ことだ。

仮想世界においての示唆などより、
本当に役にたつということは、
社会の歯車に徹して生きてゆくこと。

それしかない。

そうなると、
憂生が作品を書くという事はどういうことか。

たんなる、自己追従と自己顕示。
こういって、かまわない。

役にたたないことをしてゆく中で、
憂生が思うことは、
(憂生のわがままです。それでも、かかせてください)
で、しかない。

だから、50歳近くの女性の
(人の役にたてればいい)
は、
驕り、驕慢といいきる。

つまり、憂生は
> みつめる強さを望んでるんじゃないの?
なぞという、誰かへの要望は無い。

書く側の真摯な思いは
書くことだけにしか、こめられない。

こういいきると、矛盾してくる部分があるが、
作品は憂生という思考の披露だろう。

どういうのだろうね。

おそらく、これは、
書く側。
読む側。

どちらの立場を重視するかということだろう。

書く側が読まれる作品を意識してゆくとき、
おそらく、
その50歳の女性の観点にたつ。
いたずら書きのおちゃ濁しのような、作品をかいて、
満足していたく無いだろう。

「誰かの目を意識してないか」
こう問われたことがここ再三あるが、
カフェ に入った時点、
もっと、其の前に
「人の役にたつような、
もっと、深い人生をかきこめない
上っ面の自分」
を、意識して、
すでに書けなくなっていた。

はっきり言う。
憂生の作品のレベルでは、
重みはかきこなせてない。

其の状態をここ1年以上つづけ、
読み手を意識しない。
御幣があるが、
役にたつ。
重みがある。
みつめる強さを望むとか、
そんなことを考えず、

自分が書くことに夢中になる。
本来の
我侭な自己追従でいいと、
思いなおしてきていた。

ところが、
作品というのは、
自分の手元からはなれたら、
思わぬ波紋を呼ぶ。

ある人間の人生に深く関わってくる。

うまくいえないな。

作品が何かの役にたてばいい。
なんて、ことは、
度外視しているのに、
または、
それは、
勝手に作品がうみだしてゆく
余波でしかないのに、

余波がたてた、
重みにこっちが、
やりかえされてるような。

まあ、今回の事件によって、
また、
いっそう、うすっぺらい作品しか書けない自分
ひいては、薄っぺらい自分を
意識させられて、書く気がにぶった。

むろん、
そのあとの、君のフォローやあきらの叱咤。
連載している以上、続きを待ってくれている人の存在。

これが憂生をまた、
かいてゆくことに引き戻してくれている。

最後にあきらからの感慨をあげておく。

「今は新作出にくいか……
いつかきっと今までのいろいろな出来事も憂生にとっては不可欠だったと思う日が来

…世に生受けて得る全ての事一つとっても無駄など無い、意味の無い事など存在しな
い。塵一つさえも」

どうだろう?

すこし、くたびれている。

まあ、一番大きい原因はこの間の女性である。

狐狸庵先生のエッセイ に、

小説を書いて、発表すると、

「私のことを勝手にかいた」

と、申し立ててくる女性がいる。

との話がある。

まあ、これににたようなものである。

「憂生が好きな相手は私かもしれない」

こうおもってくださるのは、広義において、

間違っては居ない。

ましてや、

「私には好かれるだけのものがある」

と、自分の魅力を自認している事も

たいへん、けっこうである。

だが、おしむらく、違う場合もある。

まさに「かもしれない」の「かも」でしかない。

このときに憂生は非常にこまるのである。

「私が憂生を好きよ」

は、本人の自由の範疇である。

だが、

「憂生が貴方を好き」

と、いうのは、憂生の範疇でしかない。

ところが、その憂生個人の自由部分を

たずねてくれる。

違うよといえば、

そこまで、おもいきって、人の裁量にまで、踏み込んだ勇気を踏みにじるだろう。

自尊心も傷つけるだろう。

こうなると、憂生は事実をありのままに伝える勇気をなくす。

なんだ、詰まらん奴だ、と思ってくれるのがいい。

そうすれば、めがねちがいであったと、笑ってたちさるだろう。

その後

憂生は大きい声でわめく。

「ふられちまったぜ」

と。

そうすれば、まわりから、

彼女はすくなくとも、上っ面でひかれて、

のこのこ告白しにいった、

覚悟の無い女性とは思われないだろう。

だが、どちらにせよ、

恋愛 ごとに発展させるきはないという、

憂生のスタンスはつうじてないようである。

この先も、こんな人がまだでてくるんだろうか?

狐狸庵先生。

どうだろう?


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貴女にこたえてみるが・・・。

ある日記の意味。

説明してくれといわれたんだけど・・。

チョと、困ってる。

簡単に言えば

不幸で悲惨に見えてる事に

人はよく気がついて、

怒ったり、気の毒だって言う。

こんな悲惨なことを繰り返しちゃいけない。

こんな事が在ることさえ知らないのはいけない。

たとえばそういう。

そういうけど。

この平和な日本の中で

たとえば性を軽んじる生き方。

これだって充分不幸なんだと思う。

なのに、うかうかすると、

これに気が付かない。

見た目の悲惨な物にあるいは同情し、

時に怒る事は簡単である。

でも、足元。

自分の生き方一つ。

示唆できる身近な物事には、

まるで、無関係なかおをしている。

そして、

あるいはどうにも成らぬ不幸を不幸だと哀れむ。

一見。

享楽の世界。

これほどの中の悲惨は悲惨にみえぬとて、

れきぜんとあるのではないか?

やはり、旨く伝えられない。




日記/


朝からご免。        

朝から書く話題ではないきがするのであるが、

ふと、おもいだしたので。

いつだったか、

「見た目の悲惨さに流されない」

と、こうかいたことがある。

これは在る人の掲げた

戦争中の女性への性的蹂躙問題についての憂生の結論である。

ものすごく簡単に言う。

戦争中である。

戦争自体の問題は抜きにする。

戦争中である。

当たり前である。

こういう。

性的暴行をくわえられ、

精神的屈辱を受ける。

きわめて、正常である。

こういう。

なぜか?

ひどい見解だと思うだろう?

なぜか?

ふと、今の世の中を見る。

性の結びつき。

どこまで、

セイント にしてる?

この平和な日本において。

性を軽んじてる。

どうどうと。

見た目は平和。

だけど、どうだろう?

己の性を踏みにじられる不幸一つ感じてない。

憂生はむしろ、

暴行を受けその悲惨に泣く女性のほうが

よほど正常で幸せに見える。

見た目の不幸に踊らない。

うまく、説明できないけど、こう言うことだ。

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「作品の中に*人柄*が映りこむ」

先のページの投稿者さんのコメントを再度、考え直している。

★書き手と読み手の間には人柄の一致があるか?

この質問の答えを考える前に憂生 は疑問を持つ。
書き手と読み手の人柄を知っているのか?
知らない人間のことについての一致はわからないだろう?

そこで、考え直す。

書き手が(人柄)をにじますものは、
その作品だけしかない。
読み手がなにも発信せず、ただ、読む一方だけだったら、
読み手の人柄どころか、その存在を特定することは出来ない。

と、なると、
一方的に〔人柄)を滲ますものを発信しているのは、
書き手だけになりやすい。

そこで、別の視覚。

よく聞く言葉だけど
「作品と作者は違う」
と、いう言い方。

ここのあたりを詮議するべきなのかもしれない。

その人の作品とその人に触れてみなければ
一致しているかどうかは、実にわかりにくいものである。

が、
多くの場合、やはり
「文は人也」である。

良い人柄、悪い?人柄・・・いくつかの例えをだせるんだけど、
悪い部分をたとえにだすと、完璧批判になってしまうのだけど・・。
まあ、さるブログで、
「ステータス」にこだわる人間に出会った。
いわば、物や金やブランド・・に価値を見出すというか、
逆を言えば、その人の弱みといえるだろう。

その人の書く小説の設定が
そのまま、「ステータス」にこだわる人物設定になっていた。

「物・金・・」に価値を見出さない人間にとっては、
もう、これだけで読む気にならない、ちゃちな設定になってしまうのだけど、
本人にとっては重要な要素ということになる。

その小説だけを先によんでいたら
ちょっと甘い環境設定だなあと思いながら、まだ、読んだかもしれない。
ところが、本人の「ステータス信仰」みたいなものがみえ
おまけに、「ステータス」をもつ自分をひけらかして
「ステータス」を持ってない人間に対して、優越感を感じる。
これが、まざまざと見えて
作品の設定そのままだった。

作品の主人公はこの先「もっと、大事なものにきがついていく」のだろうけど、
おそろしいことは、じつは「作品」が「作家」を「映し」ているということ。
本当に大事なことに気がつくべきは「作家自身」で、
作品の多くは作家のそういう凹みや目標が刷り込まれる。


この部分を多くの作家がどこまで意識しているのだろうと思う。

実際、憂生 も自分の作品を自分で読んで
「自分への命題」を見つける事が良くある。

この部分を判らない状態で物を書いてる人は多く居ると思う。

それは、ストーリーとしては出てきにくいもので
何らかのキャラクター設定とか、
キャラクターの心理とか、考えとかに現れやすい。

こういう部分は実は作家自身じゃないと気がつきにくいのだけど・・・

上の悪い例のように、作品に映し出される「自分」を
現実に意識していないことが多い。

これらを考えてみても
「作品の中に*人柄*が映りこむ」

この映りこんだ*人柄*で作品のレベルが決まる。
悪い例をたとえにすると、「ステータス意識」の改革が基礎部分になる程度の設定では、
作品としてのレベルは低い。
もちろん、ストーリーの問題があり、時に目を惹く部分や共鳴する部分はあるのだけど、
先のページのたとえでいうと、
「見た目の内容に目が奪われて、本質を見失う」
「作品の中の人物に同情(共感)するのは簡単だが
一歩はなれて自分に当てはめて考えてみる」
この部分で「それだけの作品」になってしまい、
作者本人にとっての「よき、バイブル」になってしまう。

こういう域を脱して
もう一歩「考えさせられる」レベルが高い作品を書く。

そのためには
人生修養や自分を知っていく事が大事。
そのためにも、憂生 自身は
自分のための作品を描いている。
「作者本人にとっての「よき、バイブル」になってしまう。」
まさにこのあたりの段階で留まっていて
この域を脱する事が出来るか、どうか・・・・。

最後まで
「バイブル」を書いているだけにおわってしまうかもしれない・・・。

・・・のさり・・・

のさり・・・という言葉。

コレは
蛙とパンパンと
チョコレート だったかな?
理周かも・・。

で、使ったんだけど・・・。

で、何で今頃?こんなことを
思い出したかのように書くかというと・・・。

のさりという言葉をしったのが・・・。
今頃の事に関連する
司馬氏の随筆?からのせいであるんだな。

広島 の原爆については
よく知られているんだと思うが、
今ひとつ、
長崎の原爆については、
もう少し印象が薄い。

と、いう内容だったと思う。

要因は色々有ると思う。

最初に原爆を落とされたのが広島。
と、いう事もあるかもしれない。

本州と九州という地形も
ニュース 的にも、
訪問してみるにしても、
知られてゆく機会が違ってきたかもしれない。

だが、一番考えられる要因が
キリスト教の地であったという事だと、
聴かされたことがある。

司馬さんの記事も確か同じようなことをかいていて、
そのときに
「のさり」と、いう言葉が使われていた。

長崎の人々は
原爆を「のさり」とうけとめたという。

敵国に原爆をおとされたのでなく、
神ののさりだったと、
受け止め、受け入れてきた部分があると・・。

のさり・・・。
辞書をひいてもでていなかった。
/辞書がぼろいのかもしれない/
文の内容から
類推してみただけで、
憂生の
翻訳 ?もあやしいが・・。

試練。運命。警告?。

いわば、ノアの箱舟のように
人間の罪を清算させる洪水の如き
事象と受け止めたという事になる。

元々、自分に罪があり、
神の意志でおきたことであるから、
長崎の人々は
自分の人生の中での試練。
あるいは、のさりと受け止めることで、
自分の信仰をふりかえった。

いわば、踏み絵のようにも思える。

こんな風に自分の中の出来事に
考えたから、
原爆投下について、異論?を唱えるのは
神への批判?になることであり、
信仰の薄さになると、
長崎の人は口を閉ざした。

コレが長崎の原爆投下の知名度が
低い?原因の一つである。

この視点がただしいか、正しくないかは、
別にして、
確かに風土により
人間感情。生活感情。というものが
違ってくる。

愛媛県・・・ぁ~ど忘れしたぞ。
その一部の地区?で
物の考え方。
生活感情。性格?などが他の地区と違うところがある。
これを手繰ってゆくと
何処だったかの殿さまが
その地方の領主にはいり、藩政の実権にぎったという事実があり、
この殿さまがもたらした
意識的文化、生活的文化が
この
土地 に色濃く根付いたせいだというのである。

又いかにも鷹揚であるが、
傾向として・・。

寒い土地では
親子の絆が優先。
暖かい 土地では
夫婦の絆が優先されるという。
/説明は省くが/

こういうこともあるので、
長崎の風土にも
キリスト教の考え方が
染みているのかもしれないと、
かんがえたりもした。

そして、
のさりという言葉を使うたびに
憂生の底では
あの平和の像がうかびあがっていた。

まず書評を掲載する。

――「白蛇抄1~14」  -文芸社審査書評よりー

人と鬼と、そして神。
多くの登場人物が絡みあいながら、少しずつ物語の道筋が付けられてゆく。
―読み手は何よりもその壮大で深遠な世界観に度肝を抜かれるだろう。
エピソードはそれぞれ個々に独立はしているものの、前章が次章に、そして、次章が前章と関連しながら、著者の描く世界の拡がりは留まる事を知らない。
番外編4編を含む全十四編の本作品は、複雑な人物相関の中で、人間の業、情愛の深さ、本当の優しさ、そうした「人間」そのものをテーマに描きだした超大作である。

 政勝を主人公とした第一編の「蟷螂」は作品全体の布石であり、続く「悪童丸」では陰陽師白河澄明の存在があきらかにされてゆく。中略。
第5編「波陀羅」までで、彼らをとりまく人と鬼、神との相関関係因縁が概ね紐解かれそれにつれて、本作品の世界全体も膨んでくるのである。
本作品は陰陽師の活躍を単純に描き出す「活劇」でもなければ、単に時代を異にしただけの「恋愛物語」でもない。
登場人物同士の心模様を非常に丁寧に描き出す事によって、男女間、友人関係、家族の中に蠢く、人間の利己心、情欲、葛藤、そして愛情や優しさを浮き彫りにした人間ドラマであり、本作品最大の魅力もこの複雑な人物相関にある。前編では、判然としなかった事が他編で初めて明らかにされる事実によって急に輪郭をもったものとなって眼前に立ち現われる。

読者はまるでミステリーの謎を解き明かされた時の快感に捕われ、ページを括ることをとめられないだろう。・・後略。

 神と人間が交わり、半妖が跋扈する世界を舞台に縺れ合った情愛と怨念の糸を解かんと陰陽師が躍動する本作品は壮大なスケールを持った世界観と具に描き出された登場人物の心の機微が読み手を圧倒する興趣に富んだ物語でした。

それぞれのエピソードを縦糸に、登場人物の想いを横糸として、個々の作品の枠組みに囚われない、作品全体をそのまま背景とした奥行きのある物語が編み上げられており、それが、読者を引き込む魅力となっていたように思われます。
人物の心の襞を追い、愛憎半ばとする相関関係を描き出した憂生様の筆力に確かな物が感じられ、審査員の大きな注目を集めました・・・・

*****
ついでに書評。昨年の話であるが・・
at 2004 05/11 16:09 編集

★8月1日であった。
新風舎に送った作品の締切日がいつか?と聞いていたから、是より早く文芸社の通知がくると思っていた。
が、それでも通常3週間の査定期間と言うから、計算上は8日位に来る事になると思っていたのに8月1日に来ると言う事は是も他作を優先しての審査と窺える。
おまけに担当者も連名になって一人増えている。
送ったのは「蛙」と「ブロー・ザ・ウインド」と沖田君の話し「壬生浪ふたり・俄狂言―恋語り―」の3作である。

評をままにかいてみたい。

● 時代設定も舞台も、それぞれ異なる3つの恋愛物語。
前回応募作の「白蛇抄」同様、やはりこれらの作品にも「憂生ワールド」と呼べる物が確固として存在している。
細かい心理描写の積み重ねによって織り成す著者の人間ドラマは、恋愛というテーマを掲げながらも、決してそこだけには留まらない。とりわけこの三作品に関しては、「人間」と云うものを真っ直ぐ見据え、人が生きるという事を誠実に問う姿勢が終始貫かれており、静かな感動に満ちている。

● まず『ブロー・ザ・ウィンド』は、「大切な人の死」を乗り越えられずに苦しむ女性の葛藤と、そんな彼女を愛し、見守る男性とが次第に心を通わせ強い絆で結ばれてゆくという、恋愛小説の王道とも呼べる物語。
文章には「青さ」が残るものの、心理描写に長けた著書らしく、精緻に主人公らの心の機微を描きとっている。
また「吹き返した風が風見鶏を再びくるくると回らせ始めるとレフイスに早くおいでよといわれているように思えてアランは足を早めた」といった一文に著者の感性の鋭さ、作家としての嗅覚のよさがきらりと光っている事も見逃せない。
おそらく是は、タイトルの「ウィンド」を意識して挿入された一文であろう。二人に「しあわせの予感」
がほんのりと感じられる表現が秀逸である。
構成的にも読みにくさは無い。
だが、やはりきにかかるのは冒頭部分である。振り返って読まなければ判断できない事が多いのだ。

● 次いで『蛙』は、かなり純文学の色の濃い短編小説。
叙事詩的な印象も受け、他の2作品とはかなり趣が異なっている。
主人公の「僕」もそうであるが、この物語においては登場人物が無機質である。
あえてそのように描き出しているのであろうが、とくにRyoukoの感情が見えてこない。
人間の「器」のような存在として描写されており、著者の他作品には見られない新鮮さが感じられる。
さらに云えば、彼女の質感と、アルファベットの「Ryouko」という表記が似つかわしく、ここにも著者のセンスが滲む。ただ、こうした表現方法の場合、主人公の「僕」の心境の推移がどこまで読者に伝わりうるかは難しい所である。「僕」の狂気めいた感情の内に潜む「真実」を見抜けなければ、読者にとっては受け入れがたい作品になってしまう可能性もあるだろう。

● 最後に『壬生浪ふたり・俄狂言「恋語り」』は、3作品の中ではもっとも著者の持ち味が発揮されている作品であるように思う。
本作品においては、土方と沖田という物語の中心人物の輪郭もかなり明確に書き分けられている。
例えば、無花果という花をモチーフに佐部里とお勝の恋を例えた土方の科白や、京の話し言葉の特徴を捉えて土方が論理を展開するくだりには、著者の練達さが窺われる。
土方の人間的な魅力をたくみに浮かび上がらせる事に成功しているといっていいだろう。
本作品中で、もう長くは生きられない沖田は心から土方を慕い、その沖田の心情を思いやる土方は苦悩する。
恋愛とは別に、こうした深い情で結ばれた男同士の関係も本作品の見所の一つだ。
ただ、設定が新撰組であると言う事をもっといかしてもいいのではないか、という欲を禁じえないのもまた、確かである。

● もちろん改善してゆくべき点はあるものの、今回の3作品は著者の力量を改めて認識させられるものであった。
著者は自分の持つ色を失わずに「世界」を描き出せる。
などなど・・・・。

簡単に抜粋して、以上、このようなことでした。

で、最終的に、審査会では沖田君を協力出版で全国出版したいと意見が一致したとのことなのですが・・・・・。

資金がありませんでした。はい!
********
で、なにがいいたいかということなんだけど・・・。
おそらく、さっしはついていらっしゃるだろう。
いろいろと、作品を書いているけれど、
物語の中の主軸というもの・・・。
つまり、憂生の思いいれと、いうことになるが・・・。
コレを的確につかんでいただくにおいて、
憂生の作品はある意味ドラマ性が高いと思う。
故に、平然と性表現もかきつらね、
場合によっては
そういう部分でのドラマにひきこまれ、
底にあるメッセージ?がうまく、象徴できてないと思う。
そういう意味では、文芸社の書評はそこそこに
憂生の思いいれに肉迫している部分があるといってもいい。
そうだなあ。
憂生が一番伝えたいことがなんであるか・・・。
この話をするにおいて、
よく、カフェ日記でも、再三名前をだしたことがある、
パレアナという少女の物語。
何かのアニメで、ポリアンナ物語という題名で
TVで放映されていた話である。
パレアナは喜び探しの名人なわけだ。
孤児だったパレアナが引き取られる先で、
どんなにステキな個室をあたえられるか、夢想する。
ところが・・・。
パレアナに与えられた部屋は屋根裏部屋。
夢ははかなくしぼむとおもいきや。
此処はステキ。だってお星様があんなに良く見える。
足の悪い老人には
「右足が悪くてよかった」
だって、両方の足が悪かったら、車椅子で動かなきゃならない。
自分の足で地面を歩ける。
よかった。良かった。
と、まあ、こんな調子なわけだ。
この事に付いて
憂生はある話を書いた。
無論、発祥は憂生ではない。
思いを切り替えてゆけば、
どんなことでも喜びを見つけることが出来る。
だが、多くの人は
喜びを見つけるための
思いの切り替え方が
判らない。
どうすればいい?
「考えなさい」
答えはこうだった。
考える?
そう、考える。
かんがえるとは、
頭でいっしょうけんめいかんがえること。
一生懸命、かんがえる。
かんがえる、
それはこう書く。
観変える。
どうすれば、観をかえることができるか・・・。
ソノ具体的なたとえがパレアナ。
パレアナは
ものの見方
視点をかえて、
価値観を変換させた。
憂生の作品の多くはここにたつ。
空に架かる橋・・・においても、
レイプでしかない。
慰安婦でしかない。
「あたし」が観をかえた。

So2シリーズという
一見不埒な物語も
観をかえてゆくというところを起点にしている。
白蛇抄に置いては、もっと、緊迫する。
因縁さえも
観をかえてゆくことで、
変転するという。
あげく、その因縁も己の思いがつくるものであるという。
だからこそ、観をかえて、
思いを変えてゆく事が必要だという。
物語のドラマ性にかぶせられているだろうとおもうが、
「人間」と云うものを真っ直ぐ見据え、
人が生きるという事を誠実に問う姿勢が終始貫かれており・・・
と、いうことは憂生にとってこういう事になる。
多くの読者様が
憂生の作品にひかれてくださるのは、
物語を通して
自分がどういきてゆけばいいか、
コレに対峙させられるからだと
自負している。
ある読者様が
憂生のところに来ているほかの読者様をして、
レベルが高いと評価してくださったことがある。
それは、憂生の作品の中におりこまれている
「観をかえてゆくこと」
つまりは、自分の生き様とむきあわされる部分にあえて、挑む
あるいは、ソノ姿勢に惹かれる読者様だから・・・・。
物語の底に流れているもの。
これは、ただのエンターテイメント小説ではない。
そう・・・。
自分の方向性を嗅ぎ取ろうとする、
読み手自身の分身が住んでいる。
無論、一次が万事その作風に仕上がってるとは言いがたい。
からりと性を笑いこめる「新之助シリーズ」という
おちゃらけた作品もある。
憂生は此処最近、
ある投稿所に作品を投稿してみて、
憂生のブログにわざわざ、足を運んでくださる読み手の方との違いをはっきり、意識した。
それが、上に書いた事といってもいいかな。
憂生の作品に惹かれてくれる人は、
真摯に自分とむかいおあおうと
している人だといって、
過言でないと思っている。
つまり、これが、
作品によって知らされる自身という事になるだろう。
自分の作品をそこまで、課題評価するかと
大笑いされそうであるが、
少なくとも
憂生は
真面目に取り組んでいる。
本が生きる糧になりえることがある。
と、
そこまでは、流石にいえないが、
すくなくとも、
「かんがえる」
こと、
「思い方をかえてゆく」
コレは生きるに必要な
「知恵」だから・・・・。

続きを読む

泥棒にゃ。

憂生2004/03/12 17:59

あきら、はよ、かえってこ~~い。
新作はいんねえよ。
て、又、勝手にアップしてるぞい。

2:憂生 

これは、憂生の「七日七夜」を漫画にしてくれているぶんだよ。
本編は憂生’s白蛇のサイドバーに全編収録してるよ~~~。


2314175154602227435.jpg

3:umigasuki2004/05/19 10:28

「七日七夜」全部読んだよ♪「ブローザ・ウィンド」も好かったけど、こっちの作品の方が好きです。あきらさん、続き描いてくださるのでしょうか?キレイな画、待ってま~す(^^)v

4:憂生2004/05/21 11:09

いつもありがとう。

ありゃ、描く気ねえんじゃねえかな。
蛇蛮に夢中だもの。
新作とどいたけど、巧い。
はまる。まったく。惚れ惚れする。
ところで、あきらの、もう一つのほうの「独占欲」読んだ?
他のあきら物もアップしたいんだけど、今スキャナー休養中。

5:umigasuki2004/05/21 12:10

うるるぅ~(T_T)どこにあるの~…『壱』は、読んだよ♪せつないゾ…

さっき、千咲さんとこの不二子ちゃんに逢えたよ~♪やっぱキレイだった…
書ける&描けるってイイよね(ToT)ここにおじゃまして、狭かった視野が広がった…
ココを創ってくれてアリガト♪

6:憂生2004/05/21 16:36

うん。壱のこと。
ああ、あきらから、直接入手の方法もあるが・・・。
内緒で住所知らせるの、むつかしいし。

で、さっきはありがと。いい日記でした。
憂生が巧くいえなかった分がすっぱりきれいにさらわれて、ほっとしました。
ありがとう。

8:umigasuki2004/05/23 14:34

おかえりなさ~い(^。^)
ワタシこそ…『強奪』されてうれしいよぉ
ありがとう

私の掲示板に、憂生(呼び捨てごめん)のコト
『かっこいい~♪』って書き込みありましたよ♪

またCafeに おじゃましますね♪

9:憂生 ごめんな。
折角、強奪しても、つぎつぎ、日記、かきこんじゃうから、随分下のほうになったよ。

ところで・・・。
なになに?
ふむむ。なんか、酔狂な方がいらっしゃる?
みってこ~~~。

/いわゆる、み~は~である。

11:umigasuki

音読の続きを書いたんだ…
でも褒め殺しの犯人になるから消しちゃった…(^^)v

ホントは
もし、音が出せない人が読んだら…聞こえない人が読んだら…
そう想ったら、ココにかくのがいいんだと想って…

とにかくね憂生の言葉の区切り方や、
流れが声に出すと
きれいな事が感じるの

ん~旨くかけないけど…そうなの♪
終わらなくなるね♪また 来るよ♪

憂生 

おもしろいよね。
そういう読み方してくれる人はすくないんだよ。
知人でそういう、言葉のテンポ?まで、かんがえてるのは、渦夜くらいだよ。

全部が全部、その調子に持ってゆくことは不可能だけど、
どういうのかな、
せめても、単語?
これが、なまぐさいと、現実にひきもどされちゃう。
しらける?
こう言うのをできるだけ、さけてるつもり。
だから、
性表現でもむげになまぐさくはないとおもうんだけど・・・。

音律にこだわってるのは、じっさい、あるよ。
たとえば、壬生浪ふたり・俄狂言「恋語」
を、出版社が恋物語に打ち込んでおくってきて、むか~!
恋物語じゃ、イントネーションがどすっと、さがる。
で、だいぶ、くってかかった。
マ、こんな風に多少は自分の中でこだわりがあるのはじじつだから、どこかでそれはでるだろうね。

でも、読んでくれる人がそれに気が付くというのははじめてかもしれない。

ありがとう。

憂生の文章読んでるから、
字典が手放せなくなったよ(^^)v
色んな言葉があるんだね
旨く使えるようになるための
修行になるね…(^^ゞ


『恋語』と『恋物語』じゃぁ
大違いだよ!
濃さ(色)を感じない人だったんだね…

それから…  
『海』って使ってたけど、今日から『風海』になる。
『海』は、彼女に使って欲しいから。

『風海』と呼んでね♪


2314175154602227435.jpg

自分の作品について解説など、するなって?

どこかで、何度も書いたが、「書くことは、読むことより、おもしろい」という某社のキャッチフレーズは、

時おり、憂生の真実に成る/ならないときもおうおうにあるところが、みそであるが、

必ずしも、そうばかりじゃない部分があるからこそ、書くことが、面白くなるのだとも思う。

と、いう、長ったらしいテーゼを引っ張り出して、何をいいたいかというと、

今回、-銀狼ーお得意のこんがらがった糸を解く楽しみにはまれそうで、なんとなく、自分でも嬉しい。

まあ、こんなことをかいていると、憂生は一つの「意見」を思い出す。
作者・・う~ん、作家?う~~ん・・
物書き・・書き手なら、自分の作品について解説など、するなって、意見。
ようは、言い訳がましい?
作品で勝負しろ?
なんか、作品は作品として、読みたいって感じなのか?
通常、作家の人間性、性格?など、触れることはありえないわけだよな。
たまに聞くのが、アンナ立派な、アンナ感動的なこと書いてるけど、本人凄く、性格悪くて、えらそな人間。
とか・・・。
と、わかると、作品がなんだか、うすっぺらに見えてきた・・とか・・。
う~~~~ん。
う~~~~~~~~~ん。
うむむむ・・・。
そんなだいそれた、人格者のような作品かいてねえし!!
だからね・・・。
今もって、作品について、作者自ら語るなって、のが、良く分からない。
逆を言えば、こっちが、かたらずにすむところまで、読み取ってくれるのか?って、いいかたも成り立ってくるわけだよな。
実際問題、そのあたりの悶着はいろいろ、やらかしたことあるし、

実際、憂生が何をこめているかってことになったら、

やはり、よみとり不足って部分も無きにしも非ずなわけだ。


だけど、この論議を言い出すと、じゃあ、書き込み不足はどうだ?

よみとれるほどにかききれてないせいじゃないかって、ことにも成ってくる。


だから、このあたりは、お互い暗黙の了解という部分でも有るし、読む人の環境や経験などなどから、どの部分に反応するか、人、それぞれ違うわけで、同じものを読んでも受け止め方が違う場合がある


これらのことをかんがえると、最初の書き手よ語るなかれも、人それぞれ、違うわけだ。
なるほど、と、視覚を広げる人もいるし、うしろがわの生な部分を身近なものとして感じ取れる材料ととる人もあれば、嫌だと取る人もある。
まあ、わがままな言い方をすれば
嫌だと思うなら、読まなきゃ良い。
読む自由もあるかわり、読まない自由もある。
このあたりを自分のものにせず、書き手に対してこうあれ、そうあれというのも妙なものだと思う。
う~~~。
なんで、こんなことを書き始めたか、自分の中をさらえて見た。
それはタブン、このまえ、
知人がブログやめた・・とか・・。
某所にて、かなり上位・・・10の指の中にはいる、ブロガーだったのだけど、
私事や仕事のことで、忙しくなって、更新が滞るととたんにランキングが落ちて、更新する。


更新すると面白くない。もっと、面白いことをかけ。と、コメントされる。
楽しむためにはじめたブログなのに、ランキングのために書き、面白い記事がかけないと文句を言われ、ブログを使ってるというより、ブログに使われている、主従逆転現象に嫌気がさしたとか・・・。
まあ、憂生もしばし、こういうジレンマみたいなものは、持っていた。
その一端が先に書いたことだけど、おまえのお抱え物書きじゃねえや!!
嫌なら読むな。
こういいたくなるのを、こらえながら、
いや、いえば、えらそうだとかね。
読み手あってこその書き手じゃないかとかね・・。
そんな喧騒になりかねないわけさ。
だったら、ブログやめて、ワードにもどるぞ!!
ってね。
問題は自分が楽しめること。
それを第一にしないとやっぱり、ブログにつかわれてしまうってことだろ。
言いたい放題書いて、読みたい奴は読め~~~~~~。
読みたくない奴は読むな~~~~~~。

おたがいさまじゃんか、なっ?そうだろ?

コメント&物語(パンパンとチョコレートに寄せて・・から)

戦争のあと、負けたあと・・・子供たちの苦しみ。今度は女としての観点でなく、子供なんだ・・・。ある意味もっとつらいかもしれない・・・と思いつつ読むのが止められない。
続きが読みたくなる。
どうかどうか、強く強くなって、生きて生きて!雑草みたいに強く!
純な魂が傷付くのを見るのはつらいけど・・・。
食べ過ぎだ~なんて言ってる自分がものすごい恥ずかしくなっちゃう。飽食時代の私・・・(>_<)

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度外視

今日の検索ロゴから・・・。

(検索ロゴは、リンクのFC2アクセスランキングの「リンク・イン」に載ります)

もちろん、当の検索者さんが、どういう思いで、検索されたかは、わからないことですが、憂生なりに思うところがあるので・・・。

ロゴは「FC2小説・退会」でした。

憂生も一応、籍はそのままですが、ほとんど、そこでは、かいていません。

入会したのは、FC2小説が出来て、間もない頃だったと思います。

ここに一時期は、全作品投入した時期もあります。

1ページが2000文字までだったので、全作品(100作品以上)投入すると、3000スレッド近くあったようなおぼえがあります。(日記他も含めてかもしれませんが・・)

ですが、途中で、やめました。全部削除しました。

その原因は、2000文字というせいもあったと思います。

検索で捜す場合、長い物語の1ページだけを読まれると、いうことがあります。

それは、例えば、物語りの中で、必要である、性表現だったりするわけですが、

ここだけを、よんで、判るわけがないわけです。

現状、此処での物語りへの検索も、そういうパターンがあります。

オムニバスでかくことが多い憂生なのですが、一部分の表現だけを目当てにやってきて、

読んでくれても、「本質」が、見えないのですが、それでも、やってきます。

つまり、2000文字までにくぎると、場合によっては、「部分的な性表現」が、クローズアップされるというおそれがあるわけです。

すると、そこだけを読みにきたひとのおかげで、検索には、そこの頁がリンクされるという弊害がおきるわけです。

まあ、そんなわけで、2000文字以内にちょん切って、掲載するというパターンに嫌気がさしてしまい、全部、削除しました。

すると、まじめに(変な言い方ですが・・)読んでくださっていた人が、随分、惜しんでくださったわけで、憂生の物語りとの「ひとつのきっかけになる」という部分を重視して、再び、掲載しなおしはじめました。

そこに、感想がはいり、すったもんだ、したのですが・・。

で、結局、2~3編だけ残して、またも全削除したわけです。

今、この検索ロゴ「FC2小説・退会」というロゴを見なおして思うことがあります。

おそらく、FC2小説というのは、「書き始めた。読んでほしい」という、表現が失礼かもしれませんが、初心者の方が多いのだと思います。

憂生も最初の頃は、そういう思いが多くありました。

自分の書いたものが「受ける」その快感というものは、誰でも感じることだろうと思います。

その頃に、憂生の読者様から、お叱りをうけました。

「読み手を意識していませんか?迫力がなくなってます」

と、いうような内容です。

実際、元々はワードにかいていたものです。

それが、ネットに入って、新作をかきはじめる頃には、「読み手」というか、ネットにあげてよいかどうかという「表現」を意識し始めたと思います。

こういうことを、かいちゃいけないんじゃないか?

いや、真意がつたわるだろうか?

とか・・・。

そのあたりが、「読者を意識するな」と、叱られた心理(原因)だったと思います。

その時期をすぎて、壬生浪ふたり・・などに、出版の話があったりもしたわけです。

そして、現在、通算で、考えると、もう、10年近く、執筆を続けています。

そこに、感想がはいったわけですが、

そこそこに、文学研究などなさっていて、「多くの作品」をよくよんでいた方だったようです。

いわば、読み手のプロ?だったのでしょうね。

その方の感想に愕然としたというのがあるわけです。

「最後まで、一人称がくずれず、書き終えているところがすばらしいです」

みたいな内容でした。

それ、あたりまえじゃないですか?

と、いうか、そこを褒める?という事自体、その方が、プロの作品を引き比べているというか、

作家初心者に対し「よちよち、よく、かけてましゅねえ」という赤ちゃん扱いのような・・。

これが、本当に「書き始めた。読んで欲しい。自分の作品の出来はどうだろう?」という初心者?のリトマス紙であるのなら、憂生も素直によろこべたかもしれません。

先にかいたように、ワードで書いたものと、ネットで書き下ろした物との、憂生の裏側の心理をみぬくような、読者様の憂生への審美眼というのか・・。


こういう読者様にめぐまれていたぶん、憂生が、その方の感想などなどへの受け止め方がよくなかったという憂生側の土壌があったとは思います。

ですが、非常に奢った言い方ですが、「よちよち」に「受けた」という快感、あるいは、支持されたという満足感をもつ書き手レベルというのが、FC2小説であるのかという気がしてしまったのです。

そして、この事があって、憂生は相手するのは、「自分」だと考えるようになりました。

単純な言い方ですが、

例えば、自分でなければ、判らないことというのがあります。

とくに、構成部分ですが。

自分としては、かききれているか、どうか?と、いう言い方も当てはまります。

よく書けていると思うものでも、読者さまには、受けないものもありますし、

かなり、手抜き?なのに、受ける。

こういう読み手側の評価に左右されず、自分自身がどうであったか。

・・・・・・・。

つまり、「読んでほしい」を度外視して書くべきだと思うようになってきました。

「どう、書くべきか」という一見、自己満足の世界ですが、自分との戦い(向き合い)であるべきだな。

と、思うわけで、

FC2小説に作品をおいておくと、読んでほしいと言っていることとイコールになるわけです。

妙な言い方ですが、憂生の場合「読んでもらうために書いている」が、先になってはいけない。

と、思うのです。

多く、憂生も最初は「読まれたい」でした。

ですが、10年近く書いていますと、いろいろ、あって・・。

感想に依存する神経にもなっていました。

かなりの、感想をいただいているわけですから、いつのまにか、それが当たり前になっていたともいえます。

スランプにはいって、ほとんど、感想がこなくなったとき、なにか、つまらない。とも、かんじました。

感想によって、執筆意欲が持ち上げられる。と、いうのは、確かにありますが、これも、来なくなるという逆転現象が生じた時、感想を起爆剤にしている(依存に近い?)自分が居ることに気がついたわけです。

何も無くても、かける。

それが本当のはずなのに、いつのまにか、「読者を意識する。受けを求める」という状態になっていたわけです。

こういう意味合いでは「コメントがこなかった」ということで、自分をさらえなおせることができて、良かったと思います。

まあ、はしょった言い方ですが・・・。

わけあって、又も、再掲載。

物語を読むときに本当に必要な心というのは、こういうことだと思います。
作中の人物に同情するのは、簡単なことだけど、/ま、ただし、コレは表現方法にもよるかもしれませんが、憂生の拙い文章からここまで、思ってくださることは、むしろ、驚異です!!/
その気持ちから一歩はなれて自分を振り返って、自分のありがたさに感謝する。
物語というものは本来、こうあるべきものだと痛切に思います。
こういう取り方をされていただけると物語が読む人の中で血肉になってゆくと思うのです。
そして、これは、本当に作品と自分を向かい合わせてくれた結論ということですから、
その真髄に触れることが出来たあなたの読解力と自分の生き様に向かい合う真摯さにただ、敬服の一念です。

この記事のコメントに

書き手と読み手の間には人柄の一致というべきものが存在するのでしょうか。
反面、そんなつもりはないのに変にからんで来る人に出会って鬱になることも。


と、いうのがありました。


どうも、憂生はこういうのが、苦手ですね。


憂生自体は、自分の思うことを追従しているわけで、


その部分で「ああ、その通りだな」とか、思う人が


その部分の人柄を吸収していけばいいわけで、


それが、一致していようが、いまいが、


「得たこと」とは、自分(読み手)の領分でしかないわけです。


もっと、いえば、たとえば、キリストの教えをよんで、


良いとおもったら、自分がその教えを実行することでしかなく


キリストの人柄を良いと、とったことと


本当にキリストの人柄とは一致するかどうか、など、考えないでしょう?


つまり、作品にとるところがあるかないか。


と、いうことになり


そこまで、ふみこめてない作品を書いているから、


冒頭にあげた意味がわからない。


そして、多少はふみこめた作品をかいていると


自分の内面を話してくれるひとがあらわれ


その様子によっては、


気がかりというか、がんばれとか


どうにか、のりこえていってほしいなあとか


相手に対して思うわけです。


その人たちも、自分とむかいあっているわけです。


そのあたりの


ー憂生に話したくなるーということと


憂生もまた、相手を思う、と、いうことと


少なくとも、一致という外側からながめた簡単な把握ではないわけです。


つまり、こういう外面的な、見た目をうんぬんする事をお考えになる方は、


相手を思うなどの、経験・思いが少ない方なのだろうと思うのです。





厳!!

文章を書くとき、自身がその対象とする物事への理解や納得がないと

それを読む人を理解・納得させることはできない。

その対象を理解するという一番の姿勢でわかりやすいのが、

誰かにいわれたことに、的確に返答しているかどうかである。

最近、ある人との対話?の中でそれをみつけた。

憂生は・・・。

具体的にいうと、誰かわかってしまうかもしれないが・・・。

小枝の中の「紅」これの使い方に着目してくれとお願いしたのである。

物事の暗喩や比ゆや象徴に「小道具」?がつかわれる。

この小道具が物語りに深みやこくやムードをつくらせていく。

小道具に象徴されるものがなにであるかを読み取ることができないのは、

アスペルガーシンドロームににたようなもので

読み手としては残念な部分がでてくる。

書くときにも、また、文章の裏側になにかをこめるという作業が苦手になってくる。

そして、憂生にとって不安材料がおおかったせいで、

あえて、よんでくれと提案したのであるが、

その答えはまったく、無関係な筋違いの返答だった。

自分とは系列がちがう。と、いうようなものだった。

これが、答えになるだろうか?

読み取ることができなかったというのならまだしもだが、

憂生が示唆したポイントは「紅」の使い方であり、その使い方に系列が違うというような答えはあるだろうか?

つまり・・・。

尋ねられたことに答えることができない。

こうとってしまう憂生にあいなった。

あとは、ことごとく「示唆されたポイントをつかみとれない人間」としてしかうつらず、

なにか、せせこましいルールや、被害妄想じみた受け止め方で

こちらに対して「憂生さんのことを思って」とご忠告をかかげてくださっていたのだが、

元々の、物事の裏、象徴されるものが、よくわからないという言葉のとおり、

物事の裏にひそまれるものをうけとめたがらず、

万事相手が悪いという視野であるようにみえる。

たったひとつの尋ねごとにまともにこたえられない人間に期待するきはない。

ロビンの瞳・・を、かき終えて・・。

まあ、残りの執筆中が、あと、7~8本残っていて・・。
チサトの恋以外、すべて、2~5年前の放置作品ということになる。

多いものでは、5万文字まで、書いていて、気がこけた。
原因はくだらない検索ロゴ。

つづめて言えば、PDSTと解離性傷害などの精神的病から、恋人を救い出すという物語である。
かなりの葛藤や情愛や・・・。
と、憂生にとっては、問題作であり、書いている本人もむごい場面になると、実際に吐き気がおきていた。

現実部分で精神病(欝・境界異常・自傷・・・・)を罹病している方たちとの、関わりがあり、実にいろいろなことがあり、問題(本人の症状)の解決にも関わってきたということもあり、自分にとっても、どういう風にかんがえていけばよいかという、バイブル的意味合いもあるものであった。

そこに、くだらない検索がはいる。

憂生の神経はずたぼろになってしまった。

面白半分、興味半分で、扱われることは、まあ、たとえて言えば、通り魔に身内を殺され、そこから、立ち直ろうと、客観視をこころみようと文章をかいているところに、「むごたらしい死に様・キャー・死姦」というような、異常趣味としか思えないような検索をかけるようなものだと思う。

(例えばではあるが、もちろん、ヒットするのは、むごたらしい死に様なんだけど、あとの言葉も解析によって、表示される)

この状況により、本編を書くことができなくなり、と、いうより、公開する気持ちになれなくなってしまった。

同時にアダルト小説も同じだった。
憂生にとって、主人公の葛藤・精神的成長?などなど、性をして、くだらないごまかしにしか使えなくなっている憐れな男のその様子と、別れた恋人への本心と・・。かなり露骨な表現があるせいもあり、ここにも、たわけた検索がはいってきていた。

そして、部分的一致などにより、「考えさせられる」作品でさえ、アダルトブログにラチされる。
看護婦のなんとかシーンという表題をつけて・・。

侮辱というよりも、ネット世界の意識のレベルが落ちてきていると考えられた。

その様なことの複合的感受により、あちこちで、公開するのはやめることにしたり
どうしても、誤解したヒットにかかるものは、非公開にかえたわけだが、

そんなわけで、執筆中の作品になったままの作品もある。

量産に継ぐ、量産をこなしていた憂生にとって、今年ほどひどい年はないかもしれない。
短編が多くなってしまっているが、昨年でも10作品近くは書いている。
今年、8月もおわりになって、やっと、ロビンの瞳をしあげただけ・・。

ネットに公開しながら書くということをはじめてから、テキストに向かう集中力がかわってきているせいもあり、空に架かる橋以降は、すべて、ネットテキストへの一発書きで、166000文字お登勢もなかだるみしながらであるが、テキストでしあげていった。

それが、どうしたことか・・。

とは、言うものの、ロビンの瞳も、憂生にとっては、「上」の部類に入る。

以前にもどこかでかいたかもしれないが、書いている本人にしか、どこまで、書ききれているか。と、いうことは、判らない。
と、思う。

人の評価などというものは、なかなか、そこまでは、判らない。
論より証拠に、かなりおざなりに書き上げた作品が全国出版・特別推奨作品に推したいということがあったりもした。

ロビンの瞳については、憂生なりの掘り下げが、できていて、
自分でも、そういう事か・・と、納得できたり?しているので、
書ききれていると思える。


極論であるが・・

なんとも、暗澹・・。


その気分は、小説分野にもスピリチュアル分野にも感じる。


小説を読む側というほうが正解かもしれない。


中身がからっぽだとはいわないが、

とるにたらない、心にのこらない。

感動できればいい。面白ければいい。刹那主義をかんじる。


感動できるものが、とるにたらないとはおかしいというかもしれない。

だが、この感動させられるものを次々よんで、

かわいそうだとか、すごいだとか、よかったとか・・。

思うことを楽しんでいるのを娯楽という。


極論過ぎると思うが、

書き手側の立場でいえば、

涙してまで読んでくれても、それでおわりで、

次の感動作品をさがしまくる。

自分の作品は感動生産道具か?

誰かにとってかわられる娯楽志向。


消耗品でしかないのなら、

感動の後始末のティッシュペーパーと大差がない。


その場限りの娯楽、あるいは、自慰行為。

快感追従でしかない。


そして、そのような作品のほうが、金になるし、読まれる。


はいてすてるほど湧き出してくる作家が、

出版社の消耗品にされていると気が付くときはあるかもしれないが

まさか、読み手が消耗品にしているとは気が付かないと思う。


売れ筋の作品をかきたい。

受ける作品をかきたい。


こういうふうにいう人がいた。


なんだろうね。

世に出たいというか、メジャーになりたいってことだろう。


そして、かきあげた1冊は

心にものこらず(代替が必要ということはそういうことだろう)

けっきょく、とるにたらないものになり、

金とステータスだけがてにはいる。


有名になどならなくていい。

ほとんどよまれなくていい。


その1冊を読み手が自分の宝珠にしてくれる。

示唆を含むからこそ、必要な1冊になりえる。


ショーペンハウエルは「真理」という。


自分でつかんだ真理をかきこむ。

真理がなにである、どういうことかを、かきあらわしていく。


以前にもかいたけど、

ブロー・ザ・ウィンドウの中の

「思われていることすら喜べない自分」この裏は

「思われていることこそ、ありがたい」

この「真理」にきがついた人が

閉じこもった世界から自分自身をひっぱりだしていくことに成功した。


もちろん、ひっぱりだしていったのは、

彼女自身でしかない。


が、1冊の本が人生をも一変させる。


彼女にとって必要な1冊でしかなく、

ほかの人にとっては、ただの娯楽小説でしかないかもしれない。



ただ、真理をかきこんでいくか、いかないか。


売れ筋になることを先にねらうあまり、

「こめるもの」がうすくなり

消耗品になるか


たとえ、読む人がなくても

「こめるもの」を濃くし

たったひとりでいい、心に住む1冊になるか。


多くの人が、出版という形でなくても、作品を発表できる場所がネットだろう。


自己満足だけのために書いてる憂生みたいなのもいれば

読まれたくてかいてる人、書きたくて書いてる人

さまざまだろうけど、

自分の作品を愛する思いはかわるまい。


瑣末な快感主義に自分の作品をティッシュペーパーの如くあつかわれたいか


ひとかけらでも真理のこもる作品をかこうとするか、


読まれる数も、ステータスも

文壇にみとめられるものでも書かない限り

雲泥の差としかいえない。


どっちをめざすか、



臍をかためる

掌篇から、長編まで、併せて100編以上ということをよくかいていますが、

それでは、どうじゃいな?と、サイドバーの物語の数をかぞえて下さった方がもしかすると、いらっしゃるかもしれません。

サイドバーで数えると100ありません。

掲載数で数えると、もっと、ありません。

これは、SO2シリーズ18編と永沢作品16編を掲載していないためです。

これら、34編は、短いものもありますが、ほぼ、1~5万文字の作品群です。

この作品の掲載を断念したのは、何度か、書きましたが、エロサイトや、ちょっと異常?かなと思うマニアからのリンクターゲットになったためです。

読みやすいようにと、系統別にブログをつくり、スピリチュアルや、歴史や旨物や物語りや占い・・などと、いくつものブログをつくってみたのですが、結局、「憂生」の考え方?がみえてない状態で、物語だけを読んでもわかりにくいところがある。

と、思えたのです。

歴史を齧ってみる、の、中でも、例えば「枕詞・刺す竹についての考察」などでも、そうですし、

スクナヒコが乗っていた羅馬舟(かがみぶね)についての考察とか・・。

こういうものからも、例えば、白蛇抄の中の言霊の発動とか憂生自身の物を書く中での、言葉のなかによせる(仕組む)考え方とかが、共通しているわけです。

他にも、小枝の中で「つごもり」の明ける十の日という表現をしていますが、十までのひとつ。ふたつ・・・ここのつまでは、「つ」の字がはいります。

それで、十の字を「つなし」ともよませるわけですが、逆に1~9には、「つ」がこもっています。

そして、つというのは、「津」でもあるわけです。

湖などと隣接した場所を「津」ともよびます。

つまり、津があるうちは、水のあるところとかかわっているということです。

それが、十になると、「関わり」がなくなるわけです。

小枝と文治の関わりもまた、なくなる、最後の日が十の日だったわけです。

(と、いうことも、小枝に寄せて・・にて、かいていますが)

こういう後ろ側のものをしきこんでいながら、簡単に表現していますが、それらの考え方をひっくるめたものとして、この白蛇に集大成しなおしたわけですが・・。

ところが、どっこい。

興味半分?の検索でよみにきてくださる人は、そのヒットする部分だけを目当てにしているご様子で・・。

SO2を検索するにしても、「クロレナ・Hシーン」などという、ロゴできてくださったりするわけですから、こりゃあ、とても、他のものまで、よんでくださる気はないだろうと、思いつつ、

それでも、判る人には、判るだろうと、かすかな、期待をもっていたのですが、

検索ロゴが異常になってきて・・。

はてには、自分の所にリンクか、パーマリンクか、どちらかをされていて、それが、やはり、ネットにでてますから、なんで、憂生の作品名が人のブログにずらずら、並んでいるんだろうと訪問しますと、「拒否設定」しているわけです。

それ、はっきり言って、扱いというか、捉え方、おかしいでしょう?

なんで、そんなこそこそした「扱い」されるわけですか?

憂生自体、今まで、物語りについていえば、リンクは無論、CDロムにおとす、プリントアウトする。と、いう風に好んでやってもらってたことがあります。

その評価?は、自分でいうといやらしいけど

「すばらしい」ものだから、他の人にも読ませたい。とか、自分の所に保存したいとか。

そういうカラーだとおもうわけです。

だから、当然、本人も堂々としていますし、他の人にも薦めるくらいですから、憂生に対しても、プリントアウトするよ。コピーするよ。ワードに落すよ。リンクするよ。と、まあ、いってきてくれたわけで、ですから、とうぜん、こっちも、プリントアウトまでして。読んでくれているということをしってるわけです。

だから、憂生がいって、拒否されるということは、

「この物語をリンクしてることは、、疚しい」と、言ってることと同じに思うわけです。

つまり、こういう思い方。捉え方で、読まれるのであれば、他のもの、底にあるもの、表現方法・・などについての洞察もいっさいないだろう。

と、思え、逆に他のものまで、「疚しい目」で漁られるという二次的被害も考えられますので、

34編封印しました。

そういうわけで、100編以上と豪語しながら、100編以上はありません。

憂生としては、残念なのですが、ある程度、すいもからいもかみわけた人がよんだら、みえてくるものも、昨今の若年層のネットへの参入(閲覧)が多くなってから、とくに、興味本位の検索ロゴや、誰かもわからない、なにを検索したのかもわからないだろうと、異常・あるいは、よく、はずかしげもなく、そんなことを検索するな。と、いうロゴもふえてきて、うわっつらしか読めない人にとっては、まさに青少年育成条例違反の物語を提供するエロサイトまがいの管理者と、いうことになり、まあ、憂生も誤解されたうえ、規制対象にでもなったら、ばかげてると、思ったわけです。

また、一方で、スパム対処に奔走したあげく、結局は、ネットの中の環境を護るということも必要であると痛感し、誤解されたり、妙な場所にリンクされたり、ということも考え合わせ、誤解されやすいものは、ネットに挙げまいと、きめたわけです。

で、時折、ぶつぶつ、いいます。

まじめに読んでくださる人が、いたら、解放したい、それが、本音ですが、

どうも、作者の意図するようには、よみとってもらえないと、判断する材料がおおすぎました。

そ・そ・君だ。

Hシーンがなけりゃ読みたくないのごときの度重なる検索に妙な言葉を追加してくれた君。

君のおかげで、封印の決心をかためなきゃいけないと、ほぞをきめたんだ。

雰囲気と文体

文体と内容を統一する。


これが、できるとよいなあ、とおもうのである。


時代物、とくに、雅な風情をだそうとするときは、

むつかしい。


姫がいる。


地方弁でいえば、おる。(居る)


まあ、この言葉はわりとかきかえやすい。


ここにおわす御方をどなたと心得るか!!


きいたことあるよね~~~。


姫がおわす。


と、かいても、判りやすい。


だけど、いまや、つかわれない言葉だから、

ちょいちょい、誤字とおもわれるのが、


「が」


「の」と、いう言い方で使うところが


「の」の意味合いと

「が」で使われる場合の主語強調をかねる。

もうすこしあるが、省く。


ーおらが春。ー


すなおにとれば


おまえは春の精かなんかか?

かわいそうに、春のせいでおかしくなったかと・・・/おおげさ


「政勝がこと、あわれとおぼしめして・・」


「邪心がままになりおってから!!」


これを現代にあてはまると、文法間違いにしかおもわれないかもしれないし、


じっさい、「まちがってる。小学生なみだ」と、ご意見いただいたことがあるwww


(本当にまちがえてることもあるが・・・。)


では、なぜ、誤解されないようにしないのか。


「政勝のこと、あわれと思って・・」


でも、いいだろう。



ほかの人がいってたとしても、本人がいっていたとしても

客観視の「の」ではなくなる。

政勝がこと、は客観視の「の」を含み

「政勝」こそが主体になってくる。


こんな微妙なニュアンスを含む言葉がない。


時代物のよいところはここらへんにある。


「政勝がこと、あわれとおぼしめして・・」


さらに、「おぼしめして」


「思ってください」というかな。

自分が一歩へりくだっている。

あるいは、思し召す当の本人の位が上にある。


一言の中に立場と謙譲がはいりこむ。


こんな便利な言葉はない。


実際、普通の現代語におきかえたら、

かなりの説明が必要になってくると思う。


政勝のことを、かわいそうだとお思いになってください。


これは、相手がみえてこない。


読み手に言っても通じる。

あるいは、そういう風におもったらどうです?と説教じみたニュアンスもでてくる。


この昔の言い方が、なおさら、時代物の背景まで気取らせる。


時代物というムードもつくれる。


ここにはまると、時代物というのは実におもしろい。


いや、そんな話じゃない。


で、そうやって、小学生並だとしか、とれない読み手について。


いつごろからか、


憂生は最初のターゲットを自分にしはじめた。


たいした学歴もない憂生が思い、考え、表現するくらいのことでしかない。


せめて、この低いレベルの自分を納得させる。


そういう考えだった。


ところが、実際には、時代物の語調をよみとることができない人がいる。


憂生にいわせれば、


なんでもかんでも読むという活字中毒はやめなさい。と、いうとこなのだが。


まず、最初の何行かをよんだら、自分に向く読み物か向かない読み物か

おぼろげにつかむことができる。


それで、読み進めていったのだろう。と、する。


結果、まだまだ、こういう表現を理解できないと悟るならまだしも、

理解できない自分でございと披瀝することはなかろうにとおもう。


つまり、先にかいた

一言の中に謙譲と立場がはいりこんでいる。

このこともつかみ取れない。と、いうことになる。


誤字だとか、小学生並だとか、と、しかとらえられないのなら、

おそらく、つかめきれてないだろう。



自分のターゲットをどこにするか。



読みやすくて意味もわかりやすい。


ムードや背景まで、感覚的につかみ取れる。


物語の内容、テーマを己に肉迫して感じ取りたい。



まず、自分の軸をきめる。



これが先になった。


だから、ラフに読んで欲しいと思うものは


「あ~~~ん?そんなんだから、母ちゃんににげられるんじゃねえか」

って、ボーマンがいう。

「んなこと、言ったって。話し合うもくそも・・」

「くそ?だいたい、そこからまちがってらあ」

ボーマンのいいたいことがみえた。

話し合うことこそが大切なんだ。

その大事なこととくそをならべてしまう。

ここからすでに間違ってる。

くそなんかとならび比べるのは、

大事なことだとよくよく判ってないからできるんだ。って、言いたいんだ。


少々理屈っぽいんだけど・・。


ま、このラフさが、ボーマンの持ち味というか。

ラフで一見ふざけた人間が実にこなれた見解をもつ。


そこを、きちきちと、かいてしまうと、ボーマンのムード・イメージもかわってしまう。


どこにターゲットをおくかというたとえでだしたもの、

すべてをまかなえるなら、これにこしたことはない。


読みやすくて意味もわかりやすい。


ムードや背景まで、感覚的につかみ取れる。


物語の内容、テーマを己に肉迫して感じ取りたい。


だが、実際のところ、白蛇抄などは、

因縁納所などに通じる内容をふくんでいる。


カルマというか・・。


実際、読んでくださった人の中には

憂生に「仏教大学でたん?」と尋ねてくださった人がいた。

残念ながら、そんな高学歴はもちあわせていない。


話し戻す。

こういう観念や考え方もおりこんでいるだけに

読みやすくて意味もわかりやすい。

とは、なかなかいかないところを

物語にして、納得?してもらおうと目論んでいるところもあるのだから

正直をいうと、「が」の使い方ひとつでつまずいてしまうようでは

作者の意図するところにさえ、届かない。


あえて、表現間違いくらいやかかれてない部分を補足して(いわゆる、行間にこめられたもの)いけるくらいの、読解力がないと、この物語が活劇としか思えないと思う。


こういうものもかけば、お笑い系統もかく。


それぞれ、できうる限り、

文体と内容を統一する。ようにはしているつもりの憂生である。

スランプというと、きこえがいい。

新作をかこうかと、

構想は練った。

題材は狂気の狭間に住む女性。

視点は彼女の夫、あるいは恋人 というか・・・。

相変わらずの性描写からはいり、

男の視線から彼女の現状をぶんせきしてゆく。

彼女の精神は浮遊し

相手を認識することすらない。

この結びつきは、

男にとってなんであろう?

単なる欲求の解消であろうか?

愛情の確認でありたいと思っても

これは一方通行でしかない。

彼女は男の愛情を認識しない。

それでも、男は彼女を抱く。

「したたりおちるものは、

身体の中に埋没した

俺への愛情なのであろうか?

涙すら流すことの無い、お前の底で

うずみ火がもえたつ。

お前の身体が

泪をながしている・・・」

まあ、「蛙」と似たような表現手法を用いようかと思った。

だが、こけた。

どうも、まだ、充電不足のようである。


レガち♪へのディスク・ジョッキー  

おお!!
コメント返しをしてたら、長くなっちまったべ。
せっかく、長く書いたんで、
此処に乗せちまう。
相変わらずの公開癖?

道標

またも、考え事である


さるところで、2つの作品にであった。


どちらも、短編である。


ひとつは、文体もしっかりしていて、構成もいい。


ひとつは、テーマがよく、文体はいまいちであるが、

ところどころで、おやっと思わせ、ポイントをついていて、よませてしまう。


短編だから、全文、読まれると思ったら、おおまちがいというか。


内容を読まさせてしまう。


これは、どこかで、上手に読み手をひっかける必要が在る。


作者がなにをいいたいかでなく、

登場人物がなにをいいたいかである。


もちろん、大まかなストーリーでなら誰でももっているだろう。

たとえば、会話。

これを、いわゆる、順番どおりに会話する。


雨がふってきてるよ。

え、俺、これからでかけなきゃならないんだ

傘ならあるよ。かしたげる


これを少しかえる。


ああ!!まいったなあ・・・

どうしたの?

雨がふってきてるんだ

ああ?でかけなきゃならないの?

俺、傘ならもってるけど・・・


台詞内容が少しかわるけど


上は雨に気がつき、傘があれば一安心だけの話で

だからどうだっていうんだという程度の会話。


下は参ったなあの中に雨も憂鬱だけど

雨をおして、出かける用事が雨でいっそう憂鬱になる。

と、いうニュアンスがふくまれる。

いったい、どんな用事なんだろう?


と、会話の中に「ひっかかり」をつくることができる。


この「ひっかかり」をさりげなく、あちこちに配置できると、

文章は読みやすくなる。


人間誰しも、興味があることで、疑問をかんじたら、解明しようとする。


これによって、はてには、人類の文化が発展するんだろうけど。


文章の場合「興味をもたらすひっかかり」は最後までよませる「見えない道標」になる。


そのひっかかりは、ここでいえば、最初の



「またも、考え事である」の一言だろう。


何、かんがえてるんだ?


2冊よんだ?

そこで考え事が発生した?どういう考え事なんだ?


と、道標が奥のほうにつづいていく。


それ以後、ひきかえしたか、さらにまよいこんで(あはは)しまったかはしらないが・・。


内容がむつかしいから読みにくいという言い方をきくが、

上手に道標がたてられている作品は

むつかしさをかんじさせない。


司馬遼太郎あたりの文章も内容をかんがえれば、

難しいの一言になる。


ところが、逆におもしろい。


これは、道標がたっているからだとおもう。


道標をみつけてしまうかしまわないかは読み手の嗜好にもよるとおもう。

恋愛道標に嗜好を抱く人が、航空力学の道標に嗜好をだきにくい。


短編だから、短い文章なんだから、全文よまれるとはかぎらない。

長編だから、、長い文章なんだから、全文よまれないとは限らない。


作者が登場人物の気持ちになるということが

道標をつくらせる大きな要因になるだろう。


先の会話でいけば、

「このあと、憂鬱な用事がある」主人公は

雨が降ってきそうなのも、降っているのも、

いっそう気が重くなる。

この気持ちになったら、それらしい会話が自然とでてくる。


この気持ちをあらわす言葉や背景をさがそうとする。


書き手が登場人物の思いや考えにたつ。


逆を言えば、書き手が登場人物の思いや考えに同化していけるかどうか。


多くの成功者はこれができているんだと思う。


憂生は自分が掘り下げたいことがあったりする。そのため、

未知、あるいは自分があじわったことのない感覚や思いや考えと

同化していこうとするときがある。

が、類推しきれず、そことは遠い位置にたってしまって、

なんとか近づこうとして、

道標がどこかにいってしまうことがつどつどある。


歴史的事実とかこういうのは調べればしらべられるものだが、

自分の中にある「思い」とかを調べてみることはできないし

逆に本文をかいていて、人物の思いをおしはかれない、

「思い」の引き出しが少ない自分でしかないとしらされる有様である。

濁り

宮部みゆきの作品をすきじゃない。


こういったら、巷の人にふくろだたきにされてしまうだろうなあ。


ものすごく、上手な人で山本周五郎賞だったかな。

それをものにしてる。

これだけとったって、どれだけの文才があるか、よくわかる。


で、あるのに、なにか、しっくりこない。


で、なぜなのか、考えてみるけどわからない。


それが、在る日。


音楽機器のことで、気が付いた。


うまく、説明できるか自信がないんだけど。


音楽機器が奏でる音色をグレードアップする。

コンデンサーを良いものにかえたり

オペアンプの特性をみて、装着したりという具合であるが、

ある日、抵抗を良いものにかえた。

静音がさらに静音になり

力強い音がダイレクトにでてくる。


抵抗で減音されるものが少なくなり、

抵抗を通るスピードも速くなるから

音が微妙に遅れるということもなくなる。

クリアでくっきりした音になり、

かなり綺麗なのだ。


ところが、ぜんぜん、魅力がない。


真空管アンプや真空管CDプレーヤーと比べているせいかもしれない。


いや、そうだろう。

魅力がないとわかるのは、真空管機器をきいているからこそで

これが、普通の機器しか知らない耳だったら

最高の音だと思ったかもしれない。


魅力がないとかんじた大きな原因は

弦の響きがないということだった。


弦をこするときに微妙なビブラートがおきる。

このビブラートが再現されると非常に「生っぽく」きこえる。

そこで、ヴァイオリンを奏でているかのごとく錯覚さえおきる。


それでは、なぜ、弦の響きがでてこないのか。

ほかのものは格段上になったというのに。


良い抵抗をつけてやったところに問題があった。


スピードはやく情報をながせる。

太いパイプにかえて、摩擦係数もすくなくなってる。


これがいけなかったのだ。


わざと摩擦でひっかからせ

スピードが遅れることで、エコーのような反響効果が生じさせる。

摩擦が軽減しクリアさを増やすということは

逆にガザガザひっかかるものがなくなる。

これらが、弦の微妙ににごったようなこもったような音までもクリアにしてしまったのだ。


しょぼい抵抗をわざと選んでつかっていたわけがあった。


ヴァイオリンにしろ管楽器にしろ、空洞を要する。

ここに音をこもらせ、響きをよくし、増幅させるし、

弦がかなでた音もわずかの差で

空洞のなかでスピードがちがってエコー効果(響き。余韻)をつくる。


これと同じことがおきたと思う。


抵抗をよいものにしたつもりが空洞をとっぱらったというか、

不釣合いな空洞になってしまったのだろう。


・・・このことからだった。


宮部みゆきの作品がいわば、良い抵抗にかえたあとみたいなもので、

情報量もあがり、クリアさもまし力強くダイレクトになる。


そこだけを注目すると天才、鬼才としかいいようがない。


ところが、あまりにもすらすらとよめて、

ひっかかり(余韻をつくる)がない。

余韻の心地よさも音では重要である。


考えさせるところがない。

非常に丁寧に描写されていて

情景などもすんなり頭にはいってくる。

だが、それゆえに生っぽさがない。

考えさせられず、ぽんぽんとうけとめていくだけの文章が

ベルトコンベアーにのった商品をぽいぽいとおいていくような感じになる。


入り込むというのは感情だけでなく

考えからも生じる。


共感を与えるのもはいりこませる一手だろうが

考えさせるというのもひとつの手法であろう。


それが、あまりにも巧みな文章技術のため

ただただ、読み手はうけとる一方になる。


これは、おもしろくない。


勝手に音楽をかきならす、機器。

聞け、うけとめろ。

そこには、弦の深い響きはなく

心地よい余韻がうすく

新しい音の魅力をみつけられない。



ただ、そこにたって、音をきけばいいのだ。

うけとめろ。


それはおもしろくない。


読み手が中にはいりこめずにおけない「ガザガザしたひかかり」

時にそれは、何をいいたいのかこちらが考えて補足していかなきゃならない事柄であったりもする。

何をいいたいのだろうと、読み手に考えさせる「ひかかり」を残しておくのもひとつなのだろう。

あまりにも冗舌になりすぎて、読者が考えずただ一方的にうけとめる作品は

はいりこめないゆえに深い共感や余韻をのこさない。


と、まあ、ちょっと、大げさにかいてみたけど、

そういうかんじかな。


もちろん、憂生の志向や嗜好が宮部みゆきのものと合致してないというのがあるとおもう。


十分にかんがえさせられ、十分にはいりこめるという方のほうが多いにきまってる。

へぼ。

ちょぼちょぼ書いてはあげている、

ぬながわひめですが、

ぜんぜん、ぬながわひめがでてこなくなりましたね。


あはは(ごまかし笑いともいう)


憂生はもうまったく先がみえてない状態でかいていきます。

いわゆる、ストーリーをねったり

構成やあらすじをかきとめておいたりということを

まったくしません。


100(みじかいのもありますが)以上、かいてますが、

頭の中で粗あらすじをそなえておくときもありますが

たいていが、いきあたりばったりです。


あ、こういう言い方しちゃいかんな。


自分でもなにを書こうとしてるんだろうと思うときもあります。


ぽんとおいた第1章めのかきだしから、

う~~~~~んとうなります。

次どうしよう。

って。


で、登場人物が動き出すというか、

こいつの性格ならつぎはこうするなってことを考えるわけです。


もちろん、どう考えるか、どう思うかということもかんがえます。

と、いうか、つかみます。

その考えや思いが性格にあってるか、矛盾しないかもふまえます。


すると、ときに

こっちがたくらんだストーリー通りにうごかなくなります。


うごかない奴をうごかし

ストーリー通りにうごかしていくために

そのままじゃいけないってことを登場人物に

きがつかせるイベントというか

キーポイントをつくります。


これも、人物本人が納得していく形にしないと

不納得なキーではキーポイントになりません。


まさに目からうろこみたいな

思い方や考え方を、これまた不自然にならない形で

いれこんで、登場人物に軌道修正させるわけです。



たとえば、踊り娘の中の大きなキーポイントはパンです。

パンこそ命をつむぐ糧。

人の生活に役にたち・・・とまあ、本人はいろいろきがついていくわけですが

このパンをぽんとだしてくるわけにいかず

はじめのほうで、パンがない状況とか、(ポトフが残っていた)

という、ごく冒頭のところから、パンをかいにいってもおかしくない。

日常であるという感覚の植え込み。

食にまつわる例え(結婚について、ベーコンエッグをやいて・・と食をもちだす)


そういうふうに、何箇所か植え込んでおくことで、

急にもちだしてきたぽんぽんパンでなくさせる。


ところが・・。

憂生はそれを計算して埋め込んでないというか、

逆に終盤近くにきて、パンできがつかせることができる。

と、おもっただけで、あとから考えると植え込みができていたというか。


まあ、こんな風ないきあたりばったりというか、

ひらめきというか、キャラクターの性格や考えで

うごかしていくわけです。


だから、いつもかいていて、思うのは、破綻しないかなってことなのです。


こいつこっちの考えてる方向(ストーリー)にうごいてくれる性格じゃないじゃんか。これ、打破できなかったら、この物語ぽしゃる。


毎度、そう心配して、どうやってきがつかせ、どう軌道修正するか。


じゃあ、ちゃんと構成ねって書いていったらといわれるかもしれない。


でもな、書いてみないとというか、登場人物をだしていかないと

各々の性格で、どういう方向をえらぶのか、さっぱり見えないんだ。


書いてみるから動き出すというのかな。


設定じゃ、人物はいきてこないというかなあ。


過去、一番苦しんだのは、白峰大神という作品のラスト。


この主人公の性格、考え方では、このラストはありえんって・・。

納得できるラストにもっていくことができず、

3日も筆がとまり、思いつけない。


終盤まできて、破綻かよ・・。


ま、でてきたんですが・・・。


そういう風な書き方をしてるので

ときにミスやらかしてます。


踊り娘も最初どういう設定をもくろんでいたのか、

姉を義姉とかいていました。


それをわすれはてて、人物の動きをかきとめていきましたので

今も義姉ってかいたままじゃないんだろうか/wwww


そこからして、何で義理の姉とくらしてるんだろうって疑問が解決できないんで

物語からはなれさせてしまうでしょうね。


たどたどしくて、ごめんにゃ、巧く説明できらん

時折、やっぱ、出版したいなって思うことがある。


が、


文芸社さんに問われたことが、

憂生に結論を導いてくれている。


「作家になりたいのですか?」


こういう質問だった。


ー出版はしたいけど、作家にはなりたくないー


おい!!


がきのわがままもいいとこだ。


だが、なぜ、そう考えるか?


憂生は自分の中で「気になること」を元に

文章をかいている。


いわゆる、事故追従・・あぶねえ・・

自己追従というかな。


ちこっと、スピリチュアル・・かな?のあたりにもかいたけど、

白蛇抄のテーマ(の、ひとつかな?)

「思いを救わねば、本当の救いにならぬ」

その考え方の追従だったわけだけど、

まさにこれが、現実生活、生き方?に反映してきて

自分はもとより、人を救うこともできて、

まあ、憂生にとっては仏教でいえば経典のような・・(おおげさなやっちゃあ)


一事が万事とはいえないが、

多くの作品はおぼろげにつかんでいることを

しっかり意識し、自覚し、

ミーイング(意義付け)にまでもちこもうという試行の末というか

憂生風自覚法というか。


(ま、大江健三郎のわが魂に洪水は及ぶの中の考え方なのだが)


意義付け、価値付け、ミーイングなんて、こむつかしい言い方だけど、

誰だって、これだけは譲れないとか

自分はそんな考え方しないぞとか、自分の価値観は持ってると思う。


そこを、もっと、しっかり、言葉で自覚していきたいといっていいかな。


そういう作業だから、

こういう風に考えていかなきゃいけないって

自覚するために書いたものが読まれたら

時に、赤い指輪の女性のように、その人をも救い出していく力がこめられていくんだと思う。


こんなものだから、出版して残しておけたらなっていうのがあったわけで、


いわゆる、商業ベース、娯楽作品(目的・あるいは、売れ筋作品)をかかなきゃいけなくなる、作家になりたくはなかった。


今の出版社の現状が金儲けのためでしかないのは、

明白なことで、おしむらく?さいわいなことに?

憂生の審査に通ったほうは、(これも憂生は審査にだしたつもりではない)

売れ筋ではなかったのだと思っていた。


と、言うのも後日、「良作をこのままねむらせるのはおしい」と

特別推奨作品に推したいと連絡がはいった。


しばらくはその額面通りにうけとっていた。


そこに企画部長から電話がはいり・・・。

「来年の大河ドラマが新撰組にきまったんですよ」


ぜひ、上梓されよ・・・。


つまり、売れ筋になるというか、NHKがスマップが宣伝?後押ししてくれるというか、その波にのれる。


どさくさにまぎれ、うれちゃう。と、ふんだわけだろう。

とりあえずは出版できる域にたっしていたし、

良作の範疇にはいるなら、

売れるだろうと判断したんだろう。


ま、いろいろあって、その話もことわったが、

この断った理由もあからさまに金儲けのためがでていて、

こちらの作品に対しての思い入れは見えなかった。


この状態ではたして、出版するきになれるだろうか?


特別推奨だから、思い切り値引きしますよといわれたときは、

むこうも商売。それでも、値引きしてでも

良作を世にだしてほしいとねがってくれてるのだと素直に信じた。


が、結局は金儲け。


そこに足を突っ込んだ憂生も悪い。


そして、この売れ筋をかかなきゃどうにもならないという考えを突き崩してくれている読者さまがいた。


「読み手にこびたものを書いたら読者はみぬくよ」

「さいきん、読者を意識していませんか?憂生は憂生のおもうようにかいてください」

などなど、売れ筋というのとは違うかもしれないけど

読み手に受ける作品をねらおうなどという方向にいきかけたら

読み手のほうからお叱りがくるという。


つまり、上にかいた自己追従というか、問いかけというか

憂生のミーイングか。それを必要としてくれる。

あるいは、共感、賛同してくれる読者がたくさんいてくれた。


まあ、読書を娯楽としてとらえ、感動できることに快感をおぼえるというのが

昨今の読書傾向だろう。

だが、本の中から人生の糧はおおげさながら、

たべにくい人生をたべやすくするエッセンスとして

わたりにくい人生をわたりやすくする杖として

本を読む人がいるのも事実だ。


その人たちにとって(自分を含め)必要な1冊になれたら、

憂生は作家になっているといっていいのではないかと思っている。


アホロートル。

ちと、ばて気味で、更新がおくれております。
すみません。
きっと、続きはどうなった?
って、
きにして、立ち寄ってくださってる方もいらっしゃるとおもうのですが・・・。
お登勢は、構想だけから類推するしかできませんが、/下書きありませんので/
丁寧に書き上げて行ったら、
かなりの量になると思うのです。
問題は、この一作品にいつまでも
かかずらわってる?集中力が
何処まで続いてゆくかという事です。
昔のパターン を考えると
自分でも愕くほど
遅筆になっているのです。
これは、
今に始まったことでなく、
転職 した頃から始まりました。
前職はどちらかというと、
単純作業の繰り返しで、
それこそ、仕事中に構想を練るなんてこともできて、帰宅してワードを開いたら即
物書きの世界に自分を移入できたのです。
が、今の仕事に変わってから、
現実世界から、物書き世界に
切り替える?
書く気分に自分を切り替えるのに、
今ひとつ、上手く行きません。
コレが此処何年間か
作品を量産できなくなった理由です。

現実世界と一種空想世界。
ふと、現実に根付いてない
自分に懐疑的になったり、
こんな程度のものしかかけない
自分に嫌気がさしたり、
時にこんな自分を元の状態に戻すことから
始まって、
そして書く・・・。
うまく、自分を維持できないことも多いのが
事実です。

物語はあくまでも、物語。
自分という現実とは
ちょっと異種の場所に飛ぶに、
滑空がうまく出来ない
あほう鳥になっています。

倦怠感

ものを書いていくとき、いつも、イメージと構想と・・
実際の打ち込み状態が違う。
久しぶりにぽつりぽつりと、連載をはじめているけど、構想状態のとき、この部分、どう表現しようか・・って、正直、乱雑におかれたピースを順番につかみとるむつかしさに、ボードをまえにひるむ。
ひるむんだけど、いざ、かきだすと、構想状態のときと違う・・・随分はしょった表現に成る。
なんで、こうなのかとおもう。
ただ、かきあがったものを見ると、なんとか、通じてるとは思うけど。
この状態は空にかかる橋くらいからはじまったと思う。
ただ、まだ症状?がひどくなかった。
最近は、がくりと落ちる。
白蛇抄第17話・・・これも、もっか、手詰まり中。
なんで、そんな話になったのかとおもうんだが、これは、ほとんど、構想が無い。
構想が無いから、書きながら、考えてる。
で、なにをするかというと、次のシーンだけを考える。
勝手なセリフが飛び出してくる。
繕嬉、おまえ・・・なんちゅうことをやってくれる。
澄明・・おまえ、何を言い出す。
もっか、そのつじつまあわせが浮かばない。
その昔このつじつまあわせが流れるように浮かんできた。
別段、今も昔もかわりゃしない。
ただ、今は間髪入れずにつじつまあわせが出来ない。
困った。
停滞は今始まったものじゃない。
のめりこめるひたむきさがなくなったのは、「虚無」のせい。
希薄とうすっぺらさ。
つまらない・・。この虚脱感は、まるで、映画、ネバーエンディングストーリーをみているような・・
この「虚無」をねじふせ、なんとか、筆をすすめていけるだけ、まだ、どろ沼に飲まれちゃ居ないと自分にいいかせてるくらいだから、つじつま合わせの遅滞なぞ、ひょっとすると些細なことでしかないのかもしれない

ごうつくばり

昨日の今日だけど、続きを少し打ち込んだ。
手詰まりの時は書くに限る。
標的が広大すぎるときは、周りからせめていく。
相変わらず、因縁そのものがまだ、見えてこない。
みえてこないちゅうのに、銀狼はその因縁そのものをたずねてしまうんだけど・・・/余計なことを~~/
まあ、でも、搦め手というわけでもないが、因縁というものを、定義したことにより、多少、道筋が出来てきた。
正直を言うと、おぼろげながら、一つ「因縁」を構想しているのだが、これを使うと、のちのちまであてはまるか、どうか、わからないのだ。
で、まず、定義を規定していく。これは、検索のごとく、当てはまる部分があるか、検索設定をおこなっているようなものだ。
物を書くときにおもうのだが、読むよりも書くほうがおもしろい、と、いうのは、この部分だと思う。
一種ナンバープレイスの謎解きをしていくような煎じ詰める思考。
ここにこの数字がはいるかどうか、周りの材料で探っていく。
こういう感覚ににたものが、「書く」には、ある。
そういう言い方で言えば、過去、初級のナンバープレイスをやっていたようなものかもしれない。
今は少し難易度が上がった。
周りの材料(提示されている数字)が少なすぎる。
すくなすぎて、調べ物が間に合わないのが聖徳太子にスポットを当てた物語「あおによし」であるが、これは、まだ、しばしかかりそうだ。
よしなしごとでの「歴史をかじってみる」で、自分の中の「?」と「!」を照会してみているが、この作業がまだまだ、当分かかる。
コンナ状態でありながら、連載を4本抱えた。
相変わらず、欲張りである。

たんにいってみただけ。

此処、しばらく、憂生は殆ど、本一つ読んでない。

よって、作品は、

何かに影響された物ではない。

時、同じ頃に

陰明師物が流行していたが、

この影響を受けるのが、いやで、

いっさい、読んでない。

似たような、発想、

同じようなことが

かかれているのかもしれないが、

それは、もっと、以前。

憂生をはぐくんできた環境からの

プレゼンスである。

ふにゃにゃにゃ~~ん

ただいま、ホームページ の編集に集中しております。
があああああ~~~。
ちょっと一休み。

皆様から頂いたコメントを掲示板に再掲載しているという作業なのですが・・・。

この掲示板の題名を
「たまゆら」だ・・と、ひらめきましたので、
そう、つけたのですが・・・。

おい、憂生の頭の中は音だけしかなかったね。

たまゆらと書いて
変換をかけると
なんと~~~~
「玉響」と、でます。

字を見てその通りだと納得しているわけですが・・・、
わが作品をして「玉」というこの根性こそ玉砕ものですが、
ま、それはおいといて~~~~。

この「玉響」
漢字を先に見たら
まず、憂生はたまゆら、なんて、よめないね。

たまひびき・・・。
ぎょくきょう・・・。

情けない以前に
ほう!!/今風に言うと
フォー・・・だな?

『フォー!!こう、書くのか!!』
って、感激しました。

あん?
単なる無知さらし?

おじゃまさまでした。

懐かしい話だ。

★ 絵描きのkさんの「小説に起したらどうなるか?」を、読んでいた。

なんだか、人事と思えない。

と、言うのも、これとは逆に憂生は表現方法が違う者の手にかかった、自分の作品を見たいと思った事があるから。

それは、僅かにAKIRAが「加代&Hiroki」のイラストを描いてくれたことで、

少しばかり見えたけど、ストーリー 物としてまでの作品に仕上げたくなるほどの物でないらしく、AKIRAの他にも、もう1人原文を送ってみたが、

漫画化は実現していない。

よく、考えてみればAKIRAはともかく、二人とも基本?がBL系。

こんな二人が基本を曲げて作品化する気に成るほどには、ストーリー性も薄い。

でも、どんな風になるか。

短く髪を切った加代の項の艶かさを他の男の目に晒したくなくて、Hirokiは紫色のイヤリング を加代に渡す。

十五の加代は[大人っぽい]と、無邪気に喜ぶ。

全体を通してHirokiの心理がイヤリングに象徴されてゆく。
自分の気分を飾るだけに加代を抱くHirokiが加代を捨てようとしている事に気が付いて、出て行ってしまった加代。

Hirokiはママさんから見つけたと、渡されたイヤリングを片一方残ったイヤリングの箱に揃えて入れ直す。
1話の最後で自分の本心に気が付いたHirokiがイヤリングを見詰め「俺みたいだ」と呟く。

イヤリングに籠められた本音に気が付いた時、Hirokiは本音を渡す相手をなくしていた。

イヤリングも二つ揃った時には飾ってくれる相手をなくしていた。

このラストを象徴する短い髪の加代が耳に揺らさす紫水晶 のイヤリングごと、

加代を独り占めしたかったはずのHirokiの本心が見えてくる加代のきれいな横顔をみたかった。

AKIRAのカットは、別れた二人がお互いを取り戻した所だろうかと思う。

おそらく2話目。もしかすると7話あたりのイメージかもしれない。

話がぞれてしまった。憂生にできるかな?と思うより先に、憂生風じゃお断りだろうな。

なんて思いながら、kさんの要望を読んでいると、服装や顔付きなどの表現がどんなふうに・・とある。

こりゃあ、お断りされちまう以前の問題と判った。

その辺りこそ、憂生が一番避けて通る描写なのだ。

この服装とか、表情の描写はTさんが適役だろうなあ。雰囲気あるもの。

誰でもいいと、言うのでなく、むしろ、「できるなら、※※さんにかいてほしい」といってしまったら、面倒な事が生じるかもしれない。

けど、名指しされた方も断るしかないかもしれないけど、それはそれで、嬉しい事だろう。

逆にいえば、誰でもいいくらいの物に時間をさきたくもないだろう。

憂生自身は前のトークで、ゴースト ライター のもがきを書いた事がある。

この場合は文vs文だから、自分で精進せよといえるが、絵では、Vsにならない。

どちらかというと、&になる。

憂生とて、絵にしたいなら自分で精進せよといわれたら、自分じゃかけない。

表現法が違うからこそ見てみたいんだと怒るだろうな。

こんな憂生で良ければと立候補したい所なんだけど、やっぱり、色んな尺の違いで、元からの設定から崩して憂生の物を構築してしまうと思う。

これは相手の物をないがしろにするだけになる。

どんな雰囲気になるかを見てみたかっただけの筈が下手すると否定感を味合わせるだけに成るかもしれない。

kさんとて、「憂生ならお断り」と、思っているだろうが、憂生も「立候補してみたくある」だけに留まった。

残念であるが文章おこしが出来るほどの才分がない。

これは更正、推敲力に繋がる物で、書く者には大切な要素なんだけど、こういう面を言えばMさんがひいでてるよね。

みんなの良い所だけを抽出するわけにいかず、それぞれの持味があればこそ、

あえて、誰と言えなかったんだとkさんはいうんじゃなかろうか?と、憂生は判ってるつもりなんだけど。

に、しても、またしても拙い憂生を露呈させてしまった。

でも、Kさんの気持ちはよく解るんだ。

で、↓がKさんが書いてくれた「悪童丸」

9751103fe7ce5413c6608c60dc7ac583_2

お仙、泣かすな。馬肥やせ

手紙 、他を郵便局に持っていったら、いつもの婦人がいらっしゃって

「どうなりました?」って尋ねられた。

「協力出版どまりでした」と、答えたら「?なんですか?」という。

協力出版の意味合いが判らないらしい。

細かく説明するのも煩わしいので

「出版社と半分づつ出版費用を分けてだすことです」と、答えた。

なぐさめるつもりか、

「それでも、すごいじゃないですか?」と、いってくれたので、

憂生は実情を話さなきゃならなくなった。

「だしたくても、軍資金がないんですよ」と、言った横に簡易封筒 が積まれてある。

「一筆啓上、云々で」と云う文字が入ってくればそれが直ぐに

「丸岡町の日本一短い手紙」の応募用紙だと判る。

「お仙、泣かすな。馬肥やせ」の短い手紙を書いた人の本拠地である

丸岡が日本一短い手紙コンクールを始めて、

もう随分経つと思うが、今回、一方通行の今までの手紙形式でなく

往復書簡という形の趣旨のものに変えて募集をかけていた。

是を見たとき、わが母が珍しく手紙を書いてきたその内容が浮かんできた。

くしくも味のある表現に、

文章を書く憂生の基が此処にあったかと思わされたのであるが、

この手紙を使わせてもらう事にした。・・

内容をとことん披露するほど、字数が無く、句読点などをぬいて、35文字まで。

一番ポイント になる一言を書いたらそれで、終わり。

でもだからこそ一番伝えたい事が凝縮される。

「お仙、泣かすな。馬肥やせ」に象徴される短い言葉の中に伝えたい事が

てんこもりになっており、父親不在の家人に心を砕く父親の心情があふれだしている。

いつだったかも、言った「文に書いてない事」が

あふれ出してくる文章のすごさに、少しばかり挑戦してみるつもりで、

母への返事も35文字までに押さえ、早速、投稿(?)です。

おまけに、手紙文の内容説明も100文字まで、もっと、いろんなことを説明したいけど

是さえ自分の心情だけに絞られ多くはその後ろに隠されたもので押しはかっていただくしかない。

どれだけ長く書いても本心がうまく伝わらない事ばかりであるのに、

むしろ、短い文章の方が簡単に伝わるのかもしれない。

短い手紙が伝わるには、お互いの信頼があるからだとおもう。

仮に「お仙、泣かすな。馬肥やせ」の主人公が

家人に厭味たらたらで口煩いだけの人間でしかなかったら、

この手紙の評価はもっとちがうものになっていただろう。

皆にとって、憂生と云う人間がどう見られているかは憂生に知る由もないことであるが。

ちなみに、このコンクールの賞は「お母さん 、私家出するからね」「はい。夕方までには戻るのよ、今日は貴方の好きなコロッケよ」とか、言うよな、内容。

いや。本当だよ・・。

憂生は物書きのつもりである。

だが、この物書きは自分の作品を

おこがましくて

「小説」などとよぶことはない。

小説と呼び切れないと自覚していながら、

何社かの出版社の公募や審査に投稿はしてみた。

結果的に言えば、版権物以外すべて

出版奨励(賞ではない)を受けた。

担当者も電話をかけてきてくれてまで

出版を勧めてくれたのだが、いかなこと・・。

提示金額がつりあわない。

逆にいい鴨にされてるとしか思えず、賞にまで食い込めない自分、

企画出版にまで持ち込めない自分の才の無さをしらされるばかりである。

こんなことを繰り返しているうちに、ネットをはじめた。

ネットをはじめりゃやっぱマイ・HPがほしくなる。

HPを作ると成ると当然自分の作品をあっぷしたい。

そうだ、何も本にして出版することばかりが読んで貰う手立てじゃない。

そう気が付いた憂生は全作品をHPに載せた。

出版社への投稿も止めた。

いや、憂生がやめなくても・・・。

3年前に短編を投稿しただけの、渦夜のところに投稿案内書がくるというのに、

憂生のところには、投稿を繰り返した同じ出版社であるにかかわらず案内書の1っもこない。

何度、何作品、出版を薦められても、結局資金 が無いと断る憂生に向こうも業をにやしたか?

でも、それって結局、鴨でしかなかったことを肯定されているともいえる。

つくづく、中途半端な物書きである。

やはり、どう、贔屓目に見ても

「文章作品」と呼ぶしかない。

大手を振って、胸をはって、

「小説を書いてます」

と、いえるものを、死ぬまでには書きたいものである。

そして、色々よんでくださっている、皆様。

本当にお目汚しのつたない作品を読んでくれて

有難う。

憂生は感謝の一念に、

どこにも足を向けて寝られず

立って寝てます。

あ?地球の裏側の人まで・・よんでないよな?

*追記*

なんてことを、書いたのが、初期の頃ですが、後年、地球の裏側からのコンタクトがありまして、翻訳で読んでくださるのですが、これが、履歴に残り、英語の場合、中国語の場合、その翻訳に大笑いしました。《どこかに記事があります。まじめに書いてる分も逆に翻訳では漢字の感じがつかめるだろうか?と懸念してみたり》とても、読めない言語に翻訳されてたりしていて、スペインやトルコとか?憂生もグローバルになったもんだと、喜んだ反面、いまや宙に浮いて寝ることになってしまいましたとさ。

どんぐりにもなれない。  

大体において、

身近なところに

ライバル?はいるものである。

そして、このライバルほど

平気でこっちを

ライバル視してくれないのである。

つまり、ひとり相撲と言う所。

ある意味。

あきら,然り。

渦・・。然り。

特に、渦。

お前の実力が外にむいたら、

憂生が書いてるものなど、

ぷううう~~~である。

あきら。

アンタの表現には、

脱帽である。

プロレベルの表現力。

あるいは、感性。

これはいくら、磨いても

身に付くものじゃない。

もって生まれたものでしかない。

残念ながら、

憂生は自分をそう、なだめるしかない。

本物はやはり初めから本物である。

付け焼刃のメッキでもはげなきゃ

本物。

いつか、つよがってみせたが、

選民というのは、ある。

何となく・・思う・・ことのまま・・

いくら、正しくても
いくら、尊くても・・・。

・・・。
自らの口から発する時
それらの物事が
相手に沁み、通じる
たった一つの根本がある。

それは、実に単純で
実に明白なこと。

己自らが通ってきた物事かどうか・・・。

言葉に愛があるか・・
底に愛があるか、どうか・・・。

ある。

それでも、通じない時がある。

この時ほど、痛切に思わされる。

小枝を書いたときにも少し触れたが
自分が通ってきた道だからこそ、
父、幸太を頷かせることが出来る。

いくら正しくても、
いくら、相手を思い
親身になっても
通じない。

それは、
時に自分が通ってない。
自分が出来てない。
そのせい。

言葉の中に温かみがあっても
重みがないと、
心の底に沈みこまない。

親の恩が
心の底に沈みこんで
トキに
沈み込んでいることさえ
気がつかない・・。
そんなこともあるけれど、

それも、
親がまた、親の子である道をとおってきたからこそ、
子供の中に沈みこませる重み。

これだけは、誰もが口に出せる通り越し。

親なくして子はありえぬから。

コメント

話変わり?ますけども。

例の巻物の件、「ブログ」という形式に
こだわり過ぎてた自分を発見できました!

いつも有り難うございます。

「Double Eyes」が一番「巻」に近いですよね!
そこから(じっくり)やってみまーす!!

そうすれば、更に表現の幅が広がるかなっ♪
投稿者:osorakukaraoke (2006 12/26 8:57)
広げて、選び、捨てる。

ずっとずっと繰り返し~♪
投稿者:osorakukaraoke (2006 12/26 9:12)
1章ごとのページにして、次のページをくりっくしてもらう形式とスクロールして、/ページごとつなげる形式とどっちでもいけるし、
もう少し、写真を小さくして、3~4並べて
側面に文章をいれていくとか、
並べ方をかえるとか、エフェクト使えば、文章の印象がかわるし・・。
1画面で、文章と画像をブッキングさせたほうが、良いとは思う。
投稿者:hakujya (2006 12/26 18:51)
なるほど!さすが師範代!
(ヨイショ♪ヨイショ♪)

そう考えると「ブログ」でも
出来ますよね。そーゆー見せ方。

生の新作書き下ろす信州のスタイルは
熱心?な追っかけファン様向けとしても
僕のやりやすい素のままあのままにして

営業出稼ぎ先であるヤフーブログと
「draw-the-line」での見せ方を
もう一回練り直してみます!!

こうしちゃおれんおれんわいわい♪
投稿者:osorakukaraoke (2006 12/26 19:52)
憂生は一時期ブック型で作品群をアップしようと、してみたことがある。
ところが、契約は100MB・・・。
のせきれなかった。
それで、ファイル・リンクにきりかえた。
ワードファイルを利用して・・。
それを利用すれば、ワードで編集したものを
そのまま、つなげる。
投稿者:hakujya (2006 12/26 23:8)
画像がはいると、どうなるか、わからないが
前のHPは、ゲスト画像もあったし、
HP自体のページ数も100ページあった。
だから、多分画像付きのワードファイルでも、
十分、こなせる。今、レンタルサーバー、無料でも、200MBなんてとこ、ざらだし・・。

ワード編集して、ファイルリンクにしたほうが、かなり、自由にできるのでは?
投稿者:hakujya (2006 12/26 23:8)
あ、無論、ワードはウェブ文書にして
画像を載せる。
投稿者:hakujya (2006 12/26 23:9)
理解してます。
もうだいじょぶっすよー。

経験からの貴重な言、ありがとうございました♪

でわ思考錯誤に入りますので
ちょいとおイトマいっただきまーす!
(draw-the-line版の「Band Width」も
その答で、年明けからやり直します!)


ひでえ、肩こりにやられて、

暫く、パソコンを放棄しておりました。
眼精疲労が、夏のくたびれに拍車をかけていると、判断しました。
正解でした。
最近、仕事も忙しくなってきて
いや、正確には、
体力不足を感じ、
いつものように、2時、3時と
起きて描くことも不安材料になってしまってます。
たまにここを覗きにきていたのですが
本当、返信もせず、申し訳有りませんでした。

それでもブログにはぽつぽつ手をつけていたのですが、ある日・・・・。

ちょっと記事をあげたら、物凄い/憂生にとっては・・・/ヒットがあって・・・。
通常30~もあったら良い状態に
200以上のヒット・・・。

コレにはかんがえさせられたというか、
ショックだったというか・・・・。

結局・・・。
検索サイトに取り上げられなきゃ
読まれないのか?
と、いうか・・・。

その時の興味を引く記事を読み終えたら
終。

他の作品もよんでみたいと思わせることが出来ない自分を見せ付けられ・・・・。
意気消沈。

てな、事態がありました。

こうなると、
自己反省・・・が始まります。

つまるところ、
作品のレベルがどうこうでなく、
憂生が読み手をいしきした・・・。
あるいは読み手をひこうとこびた意識で物を書いている。
コトに気が付くわけです。

しばらく、自分をほっておこうと思いました。

第一義としては、自分が書きたいことをかくべきであり、
読んでもらうことを先にしたものでは、
コレはむしろ、脅迫観念に近い。

描かなきゃ、更新し続けなきゃ
読んでもらえない。
それも、結局、古い作品を掘り起こしてまでよんでやろうというものでなく、
新鮮?さだけを売りにしてゆく?

と、自分をおいつめたところがありましたので、かなり、描きたくなる自分を取り戻すまで、放置を決め込みました。

今、また・・・。
ぽつぽつ、描いてゆこうと思っております。

スランプ状態打破のために

スランプ状態打破のために
無理やり?
ぽつぽつ、書いておりますが。
どうも、相変わらず低空飛行です。

と、いいつつ、この踊り娘もそろそろ、
終わりをむかえられそうです。

スランプ打破。
物書きドリル。
と、いうところで、
前回懸案だったアダルト。
輝の作品の設定と同じにしたものを
YOUが書いていたのですが
憂生もトライしてみました。

で、hakujyaのほうには、
暗中模索のカテゴリーで
括ったのですが

どうも、
今回の踊り娘も
まだ、しっかり、
暗中模索状態。

これも、暗中模索のカテゴリーに
いれるべきか?

いくつか、
不納得の作品があるのですが、
だんだん、
症状がひどくなってきて・・・。

まだ・・・。
洞の祠への復帰は
実に・・・・
怪しい!!

意気地なし?

レガち♪のコメントに続けて書こうと思ったけど。
どうも、だらりんとのびてゆきそうなので、
住人の特権/むふっ!/スレッドにかくことにした。
昨日はシーサーの方に洞の祠を揚げなおした。
/おかげで、それが訪問数トップをとっていたが・・・。/

と、いうのも、アマロの続きを書くに・・・
これから、ちょい、またも、不埒なシーン にはいる/予定/
ところが、
紀文・・・/かまぼこかああああああ/
気分屋である。
どうも、やらしいのを書く気分になってない。

しょうかたないのおと、
洞の祠をかくべい、と、用意だけした。

用意をしたものの、イザ、書くとなると・・・。
もう一度、読み直さねば
つじつまが合わぬことを/既に書いているが/かきこみそうで
読んだ。

読んだ結果。

自分に感心した。

いや、性格/性格のことはいい!!
いや、正確には
自分?という意識がないな。

と、思うほど
おい、この文体とりもどせるかと思うほど
他人のような気分。/良かった、かまぼこに変換しなかった/

重複と主語が分からなくなりそうな修飾語の羅列。
受け身と能動をまちがえてないから、
なんとか、読み取れるけど、
本当に、読みにくい。
考えて読まなきゃならないような
書き方をするから
自分でも訳が判らなくなりそうになりながら
よんだ。

ときおり、
都合よくしょっぴいてるのがあって、
説明してない部分も発見するが・・
ま、それはおいといて・・・。

アマロも長いこと放置しておいて
又、書いているから
おかげで
途中から、文体が違う。

どちらかというと
「空に架かる橋」や「小夜」のスタイル に近い。

洞の祠・・・それも、こうなるか?

不・・不・・不安・・で、
結局
読み直すだけで・・・終ってしまった|←あほ。

とんずら~~~~。

いつか、レガち♪が、
「忙しい時ほどよく書ける」
的発言をしたわけだ。
♂の本能?種族繁栄の本能つ~~のが、
書き物にもあてはまっちまうってとこらしい。
が、
どうも~~~~~~。
憂生はそうはいかないらしい。
一時期、ぷ~太郎になっていて・・・。
暇をもてあますこと、しばし。
いや・・・・暫時。

ならば、書けるだろうと思ったのだが、
これが、
ほとんど、かけない。

そして、仕事をはじめて・・・。

慣れるまでは、やはり、仕方が無い。

ようやく、慣れてきて
書くものもある。

まあ、TPOと、よくいうもので、
時間と相手と物件/目的/手段
この3っつがそろうということが、
むつかしいもので、
友人と呑みに行こうなんて、思っても、
どれかが、欠ける。
金がないなんてのも、一つの破壊条件である。

ところが、書き物は
みつどもえでない場合が多い。

だから、今日のように、
時間も有って構想もできていて、
これといった用事もない。

絶好のライテイングタイム。

の、ハズが・・・・。

なんだろうね?

先に踊り娘・9をあげていると、
すぐに、次を書こうという気になれない。

底のところでは、
これを終らせて
宿根の星・・・

新之助シリーズ第10弾/わお!!

洞の祠

また、話がそれるが
今回、ジャック・スパロゥにひっかかってしまって、
憂生の物語の中にも、ひとつ、海賊が登場するものがたりがあるわけで、
それが、無性に気にかかるんだな。

で、
アマロ

二次創作BL
ポーの一族から、
【ロビンの瞳】
か・・・
あ~~~~。
あるいは、
構想ノートのとりあえず移行。
/ゲームストーリー的ファンタジー?
か・・・

と、かくのごとく、次にすすみたい
プッシュ物件を内包しているわけで、

だったら、はやく、かきあげろ。

もしくは、
ダブルブッキング
ならぬ、
10thブッキング?

だが、
両立はやめた。

いつだったかも、6編連載して・・・。

結局、いっそう、「続きを書く」がふえてしまって・・・。

そうそう、団子が食いてぇ~~~~なんかも、
ここ近辺の踊り娘もそのころ/以前?/の産物。

なんでだろ。

一時の馬鹿ほど書くがとまっちまったのは・・・。

いずれにせよ。

今日はどこかで、10をあげようとは思っている。

思っているが、
それがいつになるか、わからないし~~~。

不覚にも、呑んでねちまうかもしんない。

って、結局、此処に何を書いたんだ?

むむむ・・・非常に無責任で終る。

なるほど・・

物書き修行をかねた、アダルト小説(憂生は自分を小説家というジャンルに分類していない。だから、書いたものは小説でなく、作品とか、物語と呼ぶことが多いが、たまに物書き(小説家でも、作家でもない)が、自称して、大言壮語・・小説ということもあ~~~る)

あ・・・。(   )内が長すぎた。

で、仕切りなおし。

物書き修行をかねた、アダルト小説はアメンバーで発表するという手もある。


だが~~~~~~~~~。

こう言った。

アメンバー機能による露出趣味にいやけがさして・・・。

とか。

内緒話をしてますよを堂々とする。


これやなんだよな~~~~~~~。


出せないものなら、はじめから出すな。


ブログってものは、通常、公開を目的とする。


どうしても、内緒にしたいなら、裏メールとか、使え!!


ってさ===========。


こういう考えなわけ。


だから、アメンバー機能使う気は無かった。


これをアダルト小説発表の場所にする。


すると、なかには出会い系サイトに誘導する輩がアメンバー申請してきたり、

アダルト小説読んで、私にも。。して・・なんて、馬鹿を言い出すメールが舞い込む。

(なんで、そういうことをいいだすかは、そのアダルト小説よんでみなきゃわからないことだけど・・・)

これは、過去、他所でアダルト小説を発表したあとに、おきた現象。

はっきり、言ってうざい!!

BLかけば、ホモセクシュアルか?ゲイのお兄さんがおいかけまわしれくれるし・・・。


あくまでも、物書きの幅をひろげてみるつもりが・・えらい目にあう。

そう考えるとアメンバーに書くことは

逆に、せっかくきてくれた人を告発する・・結果を選ぶという事態を生みかねない。


ここのところをわかってくれて、アメンバー申請してくれるか、どうか?


それをかんがえると、やはり、テーマの一つにしたほうがよいか?


そして、はじめに迷ったように、憂生の真摯部分を解してない状況でのアダルト発表は

うはうは気分の人間だけ寄せ集め、結局、真摯部分を解されない自分の力量に落ち込む。


とは、言うものの、物書き。


どこまで自分が書けるか、挑戦した作品。


それなりに大事。


もう少し時期をまつべきかと思いながら、出来うる限りの「真摯」をひけらかすのが先とも思う。


こ=====んな事を考えずにアダルトや官能小説をおもうままに、発表できる御仁がうらやましくも思うのである。

☆☆☆ ぼやき・その参 ☆☆☆

いつだったか、憂生が何故時代物を書こうとするかを分析してみたいといった。
答えは簡単なきがする。
多分に今の観念では語れない心理を描きたいせいだ。
今の観念で何故かたれないかというと、
今の人々はあまりにも、頭が良すぎる。
頭が良すぎる人をモチーフに使うと設定から覆される。
極端に喩えてみるが、憂生の作品に木乃伊を扱うものがある。
其の木乃伊の魂が抜け出していて、そこらを徘徊しているのであるが、
是を現代観念にてらしあわせると、
まず科学的な証明が必要になり、
抜け出た魂の居場所を言い当てる陰陽師 は人心不安誘発の罪にとわれるか、
虚言癖もしくは妄想癖のある異常者にされ、
さらにこんな誇大妄想の人間の言葉をあっさりと信じる村人もあやしい。と、こうなってくる。
沼に沈んだ斧を取りに行く女神の話しがあるが、
この女神の存在を素直に信じるのも昔の物語ゆえであろう。
今の設定なら、まず女神なるものが現われた時から
斧を落した男は自分の精神状態を疑りだす。
それでも素直に鉄の斧をおとしたと告げても、
其の正直さをめでて、金の斧までくれるという女神に
新手の悪徳商売に引っ掛かってはいかぬと用心するだけである。
こんなに賢い今の人を、正直だというだけで、
金の斧を与えられる在り難き物語の設定につっこむことは不可能である。
馬鹿で阿呆で単純。
些細な優しさに感動し、与えられた運命を享受する人々は無理難題を言う殿様さえ敬う。
それはひとえに己がちっぽけな存在としっており、
周りは賢いひとばかりだとしっているから、木乃伊の魂を見通す陰陽師をうたぐりもしない。
愚者の智を知る時代物の往来の人々は物語をすんなりとすすめてくれる。

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